合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――中学生当時、合唱組曲「阿賀野川」を歌ってみていかがでしたか?
あの当時は、音楽の授業と言えばとにかく「阿賀野川」ばっかりでした。
まぁ、それでもやっぱり1年、2年と歌っている間に歌詞の意味がよくわかってきて…。
そのおかげで、歌ってる中での感情の込め方っていうのも変わってきましたね。
だから最初はとりあえず必死に覚えて、ただ歌ってればいいかなっていう感じの始まりでした。
ひと通り歌えるようになって、あとからしっかり感情を込めるという。
小学校ではアカペラの合唱で発表会とかも出てたんです。
昔から歌が好きなのも、小学校でやってたからなんでしょうね。
だから「阿賀野川」も頑張って取り組んでましたね~。
――中学時代はどんな思い出がありますか?
たぶん3年生の時に、新潟市音楽文化会館だったと思うんですけど。
中学校や三川村(現阿賀町)の外に出て、大勢の人の前で歌うというのは初めてのことでしたね。
本番前に会場の外で1時間以上発声練習をしたんですけど、ホント外ですよ控室とかじゃなくって、青空の下(笑)。
その時の音出し役をやったのが私でした。
今みたいに機械なんかなかったからね。
例えば、私が「ド」の音で「あーーー♪」って歌うと、みんなもそれに合わせて音程を取る。
私が一番音感があると言われて、その役を任されたんです。
本番のことはと言うと、緊張もしてたし、もう集中して歌ったので今となってはあんまり覚えてません(笑)。
でも歌った後の満足感はよく覚えてますけどね。
――20年間歌い継がれてきたことについてお聞きしたいんですが。
よく20年間歌ってきたなぁと思います。
歌い継ぐことに関しては、毎年同じような力の入れ方でやってきたんじゃないかなぁ。
機会があれば私も歌えるはずなので、ぜひまた歌ってみたいと思います。
コンサートがあった時に、最後全員合唱で第二曲「ふるさとの将軍杉」を歌うんですが。
やっぱり楽譜がなくても、自分のパートは歌えます。
身体に染み込んでますよね~。
絶やすことなくっていうのは大変なことかもしれませんが、この先も長く歌われ続けて欲しいです。
自分たちも「阿賀野川」に強い思い入れもありますので。
もう「合唱と言えば『阿賀野川』」、「音楽と言えば『阿賀野川』」ですからね(笑)。
大事な歌です。
うちの娘も今小学校3年生だから、あと数年もすれば学校で歌います。
でも、実はもう全曲歌えるんですよ。
5年ぐらい前から、私の母と一緒に合唱団の練習に付いて行ってるので。
耳が良いみたいで、各パートのメロディーを聴き分けられるんです。
親(母)、子(自分)、孫(娘)の三世代でこの「阿賀野川」を歌えますね(笑)。
――思い入れの深い1曲を選ぶとしたら?
実際私が歌ってた頃は、第三曲「羽越大災害」を大切に感じてました。
水害のことが歌詞の中に一番多く出てくるし、歌っててイメージが伝わってくるのもやっぱりこの歌かなと。
組曲自体が羽越水害をテーマとしているので、核となる曲は「羽越大災害」かなと思っていました。
でも今は、そうじゃないなと。
今は第四曲「悲歌」が一番いいですね。
聴いてても、詩を読んでみてもしみじみと思います。
昨年、地震や水害のニュースを見ながら居たたまれなくなりました。
やっぱりそういう辛いことが起こった後、頑張らなくてはいけないっていうのが「悲歌」には込められていて。
それを考えると、この「悲歌」っていいなぁと思うようになりましたね。
――阿賀町で好きなスポットなどありますか?
道の駅「阿賀の里」にある「じぱんぐ」!
いいですね、よく行きます。
買い物もするんですけど、行くと落ち着くんですよね。
ここ2~3年の間、休みの日はよく子供連れて行ってはぷらぷらしてます。
近所にあるんだけどちょっと遠くに来た感じもするし。
実際行くと知ってる人が働いてたり、観光バスを眺めてたり、結構好きな場所ですね。
ひょいと行けるところがいいですね。
――柾木さんにとっての阿賀野川とは、何でしょう?
自分の中で、音楽のベースを作ってくれた感じがしますね。
音楽の授業がそれしかなかったっていうのもあるけど(笑)。
「阿賀野川」で楽譜も読めるようになったし、人前で歌うっていう経験もさせてもらったし。
頑張ってやってきたなぁと思います。
なので今回、今まで歌われてきた合唱組曲「阿賀野川」をロック調にアレンジするという企画には、かなり期待しています(笑)。
自分の知ってる「阿賀野川」が、原型がなくなるくらいまで変わっちゃうのか、またそうじゃないのか…。
その辺が気になってきたりして、これからどういうふうになっていくのかなぁ。
ウェブサイトを頻繁に見て、最新情報もチェックしたいと思います。
柾木 健
1980年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成6年度三川中学校卒業生
パート:テノール
新潟市秋葉区にて、東京都内で走る通勤電車を作っている
現在1児のパパ
2012年2月27日月曜日
2012年2月24日金曜日
「第20回 合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会 メッセージボードより Part7」
平成23年10月22日、阿賀町文化福祉会館にて「合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会」が開かれた。
記念すべき第20回目となる今年のスローガンは、「届けよう 希望の歌 ~20年分の思いとともに~」。
三川中学校の生徒達は、昭和42年三川村に甚大な被害をもたらした羽越水害の悲しみや復興への希望を、今年7月の新潟・福島豪雨と重ね合わせていた。
当日、会場入り口に設置された生徒達直筆によるメッセージボードから、その言葉の一部を紹介する。
20周年という記念すべき年なので、歌いつぐ会を成功させることができるように、顔の表情を気をつけたり、体を使って表現したりしたいです。
緊張することもあると思いますが、みなさまに、私達の思いを届けることができるよう一生懸命に歌いたいと思います。
最高の歌いつぐ会にしたいと思いますので今日はよろしくお願いします。
今日は阿賀野川を聴きにきてくださり、本当にありがとうございます。
(3年生女子生徒)
今年は、阿賀野川を歌いつぐ会が20年目を迎えた記念すべき年でもあり、災害にみまわれた年でもあります。
そして、合唱組曲阿賀野川は、羽越水害という災害にたいしての鎮魂歌です。
なので、阿賀野川を聴きにきてくださった方々に希望と感動をあたえられるようにがんばりたいです。
(3年生男子生徒)
記念すべき第20回目となる今年のスローガンは、「届けよう 希望の歌 ~20年分の思いとともに~」。
三川中学校の生徒達は、昭和42年三川村に甚大な被害をもたらした羽越水害の悲しみや復興への希望を、今年7月の新潟・福島豪雨と重ね合わせていた。
当日、会場入り口に設置された生徒達直筆によるメッセージボードから、その言葉の一部を紹介する。
20周年という記念すべき年なので、歌いつぐ会を成功させることができるように、顔の表情を気をつけたり、体を使って表現したりしたいです。
緊張することもあると思いますが、みなさまに、私達の思いを届けることができるよう一生懸命に歌いたいと思います。
最高の歌いつぐ会にしたいと思いますので今日はよろしくお願いします。
今日は阿賀野川を聴きにきてくださり、本当にありがとうございます。
(3年生女子生徒)
今年は、阿賀野川を歌いつぐ会が20年目を迎えた記念すべき年でもあり、災害にみまわれた年でもあります。
そして、合唱組曲阿賀野川は、羽越水害という災害にたいしての鎮魂歌です。
なので、阿賀野川を聴きにきてくださった方々に希望と感動をあたえられるようにがんばりたいです。
(3年生男子生徒)
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年2月20日月曜日
「石井 智子 インタビュー」
阿賀野川ライン舟下り――。
悠々と流れる阿賀野川を、四季折々の表情を映す渓谷美を眺めながら旅をする。
その案内役は、阿賀野川を愛する個性豊かな船頭たちだ。
“阿賀野川は知ろうとすればする程奥が深い”と語る彼女の愛読書は「阿賀町ものしりガイドブック」だ。
自分の中で嬉しいことがあったり悲しいことがあったりすると、それは阿賀野川も一緒かなって思います。
――船頭になったきっかけを教えてください。
はい。
今から3年ぐらい前になるんだけど…。
当時ガイド・船長をされてた方に誘われたのがきっかけです。
“私でも務まるようなら…”と引き受けました。
それまで、私はラーメン屋で働いてまして、船になんて乗ったことも全然なかったんです。
接客業をやってたのでお客さまと話すのは好きでしたけど、川や町の案内なんて当然初めてのことでした。
――実際ガイドのお仕事で大変だったことはありますか?
最初、“ガイドっていうのは、しゃべってればいいんだよ”って言われてたから…。
正直、楽な考えでいましたけど、思った以上に苦労はしました。
いざお客さまを目の前にすると、やっぱりしゃべれない。
緊張もあって、歌もうたえないし。
本当にもう涙、涙で…。
お客さまからクレームなんかもいただいたりね。
でもそんな時に、上司から“クレーム言ってくれるお客さまは、また来てくれるお客さまなんだよ”と教えてもらいました。
“あんなガイドさんみたいになりたい”とか、“あの人のいいところを盗もう”みたいな気持ちになって仕事と向き合わないとダメだと思いましたね。
それからは、とにかく他のガイドさんの船に乗せてもらって、何でもいいところは盗んで勉強させてもらいました(笑)。
それでようやく私にも、お客様から“あなたの船に乗って良かった、楽しかったよ”という手紙が届くようになりました。
努力した甲斐があったかな、って思いますね。
――そういったお手紙も届くんですね~。やっぱり嬉しいですよね!
はい!
写真同封で送られてきたりもしますしね。
指名もあるんですよ(笑)。
「石井さんの船がいい」って言ってね~。
以前乗船したお客さまが、口コミで宣伝してくれたりね。
逆に、指名もしてないのに“4回来て、4回ともアンタの船だよー”っていうご縁もあったり。
だからいろんな人との出会いもあるから、楽しいですね。
――印象に残ってるお客さんはいましたか?
錦野旦さん!
旅番組の取材で来られてたんです。
スターでしたね~(笑)いやほんっとに。
パフォーマンスというかサービス精神というかね。
ものすごかった!!(笑)
生オケで「空に太陽がある限り」を歌ってくれました。
他にも思い出に残ってるのは黒田アーサーさん、エンカ尺八の横山横山(よこやまおうざん)さん、元アルビレックス新潟の西大伍さん、など。
――石井さんは五泉市のご出身ということですが、阿賀町についてはいかがですか?
本音を言うと、最初は“こんな田舎~”と思いました。
でも、この船頭の仕事をするようになってなお思ったことが、魅力がたくさんあるということ。
まだまだ知られていないところもいっぱいあるけど、本当に自然は豊かですし、歴史深い町かなって思います。
阿賀町だけで縄文清水や琴平清水など、清水が湧き出ているところが数ヶ所あって、それも魅力のひとつ。
道の駅「阿賀の里」でも山から「桂清水」を引っ張ってきてあって、自由に飲むこともできますよ。
毎日ポリタンクを持った人が水汲みに訪れてますね~。
――合唱×ROCK「阿賀野川」プロジェクトについていかがですか?
本当にいいことだと思います。
阿賀町(旧三川村)の歴史や、阿賀野川のことを伝えられて、素晴らしい企画だと思います。
組曲の中には、「阿賀の里」という曲もあるんですね。
道の駅「阿賀の里」のPRにもなります(笑)。
阿賀町だけじゃなくて、阿賀野川が流れてる近隣の町の人にも聴いてもらいたいですね。
例えば阿賀野市だったり、新潟市に入っても松浜あたりまで、みんな阿賀野川で繋がっていますので。
――石井さんにとって、阿賀野川とは何でしょうか?
「私のこころ」です。
自分の中で嬉しいことがあったり悲しいことがあったりすると、それは阿賀野川も一緒かなって思います。
やっぱりね、阿賀野川の流れを見ていれば心も落ち着くし…。
辛いことがあっても川見ていれば忘れられるかなー、とか。
私が悲しいと川も悲しいかな、みたいな。
イライラしていれば川の流れも荒々しいかな、みたいな。
自分の気持ちの様な、こころのような川です。
――最後に読者へ向けてメッセージをどうぞ。
私、船頭になってから知ったことがあるんです。
「梅干しの種は絶対に川へ捨ててはならない」んですよ。
それはね、船神様というのは女の神様と言われていまして。
梅干しの酸っぱいのが、大っきらいなんだそうです。
だから私はもちろんベテランの船頭であっても、弁当やおにぎりに入ってる梅干しの種は持って帰ります。
船頭たる人間、してはいけないことなんですよ。
だから、一般の方にもこのことは是非知っていただきたいですね。
船頭たちそれぞれ個性的なガイドをするので、全員の船に乗ってみなければ本当の阿賀野川はわからないと思います(笑)。
なのでまだライン下りに来たことがないという方も、一度でいいから乗船し、ガイドの話を聞いていただきたいです。
私たちもしゃべる事が仕事なので、お客さまに来ていただかないと、仕事が…ない…(切実)。
昔のように賑やかなライン下りに戻って欲しいな、というのが本音ですかね。
でも船頭という仕事は、この世だけじゃなくって、あの世へ行っても「舟渡し」という職がありますから(笑)。
仕事が切れることがないんです。
噂では、あの世の船も船外機(※1)になったそうです(笑)。
石井 智子
1980年生まれ
新潟県五泉市出身
阿賀町(旧三川村)に嫁いで8年目
2009年7月に5人目の女性船頭としてデビュー
(※1)船外機
一般的に上部のエンジンとその補機、ギア、クラッチ、伝動シャフトなどの動力伝達系、スクリュー等が一体となった船舶の推進ユニット。
アウトボードドライブとも呼ばれる。
悠々と流れる阿賀野川を、四季折々の表情を映す渓谷美を眺めながら旅をする。
その案内役は、阿賀野川を愛する個性豊かな船頭たちだ。
“阿賀野川は知ろうとすればする程奥が深い”と語る彼女の愛読書は「阿賀町ものしりガイドブック」だ。
自分の中で嬉しいことがあったり悲しいことがあったりすると、それは阿賀野川も一緒かなって思います。
――船頭になったきっかけを教えてください。
はい。
今から3年ぐらい前になるんだけど…。
当時ガイド・船長をされてた方に誘われたのがきっかけです。
“私でも務まるようなら…”と引き受けました。
それまで、私はラーメン屋で働いてまして、船になんて乗ったことも全然なかったんです。
接客業をやってたのでお客さまと話すのは好きでしたけど、川や町の案内なんて当然初めてのことでした。
――実際ガイドのお仕事で大変だったことはありますか?
最初、“ガイドっていうのは、しゃべってればいいんだよ”って言われてたから…。
正直、楽な考えでいましたけど、思った以上に苦労はしました。
いざお客さまを目の前にすると、やっぱりしゃべれない。
緊張もあって、歌もうたえないし。
本当にもう涙、涙で…。
お客さまからクレームなんかもいただいたりね。
でもそんな時に、上司から“クレーム言ってくれるお客さまは、また来てくれるお客さまなんだよ”と教えてもらいました。
“あんなガイドさんみたいになりたい”とか、“あの人のいいところを盗もう”みたいな気持ちになって仕事と向き合わないとダメだと思いましたね。
それからは、とにかく他のガイドさんの船に乗せてもらって、何でもいいところは盗んで勉強させてもらいました(笑)。
それでようやく私にも、お客様から“あなたの船に乗って良かった、楽しかったよ”という手紙が届くようになりました。
努力した甲斐があったかな、って思いますね。
――そういったお手紙も届くんですね~。やっぱり嬉しいですよね!
はい!
写真同封で送られてきたりもしますしね。
指名もあるんですよ(笑)。
「石井さんの船がいい」って言ってね~。
以前乗船したお客さまが、口コミで宣伝してくれたりね。
逆に、指名もしてないのに“4回来て、4回ともアンタの船だよー”っていうご縁もあったり。
だからいろんな人との出会いもあるから、楽しいですね。
――印象に残ってるお客さんはいましたか?
錦野旦さん!
旅番組の取材で来られてたんです。
スターでしたね~(笑)いやほんっとに。
パフォーマンスというかサービス精神というかね。
ものすごかった!!(笑)
生オケで「空に太陽がある限り」を歌ってくれました。
他にも思い出に残ってるのは黒田アーサーさん、エンカ尺八の横山横山(よこやまおうざん)さん、元アルビレックス新潟の西大伍さん、など。
――石井さんは五泉市のご出身ということですが、阿賀町についてはいかがですか?
本音を言うと、最初は“こんな田舎~”と思いました。
でも、この船頭の仕事をするようになってなお思ったことが、魅力がたくさんあるということ。
まだまだ知られていないところもいっぱいあるけど、本当に自然は豊かですし、歴史深い町かなって思います。
阿賀町だけで縄文清水や琴平清水など、清水が湧き出ているところが数ヶ所あって、それも魅力のひとつ。
道の駅「阿賀の里」でも山から「桂清水」を引っ張ってきてあって、自由に飲むこともできますよ。
毎日ポリタンクを持った人が水汲みに訪れてますね~。
――合唱×ROCK「阿賀野川」プロジェクトについていかがですか?
本当にいいことだと思います。
阿賀町(旧三川村)の歴史や、阿賀野川のことを伝えられて、素晴らしい企画だと思います。
組曲の中には、「阿賀の里」という曲もあるんですね。
道の駅「阿賀の里」のPRにもなります(笑)。
阿賀町だけじゃなくて、阿賀野川が流れてる近隣の町の人にも聴いてもらいたいですね。
例えば阿賀野市だったり、新潟市に入っても松浜あたりまで、みんな阿賀野川で繋がっていますので。
――石井さんにとって、阿賀野川とは何でしょうか?
「私のこころ」です。
自分の中で嬉しいことがあったり悲しいことがあったりすると、それは阿賀野川も一緒かなって思います。
やっぱりね、阿賀野川の流れを見ていれば心も落ち着くし…。
辛いことがあっても川見ていれば忘れられるかなー、とか。
私が悲しいと川も悲しいかな、みたいな。
イライラしていれば川の流れも荒々しいかな、みたいな。
自分の気持ちの様な、こころのような川です。
――最後に読者へ向けてメッセージをどうぞ。
私、船頭になってから知ったことがあるんです。
「梅干しの種は絶対に川へ捨ててはならない」んですよ。
それはね、船神様というのは女の神様と言われていまして。
梅干しの酸っぱいのが、大っきらいなんだそうです。
だから私はもちろんベテランの船頭であっても、弁当やおにぎりに入ってる梅干しの種は持って帰ります。
船頭たる人間、してはいけないことなんですよ。
だから、一般の方にもこのことは是非知っていただきたいですね。
船頭たちそれぞれ個性的なガイドをするので、全員の船に乗ってみなければ本当の阿賀野川はわからないと思います(笑)。
なのでまだライン下りに来たことがないという方も、一度でいいから乗船し、ガイドの話を聞いていただきたいです。
私たちもしゃべる事が仕事なので、お客さまに来ていただかないと、仕事が…ない…(切実)。
昔のように賑やかなライン下りに戻って欲しいな、というのが本音ですかね。
でも船頭という仕事は、この世だけじゃなくって、あの世へ行っても「舟渡し」という職がありますから(笑)。
仕事が切れることがないんです。
噂では、あの世の船も船外機(※1)になったそうです(笑)。
石井 智子
1980年生まれ
新潟県五泉市出身
阿賀町(旧三川村)に嫁いで8年目
2009年7月に5人目の女性船頭としてデビュー
(※1)船外機
一般的に上部のエンジンとその補機、ギア、クラッチ、伝動シャフトなどの動力伝達系、スクリュー等が一体となった船舶の推進ユニット。
アウトボードドライブとも呼ばれる。
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年2月13日月曜日
「阿賀町立三川中学校」
新潟県東蒲原郡阿賀町――。阿賀野川が町内を蛇行しながら悠々と流れている。
国道49号線を福島方面へ向かうと、丘の上に聳え立つ三川中学校が見えてきた。
新潟県初となる「小中連携校」である。(平成17年度より)
昭和41年4月、三川村立三川中学校、同谷花中学校、同下条中学校が名目統合し、新たに三川村立三川中学校を創立。
翌年4月に実質統合し、授業を開始する。
昭和50年11月、創立10周年を記念し、「躍進の像」を設立。
昭和60年11月に三川中学校の校章を設置する。
校章は、当時の吉川校長先生がデザインしたもの。
菱形の斜線に三川の「三」と「川」を同時に配列し、阿賀の大河の堂々たる流れを表現。
中央に「中」の文字を配し、統合三川中学校が永遠に発展することを意味している。
平成3年8月、合唱組曲「阿賀野川」初演発表演奏会。(新潟市音楽文化会館にて)
平成8年10月、『合唱組曲「阿賀野川」発祥の地』記念塔建立。
平成15年4月、三川村立綱木中学校を統合する。
平成16年4月より、3学期制から2学期制へと変更。
平成17年4月、町村合併により三川村立三川中学校から阿賀町立三川中学校に校名を改称。
同時に三川小学校と同一校舎による小中連携校を開始する。
平成18年11月、『小中連立校創設の地』記念碑県立。
教育目標
創造 思いやり たくましさ
重点目標
・主体的に学習し、自らを伸ばそうと努力する生徒
・豊かな心で、相手の気持ちを考え行動する生徒
・心身ともにたくましく、ねばり強くやり抜く生徒
「阿賀町立三川中学校」所在地
新潟県東蒲原郡阿賀町白崎2500番地-1 Google マップ
国道49号線を福島方面へ向かうと、丘の上に聳え立つ三川中学校が見えてきた。
新潟県初となる「小中連携校」である。(平成17年度より)
昭和41年4月、三川村立三川中学校、同谷花中学校、同下条中学校が名目統合し、新たに三川村立三川中学校を創立。
翌年4月に実質統合し、授業を開始する。
昭和50年11月、創立10周年を記念し、「躍進の像」を設立。
昭和60年11月に三川中学校の校章を設置する。
校章は、当時の吉川校長先生がデザインしたもの。
菱形の斜線に三川の「三」と「川」を同時に配列し、阿賀の大河の堂々たる流れを表現。
中央に「中」の文字を配し、統合三川中学校が永遠に発展することを意味している。
平成3年8月、合唱組曲「阿賀野川」初演発表演奏会。(新潟市音楽文化会館にて)
平成8年10月、『合唱組曲「阿賀野川」発祥の地』記念塔建立。
平成15年4月、三川村立綱木中学校を統合する。
平成16年4月より、3学期制から2学期制へと変更。
平成17年4月、町村合併により三川村立三川中学校から阿賀町立三川中学校に校名を改称。
同時に三川小学校と同一校舎による小中連携校を開始する。
平成18年11月、『小中連立校創設の地』記念碑県立。
教育目標
創造 思いやり たくましさ
重点目標
・主体的に学習し、自らを伸ばそうと努力する生徒
・豊かな心で、相手の気持ちを考え行動する生徒
・心身ともにたくましく、ねばり強くやり抜く生徒
「阿賀町立三川中学校」所在地
新潟県東蒲原郡阿賀町白崎2500番地-1 Google マップ
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年2月3日金曜日
「第20回 合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会 メッセージボードより Part6」
平成23年10月22日、阿賀町文化福祉会館にて「合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会」が開かれた。
記念すべき第20回目となる今年のスローガンは、「届けよう 希望の歌 ~20年分の思いとともに~」。
三川中学校の生徒達は、昭和42年三川村に甚大な被害をもたらした羽越水害の悲しみや復興への希望を、今年7月の新潟・福島豪雨と重ね合わせていた。
当日、会場入り口に設置された生徒達直筆によるメッセージボードから、その言葉の一部を紹介する。
今年は私たちも未曾有の水害に見まわれ被災しました。
この20周年を最高に表現し、また次の学年に歌い継がれていくような歌声でがんばります。
指揮も今までやってきた人を超えられるようにがんばります。
今日は、お忙しいなか聴きに来てくださったみなさまに、感動していただけるように最高の歌声でがんばります。
(3年生男子生徒)
今年のスローガンにもあるように、災害に遭われた皆さんに希望の歌が届けられるように、副実行委員長としてみんなを引っ張り、聞いてくださっているみなさんが元気、笑顔になっていただけるような歌を歌うために一生懸命がんばります。
(3年生女子生徒)
記念すべき第20回目となる今年のスローガンは、「届けよう 希望の歌 ~20年分の思いとともに~」。
三川中学校の生徒達は、昭和42年三川村に甚大な被害をもたらした羽越水害の悲しみや復興への希望を、今年7月の新潟・福島豪雨と重ね合わせていた。
当日、会場入り口に設置された生徒達直筆によるメッセージボードから、その言葉の一部を紹介する。
今年は私たちも未曾有の水害に見まわれ被災しました。
この20周年を最高に表現し、また次の学年に歌い継がれていくような歌声でがんばります。
指揮も今までやってきた人を超えられるようにがんばります。
今日は、お忙しいなか聴きに来てくださったみなさまに、感動していただけるように最高の歌声でがんばります。
(3年生男子生徒)
今年のスローガンにもあるように、災害に遭われた皆さんに希望の歌が届けられるように、副実行委員長としてみんなを引っ張り、聞いてくださっているみなさんが元気、笑顔になっていただけるような歌を歌うために一生懸命がんばります。
(3年生女子生徒)
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会