合唱×ROCK「阿賀野川」を編曲するにあたり、リーダーミナガワトオルには当初からどうしても譲れないこだわりがあった。
第五曲「光にむかって」に、中国の伝統楽器「二胡」の音色を入れることだ。
新潟県内では、二胡奏者は大変希少である。
レコーディングを終えたばかりの彼女に、誘われた経緯から「阿賀野川」について伺う。
短い8小節だけに自分のテンションを全部詰め込みました。
——このプロジェクトに参加することになった経緯を教えてください。
ある時、燕市内で二胡の演奏をしていました。
その様子が会報に掲載され、それをご覧になったある方が、私にお電話をくださったんです。
“町興しで、合唱組曲「阿賀野川」をロック調にカヴァーしているバンドがいる”ということ。
そして“そのCDに二胡の音を入れたいので、いかがですか?”というお話でした。
その方の紹介で後日Saeさんと直接お会いし、詳しい内容を聞きました。
——なるほど、そういった繋がりがあったんですね。
Saeさんとはどのようなお話をされたのですか?
そうですね、合唱組曲「阿賀野川」や、今回のプロジェクトの詳しい内容について。
そして、レコーディングの日程などについてですね。
二胡は出せる音域が限られているので、楽譜を見ながら実際に演奏できるものか確認もしました。
私とSaeさん、それぞれの音楽活動についてもいろいろお話しましたね〜。
——今日レコーディングを終えてみて、いかがでしたか?
はい。
私はレコーディングというものがが初めてで…。
昨日までちょっと…眠れなかったというか…(笑)。
“どうなるかなぁ”って少し不安もありました。
二胡は、正しい音程をピンポイントで押さえる事が難しくって…。
私は未熟でまだ上手くできないので、ちょっと心配でした。
あと、ヘッドホンで音を聴きながら弾くことが一番不安でしたね、普段ではしないことなので。
でも実際レコーディングしてみると、ヘッドホンから聴こえてくる音がボリュームも大きくて、クリアでした。
なので演奏する手元の方は、力を入れなくても楽に音を出せたような気がしました。
——なにやら、演奏する箇所が突然増えたとかお聞きしましたが(笑)。
はい、そうですね(笑)。
ビックリしました(笑)。
当初、Saeさんから“ココを弾いてください”と、デモ音源と楽譜を渡されたんです。
それが、第五曲「光にむかって」のイントロの8小節だけだったんですけど。
今日来てみたら“ココも弾いてもらえますか”って(笑)。
新しく追加になったところは、“こんな感じのフレージングで”って言われたんですけど、イメージを持っていくのが大変でした(笑)。
でも、あまりこう…他の楽器の音の邪魔をしないように、かつキレイなメロディーでできたと思います。
ミナガワさんにも助けてもらいながら(笑)。
——イントロの方はいかがでしたか?
イントロは8小節という短いものでした。
普段弾いてる曲はもっと長いから、だんだんノリが出てくるんですけど。
8小節だとノッてくる前に、“ここで終わり”っていう(笑)。
なので、その短い8小節だけに自分のテンションを全部詰め込みました。
——合唱組曲「阿賀野川」については?
今回プロジェクトに参加させていただくにあたって、初演のCDをお借りして聴いてみました。
ものすごい感動と、何て言うか…胸が絞めつけられる想いもして、当時の水害の悲惨さが一目瞭然という感じで伝わってきました。
でも最後には「光にむかって」っていう曲で締めくくられていて…。
ものすごい楽曲だと感じました。
この歌が20年も歌い継がれているということにも驚きました。
町の取り組みとしてもすごい頑張っていらっしゃるんだろうなぁ、と。
これだけでも十分町興しになっているのに、更に歌い継ぐ新しいカタチとして「合唱×ROCK」を提案するプロジェクトに、大変感動しました。
中学生や合唱団の方たちが、ずーっとこれからも絶やさず歌い継ぐっていう熱意も伝わってきました。
ぜひ、燕市にも来て歌っていただきたいです。
特に中学生の子供たちに聴いてもらいたいですね〜。
私も、今度演奏会があったら聴きに行きたいと思いますので(ミナガワさん、)情報待ってます(笑)。
——読者に向けて一言お願いします。
阿賀町にこういう素晴らしい歌があり、しかも組曲になっていて、20年もの間歌い継がれていることは、たくさんの人に知ってもらいたいです。
そして、一人でも多くの方たちにこのプロジェクトのことも知ってもらえたらいいですね。
CDが完成したらぜひ手に取って聴いてもらい、歌の内容やいろんな感情の表現を感じ取っていただきたいですね。
江辺 玲子
1968年生まれ
燕市(旧吉田町)出身
音楽教室、二胡教室を開く傍ら、コンサートなど演奏活動や、カルチャースクールの指導にあたる
2012年4月30日月曜日
2012年4月28日土曜日
2012年4月23日月曜日
「合唱×ROCK『阿賀野川』中間発表視試聴感想 Part2」
平成24年2月29日、阿賀町立三川中学校にて、「合唱×ROCK『阿賀野川』中間発表試聴会」が開かれ、卒業を間近に控えていた3年生にできたてホヤホヤの音源を届けることができた。
原曲「合唱組曲『阿賀野川』」を20周年目に歌い継いだ彼らには、どう感じたのだろうか。
当日書いてくれた感想文をシリーズで紹介する。
・阿賀野川の雄大さや、住んでいる人たちの幸せな気持ちなどが伝わってきた。
・ロックでこれだけ「阿賀野川」を表現できることろがすごいと思った。
・歌に込める想いや強さが伝わってきた。
・第三曲「羽越大災害」で本当の雨の音を使っていることろが、情景が変わった感じがよく伝わってくる。
・ロックだけど、ボーカルの人が心を込めて歌っているので気持ちが伝わってくる。
(3年生女子生徒)
自分たちが合唱で歌った「阿賀野川」がロックになって不思議な感じだけど、こんな風に変わるんだと思いました。
私がイメージしていたロックはもっとうるさいものでしたが、聴いてみて、聴きやすく楽しかったです。
私たちはもう「阿賀野川」の発表会が終わってしまったので、みんなで一緒に歌うことはなくなったけど、卒業して大人になっても、「阿賀野川」をみんなで一生懸命に歌ったことを、忘れないでいようと思いました。
(3年生女子生徒)
1.「阿賀の里」
すごくロックと融合していて、合唱とは違う表現が出されていてすごいと思いました。
2.「ふるさとの将軍杉」
合唱で口笛をやっている部分がオカリナになっていて、すごく合っていました。
3.「羽越大災害」
合唱ではピアノひとつで表現しているところを、ギターやドラムなどで表現していて、より細かな表現がされていてすごいと思いました。
とてもマッチしています。
4.「悲歌」
ロックと演歌調と「悲歌」がとてもマッチしています。
合唱では表現できないところを全て表現していて、イメージが浮かび上がってきました。
5.「光にむかって」
二胡がマッチしていてとてもよかったです。
(3年生男子生徒)
原曲「合唱組曲『阿賀野川』」を20周年目に歌い継いだ彼らには、どう感じたのだろうか。
当日書いてくれた感想文をシリーズで紹介する。
・阿賀野川の雄大さや、住んでいる人たちの幸せな気持ちなどが伝わってきた。
・ロックでこれだけ「阿賀野川」を表現できることろがすごいと思った。
・歌に込める想いや強さが伝わってきた。
・第三曲「羽越大災害」で本当の雨の音を使っていることろが、情景が変わった感じがよく伝わってくる。
・ロックだけど、ボーカルの人が心を込めて歌っているので気持ちが伝わってくる。
(3年生女子生徒)
自分たちが合唱で歌った「阿賀野川」がロックになって不思議な感じだけど、こんな風に変わるんだと思いました。
私がイメージしていたロックはもっとうるさいものでしたが、聴いてみて、聴きやすく楽しかったです。
私たちはもう「阿賀野川」の発表会が終わってしまったので、みんなで一緒に歌うことはなくなったけど、卒業して大人になっても、「阿賀野川」をみんなで一生懸命に歌ったことを、忘れないでいようと思いました。
(3年生女子生徒)
1.「阿賀の里」
すごくロックと融合していて、合唱とは違う表現が出されていてすごいと思いました。
2.「ふるさとの将軍杉」
合唱で口笛をやっている部分がオカリナになっていて、すごく合っていました。
3.「羽越大災害」
合唱ではピアノひとつで表現しているところを、ギターやドラムなどで表現していて、より細かな表現がされていてすごいと思いました。
とてもマッチしています。
4.「悲歌」
ロックと演歌調と「悲歌」がとてもマッチしています。
合唱では表現できないところを全て表現していて、イメージが浮かび上がってきました。
5.「光にむかって」
二胡がマッチしていてとてもよかったです。
(3年生男子生徒)
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年4月21日土曜日
「明通寺・山本和夫碑」
詩人・山本和夫氏(明治40年~平成8年)は、美しい自然に恵まれた福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれた。
作家、評論家として幅広く活躍した彼は、数々の合唱曲の作詩も多く手掛けた。
地元小中学校、高等学校の校歌にも、ふるさとを愛する詩が用いられている。
生家が在る小浜市門前には、征夷大将軍の坂上田村麻呂が806年に創建したとされる「明通寺」がある。
幼少期は専らの遊び場であり、死後はここに葬られ、優しくふるさとを見守ってる。
《 山本和夫 詩碑 》
故郷の原風景が詠まれた作品「青の村」が刻まれている。
設計/谷口吉郎
建立者/文化運動メンバー一同
建立年/昭和50年
《 山本和夫 墓 》
墓石に掘られた文字は山本和夫本人の文字である。
家族の希望で、山本氏自らが作成した仏様の陶板が埋め込まれた。
「明通寺」
大同元年(806年)、北陸地方を巡行中の坂上田村麻呂が創建したとされる。
地方寺院の例に漏れず、中世以前の沿革はあまり判然としていない。
現存する本堂、三重塔は鎌倉時代中期、13世紀のもので、中興の祖である僧・頼禅によって復興されたものである。
境内の本堂と三重塔は昭和28年国宝に指定された。
《 国宝 明通寺本堂 》
《 国宝 三重塔 》
《 春の訪れを待ち望む、松永川 》
山本和夫氏の原風景がひろがっていた。
「明通寺」所在地
福井県小浜市門前5-21 Google マップ
作家、評論家として幅広く活躍した彼は、数々の合唱曲の作詩も多く手掛けた。
地元小中学校、高等学校の校歌にも、ふるさとを愛する詩が用いられている。
生家が在る小浜市門前には、征夷大将軍の坂上田村麻呂が806年に創建したとされる「明通寺」がある。
幼少期は専らの遊び場であり、死後はここに葬られ、優しくふるさとを見守ってる。
《 山本和夫 詩碑 》
故郷の原風景が詠まれた作品「青の村」が刻まれている。
設計/谷口吉郎
建立者/文化運動メンバー一同
建立年/昭和50年
《 山本和夫 墓 》
墓石に掘られた文字は山本和夫本人の文字である。
家族の希望で、山本氏自らが作成した仏様の陶板が埋め込まれた。
「明通寺」
大同元年(806年)、北陸地方を巡行中の坂上田村麻呂が創建したとされる。
地方寺院の例に漏れず、中世以前の沿革はあまり判然としていない。
現存する本堂、三重塔は鎌倉時代中期、13世紀のもので、中興の祖である僧・頼禅によって復興されたものである。
境内の本堂と三重塔は昭和28年国宝に指定された。
《 国宝 明通寺本堂 》
《 国宝 三重塔 》
《 春の訪れを待ち望む、松永川 》
山本和夫氏の原風景がひろがっていた。
「明通寺」所在地
福井県小浜市門前5-21 Google マップ
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年4月19日木曜日
「長谷川 幸平 インタビュー」
阿賀野川ライン舟下り――。
悠々と流れる阿賀野川を、四季折々の表情を映す渓谷美を眺めながら旅をする。
その案内役は、阿賀野川を愛する個性豊かな船頭たちだ。
その船頭衆をまとめる御歳80歳の長谷川船頭長は、“阿賀野川は自分にとって「生きがいだ」”と熱く語る。
三途の川原も、俺が舟渡しするこって。
――長谷川さんご出身はどちらですか?
俺はね、旧安田町の千唐仁(せんとうじ)というところで生まれました。
千唐仁と言うと、船乗りの村なんだよ。
俺も戦争が終わると同時に、舟乗りを始めたわけです。
あれは15、6歳の頃だろっかね。
もともと舟が大好きだったんだけど、川も好きだったんだね。
年中、学校から帰ってきては舟ばっかり乗ってたもんだ。
「舟遊び」と言っても、釣りとかそういうのじゃなくて。
要するに、早く舟を上手に乗れるようにとにかく乗るんさ。
だから、竿1本さえあればどんなところだって行ったもんだよ。
――そんな長谷川少年が、どのように船乗りになっていったのですか?
18か19歳ぐらいになると、小舟で石や砂利を積んで、金になる仕事を始めました。
護岸工事とか、まぁ土木の仕事だね。
それから今度はエンジン付きの大きい船に乗るようになり、新潟へ通うようになります。
ここの国道49号線がまだ舗装もされていなかった頃は、みんな船でもって運んでたんだよ。
でも道路がだんだん良くなってきて、橋も架かるとトラックが運ぶようになってきた。
船とトラックが競合しあうようになってきたわけだけど、やっぱり船は負けてしまった。
だからもう撤退するしかなかったんだね。
だんだん船が消滅していく中、今度は観光船として活躍する場が出てきました。
ちょうどここ「阿賀の里」ができたのもその頃でした。
――ちょうどいいタイミングだったんですね。
当時、船の運送から撤退した船乗りが16~7人集まったんだ。
あの時は景気も良かったんだわ(笑)。
船が15、6杯はあったんさ。
毎日フル稼働だったよ、お客さん満杯に乗せて。
芸能人もいっぱい来たんだけどね。
今じゃさっぱり来なくなった(笑)。
ボクシングの輪島が来たことあったね~。
俳優の橋爪功も来たね。
有名人はファンがいっぺぇいるから、顔隠してさ(笑)。
――船頭長とはどのような役職なのですか?
今「長」が付くほど従業員もいねぇんだけどね(笑)。
以前と違って「支配人」がいるから、俺の出番もあんまりなくてね(笑)。
俺の前に頑固オヤジの船頭長がいてさ(笑)。
船を大事に使う人でね、ぶつけて傷でも付けると怒られるんだ。
“船ぶつけるぐらいだったら、自分の手足を挟んででも守れ!”
“船は一生の傷。人間の傷は薬付ければ治る!”って言ってね(笑)。
“今日休ませてください”なんて言うやつがいると、“盆までずっと休んでろ!”って言ったりね(笑)。
厳しい人だったよ。
――船に乗る時気を付けてる事などありますか?
そうだねぇ…。
「川に落ちない事」だな(一同爆笑)。
いやでもね、酔っぱらったお客さんが乗船場で落ちたこともあるからね。
船の事故もおっかないよ。
だから防災訓練なんかも、きちんとやってるんだ。
去年は新潟日報に訓練の様子が載ったしね。
もっと昔はヘリコプター飛ばして、「遭難した」という想定でやったりもしたなぁ。
――今後のライン下りに望むことはありますか?
去年の水害で地形がだいぶ変わってしまって、「舟下り」が今できない状態なんだよね。
浅瀬のところは、重機で砂利を掘り起こしているんだけど、まだまだ時間がかかりそう。
あと5年はかかるだろうね。
それまでは「舟下りコース」ではなく「遊覧コース」でしか運航できない。
乗船場も壊されてしまって、使い物にならない。
早く元のように復活してさ、お客さんもたくさん来てもらいたいんだけど。
ガイドも大変なんだよ。
「遊覧コース」じゃ同じところぐるぐる回るだけだからね、話のネタに困ってしまう(笑)。
――さて、それでは最後に、長谷川さんにとって阿賀野川とは何でしょう?
「生きがい」だね!
本当に川が好きだからね。
小学校5年生ぐらいから船に乗って遊んでたんだもん。
三途の川原も、俺が舟渡しするこって(笑)。
生涯船乗りだから、あの世でもね。
三途の川は無免許でもいいみたいだからね(笑)。
長谷川 幸平
1932年生まれ
新潟県阿賀野市(旧安田町)出身
阿賀野川ライン舟下り船頭長
船頭衆の中では最年長、生涯現役を貫く
悠々と流れる阿賀野川を、四季折々の表情を映す渓谷美を眺めながら旅をする。
その案内役は、阿賀野川を愛する個性豊かな船頭たちだ。
その船頭衆をまとめる御歳80歳の長谷川船頭長は、“阿賀野川は自分にとって「生きがいだ」”と熱く語る。
三途の川原も、俺が舟渡しするこって。
――長谷川さんご出身はどちらですか?
俺はね、旧安田町の千唐仁(せんとうじ)というところで生まれました。
千唐仁と言うと、船乗りの村なんだよ。
俺も戦争が終わると同時に、舟乗りを始めたわけです。
あれは15、6歳の頃だろっかね。
もともと舟が大好きだったんだけど、川も好きだったんだね。
年中、学校から帰ってきては舟ばっかり乗ってたもんだ。
「舟遊び」と言っても、釣りとかそういうのじゃなくて。
要するに、早く舟を上手に乗れるようにとにかく乗るんさ。
だから、竿1本さえあればどんなところだって行ったもんだよ。
――そんな長谷川少年が、どのように船乗りになっていったのですか?
18か19歳ぐらいになると、小舟で石や砂利を積んで、金になる仕事を始めました。
護岸工事とか、まぁ土木の仕事だね。
それから今度はエンジン付きの大きい船に乗るようになり、新潟へ通うようになります。
ここの国道49号線がまだ舗装もされていなかった頃は、みんな船でもって運んでたんだよ。
でも道路がだんだん良くなってきて、橋も架かるとトラックが運ぶようになってきた。
船とトラックが競合しあうようになってきたわけだけど、やっぱり船は負けてしまった。
だからもう撤退するしかなかったんだね。
だんだん船が消滅していく中、今度は観光船として活躍する場が出てきました。
ちょうどここ「阿賀の里」ができたのもその頃でした。
――ちょうどいいタイミングだったんですね。
当時、船の運送から撤退した船乗りが16~7人集まったんだ。
あの時は景気も良かったんだわ(笑)。
船が15、6杯はあったんさ。
毎日フル稼働だったよ、お客さん満杯に乗せて。
芸能人もいっぱい来たんだけどね。
今じゃさっぱり来なくなった(笑)。
ボクシングの輪島が来たことあったね~。
俳優の橋爪功も来たね。
有名人はファンがいっぺぇいるから、顔隠してさ(笑)。
――船頭長とはどのような役職なのですか?
今「長」が付くほど従業員もいねぇんだけどね(笑)。
以前と違って「支配人」がいるから、俺の出番もあんまりなくてね(笑)。
俺の前に頑固オヤジの船頭長がいてさ(笑)。
船を大事に使う人でね、ぶつけて傷でも付けると怒られるんだ。
“船ぶつけるぐらいだったら、自分の手足を挟んででも守れ!”
“船は一生の傷。人間の傷は薬付ければ治る!”って言ってね(笑)。
“今日休ませてください”なんて言うやつがいると、“盆までずっと休んでろ!”って言ったりね(笑)。
厳しい人だったよ。
――船に乗る時気を付けてる事などありますか?
そうだねぇ…。
「川に落ちない事」だな(一同爆笑)。
いやでもね、酔っぱらったお客さんが乗船場で落ちたこともあるからね。
船の事故もおっかないよ。
だから防災訓練なんかも、きちんとやってるんだ。
去年は新潟日報に訓練の様子が載ったしね。
もっと昔はヘリコプター飛ばして、「遭難した」という想定でやったりもしたなぁ。
――今後のライン下りに望むことはありますか?
去年の水害で地形がだいぶ変わってしまって、「舟下り」が今できない状態なんだよね。
浅瀬のところは、重機で砂利を掘り起こしているんだけど、まだまだ時間がかかりそう。
あと5年はかかるだろうね。
それまでは「舟下りコース」ではなく「遊覧コース」でしか運航できない。
乗船場も壊されてしまって、使い物にならない。
早く元のように復活してさ、お客さんもたくさん来てもらいたいんだけど。
ガイドも大変なんだよ。
「遊覧コース」じゃ同じところぐるぐる回るだけだからね、話のネタに困ってしまう(笑)。
――さて、それでは最後に、長谷川さんにとって阿賀野川とは何でしょう?
「生きがい」だね!
本当に川が好きだからね。
小学校5年生ぐらいから船に乗って遊んでたんだもん。
三途の川原も、俺が舟渡しするこって(笑)。
生涯船乗りだから、あの世でもね。
三途の川は無免許でもいいみたいだからね(笑)。
長谷川 幸平
1932年生まれ
新潟県阿賀野市(旧安田町)出身
阿賀野川ライン舟下り船頭長
船頭衆の中では最年長、生涯現役を貫く
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年4月16日月曜日
「五十嵐 汐里 インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――最初に「阿賀野川」聴いた時の印象なんて覚えてますか?
自分が初めて聴いたのは、確か中学校入ってからですね。
最初の授業の時にカセットテープか何かで聴いて。
すっごい迫力でした!
声も綺麗だし、鳥肌が立つほどでした。
それが代々中学校でずーっと歌われてきているもので…。
なので、いざ自分が歌うってなった時に、「こんな大事なものを歌う」というプレッシャーって言うんですか。
“中途半端な気持ちでできるものではないな”と。
責任感…とはちょっと違うかもしれないけど、そういうのはありました。
“真面目にやらなきゃ”って(笑)。
――真面目に取り組んでいらしたんですね。
発表会ではピアノ伴奏もされたとかで。
「阿賀野川」の楽譜をもらった時に、“家で歌の練習をするにも伴奏は自分で弾けたらいいかな~”という軽い気持ちで。
特に小さいころから習ってた、というわけじゃないんですけど。
ところが、発表会の時に弾ける人が同学年でいなかったので、“じゃあ、やってみようか”と(笑)。
2年生の「歌いつぐ会」の時に第二曲「ふるさとの将軍杉」の伴奏をして。
3年生の時は、第二曲と第三曲「羽越大災害」、第四曲「悲歌」も弾きましたね。
――練習や発表会での思い出はありますか?
真面目に歌わなきゃ、先輩に負けないくらい上手に歌わなきゃっていう想いが強かったので、みんなもう必死でしたね~。
私は伴奏もあったので大変でした。
特に第四曲は大切に演奏したくて、すごい一生懸命練習をしました。
本番では、みんなの心が一つにまとまって演奏できたと思うので、とてもいい思い出です。
――「阿賀野川」は羽越水害がテーマとなっていますが、昨年7月の水害はいかがでしたか?
7月の新潟・福島豪雨で、私の住んでる吉津地区は大きな被害を受けました。
私はその日たまたま仕事で、家には帰れませんでした。
署にいると、いろんな地区からも被害の情報が入ってきて…。
孤立しちゃった家もあったし、夜中になってもずっと救助要請ばかりだったんですよ。
…で、なんとか落ち着いたのが次の日の夕方になってからですかね。
やっと家に帰ることができました。
――まる一日半ですね。しかし消防というお仕事…。自宅も心配でしたでしょうね。
仕事中、家族から“(浸水して)家、もうダメみたい”って連絡が来てたんですけど、
“家には家族がいるから大丈夫。私は仕事をしなきゃ”と思って。
でも帰って実際自宅が水に浸かっている状態を見たら、“これはただ事じゃないな”と感じました。
私、昨年の夏、石巻市と南相馬市へボランティアに行ったんですよ。
まさにその時の光景が浮かんできました。
――新潟・福島豪雨で被災した地域には、「阿賀野川」のテーマが心に響きますね。
そうですね。
「阿賀野川」という組曲を、もっと広い地域に広めたいです。
“昔三川村では、こういう出来事があったんだよ”っていうのを、もっとみんなに知ってもらいたいと思います。
自分が学生だった頃は、中学時代に歌った「阿賀野川」のことを友達に話しても、あまり興味を持ってもらえなかったんですけど。
昨年の水害を経験したことは、まだ記憶にも新しいので…。
羽越水害と重ね合わせて伝えるきっかけになればいいかなって思います。
それに「阿賀野川」は阿賀町…と言っても、旧三川村でしかほとんど知られていないですよね。
鹿瀬、上川、津川の人にも知ってもらいたいです。
――三川中学校卒業生を中心に「阿賀野川」をロックにして伝えたいというプロジェクトについてはいかがですか?
宜しくお願いします(笑)。
その活動を最初聞いた時に、私がさっき言ったような想いと重なる部分が多々あるので、頑張ってほしいです。
いっぱい広めていただきたいです。
「合唱」というカタチでアピールすると、若い人たちには難しいかな、とか硬いなというイメージがあると思います。
「ロック」としてだったら気軽に受け入れてもらえるかもしれないですね。
また、地元三川から出ていった人たちにも“ああ、懐かしいな”とか“またちょっと歌いたいな”とか思ってもらえたらいいですね。
――では最後に、五十嵐さんにとって阿賀野川とは何でしょう?
「生活の一部」みたいなものですかね。
おじいちゃんの話だと、昔は道がなかったから、川を舟で渡って学校へ行ってたと聞きました。
水害のこともそうですけど、私たちが成長していく中で常に関わってきたものですよね。
だから阿賀野川も私たちの生活の一部のように感じてます。
五十嵐 汐里
1990年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成17年度三川中学校卒業生
パート:ソプラノ、ピアノ伴奏
阿賀町消防本部阿賀町消防署 所属
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――最初に「阿賀野川」聴いた時の印象なんて覚えてますか?
自分が初めて聴いたのは、確か中学校入ってからですね。
最初の授業の時にカセットテープか何かで聴いて。
すっごい迫力でした!
声も綺麗だし、鳥肌が立つほどでした。
それが代々中学校でずーっと歌われてきているもので…。
なので、いざ自分が歌うってなった時に、「こんな大事なものを歌う」というプレッシャーって言うんですか。
“中途半端な気持ちでできるものではないな”と。
責任感…とはちょっと違うかもしれないけど、そういうのはありました。
“真面目にやらなきゃ”って(笑)。
――真面目に取り組んでいらしたんですね。
発表会ではピアノ伴奏もされたとかで。
「阿賀野川」の楽譜をもらった時に、“家で歌の練習をするにも伴奏は自分で弾けたらいいかな~”という軽い気持ちで。
特に小さいころから習ってた、というわけじゃないんですけど。
ところが、発表会の時に弾ける人が同学年でいなかったので、“じゃあ、やってみようか”と(笑)。
2年生の「歌いつぐ会」の時に第二曲「ふるさとの将軍杉」の伴奏をして。
3年生の時は、第二曲と第三曲「羽越大災害」、第四曲「悲歌」も弾きましたね。
――練習や発表会での思い出はありますか?
真面目に歌わなきゃ、先輩に負けないくらい上手に歌わなきゃっていう想いが強かったので、みんなもう必死でしたね~。
私は伴奏もあったので大変でした。
特に第四曲は大切に演奏したくて、すごい一生懸命練習をしました。
本番では、みんなの心が一つにまとまって演奏できたと思うので、とてもいい思い出です。
――「阿賀野川」は羽越水害がテーマとなっていますが、昨年7月の水害はいかがでしたか?
7月の新潟・福島豪雨で、私の住んでる吉津地区は大きな被害を受けました。
私はその日たまたま仕事で、家には帰れませんでした。
署にいると、いろんな地区からも被害の情報が入ってきて…。
孤立しちゃった家もあったし、夜中になってもずっと救助要請ばかりだったんですよ。
…で、なんとか落ち着いたのが次の日の夕方になってからですかね。
やっと家に帰ることができました。
――まる一日半ですね。しかし消防というお仕事…。自宅も心配でしたでしょうね。
仕事中、家族から“(浸水して)家、もうダメみたい”って連絡が来てたんですけど、
“家には家族がいるから大丈夫。私は仕事をしなきゃ”と思って。
でも帰って実際自宅が水に浸かっている状態を見たら、“これはただ事じゃないな”と感じました。
私、昨年の夏、石巻市と南相馬市へボランティアに行ったんですよ。
まさにその時の光景が浮かんできました。
――新潟・福島豪雨で被災した地域には、「阿賀野川」のテーマが心に響きますね。
そうですね。
「阿賀野川」という組曲を、もっと広い地域に広めたいです。
“昔三川村では、こういう出来事があったんだよ”っていうのを、もっとみんなに知ってもらいたいと思います。
自分が学生だった頃は、中学時代に歌った「阿賀野川」のことを友達に話しても、あまり興味を持ってもらえなかったんですけど。
昨年の水害を経験したことは、まだ記憶にも新しいので…。
羽越水害と重ね合わせて伝えるきっかけになればいいかなって思います。
それに「阿賀野川」は阿賀町…と言っても、旧三川村でしかほとんど知られていないですよね。
鹿瀬、上川、津川の人にも知ってもらいたいです。
――三川中学校卒業生を中心に「阿賀野川」をロックにして伝えたいというプロジェクトについてはいかがですか?
宜しくお願いします(笑)。
その活動を最初聞いた時に、私がさっき言ったような想いと重なる部分が多々あるので、頑張ってほしいです。
いっぱい広めていただきたいです。
「合唱」というカタチでアピールすると、若い人たちには難しいかな、とか硬いなというイメージがあると思います。
「ロック」としてだったら気軽に受け入れてもらえるかもしれないですね。
また、地元三川から出ていった人たちにも“ああ、懐かしいな”とか“またちょっと歌いたいな”とか思ってもらえたらいいですね。
――では最後に、五十嵐さんにとって阿賀野川とは何でしょう?
「生活の一部」みたいなものですかね。
おじいちゃんの話だと、昔は道がなかったから、川を舟で渡って学校へ行ってたと聞きました。
水害のこともそうですけど、私たちが成長していく中で常に関わってきたものですよね。
だから阿賀野川も私たちの生活の一部のように感じてます。
五十嵐 汐里
1990年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成17年度三川中学校卒業生
パート:ソプラノ、ピアノ伴奏
阿賀町消防本部阿賀町消防署 所属
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年4月11日水曜日
「ゆいこ インタビュー」
混声三部合唱組曲「阿賀野川」20周年プロジェクトにサポートメンバーとして参加している、キーボーディストゆいこ。
参加経緯から楽曲アレンジに対して、ゆいこが感じた「合唱×ROCK」への想いを語ってくれた。
音楽は一人一人の力がないと完成されない
――サポートメンバーでの参加ということですが、今回のプロジェクトに参加することになった経緯を教えて下さい。
そうですねぇ、去年の3月くらいかな?
ドラムの和徳から急にメールが来たんですよ。
ずっと連絡を取っていなかったんですけど。
…あ、私と和徳は4年前くらいまで一緒にバンドしていて、その頃からの知り合いなんですけど。
ただプライベートでは全然交流が無くて(笑)。
そんな感じだったのに急にメールが来て、混声三部合唱組曲「阿賀野川」20周年プロジェクトの内容が長文で書かれてあったんですよ(笑)。
でもメールを見ていったら凄い熱い内容でしてね!
要約すると、
“俺は今、凄いプロジェクトやってるんだけど、ちょっとキーボードやってよ!”
“トオルさん (ミナガワトオル)の構想が壮大で、マジ凄いから!”
みたいな感じで。
…いや、ちょっと軽かったかな(笑)。
実際はもっとしっかりした文章でした(笑)。
――ははは(笑)、意外な展開から始まったんですね!
そうなんです。
でも実際は、プロジェクトの内容は和徳を通してだったので…。
トオルくんが一番熱いのは言うまでもないですよね!
――では、ゆいこさんも他のメンバーと同様、プロジェクトへの愛情を延々と聞かされましたね(笑)?
はい、そうですね(笑)。
企画書も作ってあって、熱意をとても感じました。
というか、トオルくん本人の「語り」が熱かったです!
前代未聞ですし、阿賀町の地域活性化を踏まえてのプロジェクトだったので参加しようと思いましたね。
――実際に、合唱組曲「阿賀野川」を聴いての感想は?
私は基本的にロック全般が好きなんですけど、それ以外にゴスペルやクラシックとかも好きでして。
まあ、音楽に関しては雑食なんです…、詳しくはないですが(笑)。
だから、合唱組曲「阿賀野川」も初めて聴いたときは普通に“いいなぁ”と思いましたよ。
合唱って大勢で歌うじゃないですか。
感動するし、パワーを感じますよね!
組曲なので、場面の移り変わりも十分に楽しめました。
――ちなみに、阿賀町のことは今回のプロジェクトで初めて知ったのですか?
いえ、阿賀町には観光で行ったこともありますので、勿論知ってましたよ。
私は以前、森林生態学を学んでいましたし、登山とかも好きなんです。
だから自然や樹が大好きなんですよ。
将軍杉を初めて見た時は、とても立派な杉で、周りの空気がしっとりと落ち着いて…。
なんていうのかなぁ…、個人的にですけど神聖な感じがしました。
――確かに歴史ある立派な杉ですもんね。
そんな情景も含めている合唱組曲「阿賀野川」をROCKにアレンジしたわけですが、演奏してみていかがでしたか?
“デモ音源があるから大丈夫!”みたいな勢いでの参加だったのですが…。
実際、キーボードのパートが無い部分も結構あって(笑)。
しばらく音楽活動にブランクがあった私としては、かなり苦労しましたね。
まずは情景に合わせた音づくりや、ギターとのバランス、雰囲気に合わせて鍵盤をどう組み込んでいくか…。
でも、メンバーが色々とアイディアを出してくれたので、良い感じになったのではないでしょうか。
合唱もそうですけど、音楽は一人一人の力がないと完成されないですからね!
――レコーディングもお疲れさまでした。
無事終了して良かったですね。
ありがとうございます!
皆さんのおかげです!
限られた短い時間の中で完成させなきゃいけないプレッシャーもありましたし。
何とか作り上げられたので良かったです。
――では、最後に読者へ向けてメッセージをお願いします。
そうですね。
音楽って遥か昔からあるもので、楽しんだり絆を深めたり、祈ったり伝えたり、様々な力を持っているものですよね。
その力が、合唱組曲「阿賀野川」や今回のプロジェクトの合唱×ROCKにも十分に表れているな、と感じています。
みなさんも是非一緒に音楽の力を感じていきましょう!
ゆいこ
1981年生まれ
秋田県秋田市出身
Swallowtail*Queenbee and Minami サポートキーボード
森林生態学を学んだ山ガール
参加経緯から楽曲アレンジに対して、ゆいこが感じた「合唱×ROCK」への想いを語ってくれた。
音楽は一人一人の力がないと完成されない
――サポートメンバーでの参加ということですが、今回のプロジェクトに参加することになった経緯を教えて下さい。
そうですねぇ、去年の3月くらいかな?
ドラムの和徳から急にメールが来たんですよ。
ずっと連絡を取っていなかったんですけど。
…あ、私と和徳は4年前くらいまで一緒にバンドしていて、その頃からの知り合いなんですけど。
ただプライベートでは全然交流が無くて(笑)。
そんな感じだったのに急にメールが来て、混声三部合唱組曲「阿賀野川」20周年プロジェクトの内容が長文で書かれてあったんですよ(笑)。
でもメールを見ていったら凄い熱い内容でしてね!
要約すると、
“俺は今、凄いプロジェクトやってるんだけど、ちょっとキーボードやってよ!”
“トオルさん (ミナガワトオル)の構想が壮大で、マジ凄いから!”
みたいな感じで。
…いや、ちょっと軽かったかな(笑)。
実際はもっとしっかりした文章でした(笑)。
――ははは(笑)、意外な展開から始まったんですね!
そうなんです。
でも実際は、プロジェクトの内容は和徳を通してだったので…。
トオルくんが一番熱いのは言うまでもないですよね!
――では、ゆいこさんも他のメンバーと同様、プロジェクトへの愛情を延々と聞かされましたね(笑)?
はい、そうですね(笑)。
企画書も作ってあって、熱意をとても感じました。
というか、トオルくん本人の「語り」が熱かったです!
前代未聞ですし、阿賀町の地域活性化を踏まえてのプロジェクトだったので参加しようと思いましたね。
――実際に、合唱組曲「阿賀野川」を聴いての感想は?
私は基本的にロック全般が好きなんですけど、それ以外にゴスペルやクラシックとかも好きでして。
まあ、音楽に関しては雑食なんです…、詳しくはないですが(笑)。
だから、合唱組曲「阿賀野川」も初めて聴いたときは普通に“いいなぁ”と思いましたよ。
合唱って大勢で歌うじゃないですか。
感動するし、パワーを感じますよね!
組曲なので、場面の移り変わりも十分に楽しめました。
――ちなみに、阿賀町のことは今回のプロジェクトで初めて知ったのですか?
いえ、阿賀町には観光で行ったこともありますので、勿論知ってましたよ。
私は以前、森林生態学を学んでいましたし、登山とかも好きなんです。
だから自然や樹が大好きなんですよ。
将軍杉を初めて見た時は、とても立派な杉で、周りの空気がしっとりと落ち着いて…。
なんていうのかなぁ…、個人的にですけど神聖な感じがしました。
――確かに歴史ある立派な杉ですもんね。
そんな情景も含めている合唱組曲「阿賀野川」をROCKにアレンジしたわけですが、演奏してみていかがでしたか?
“デモ音源があるから大丈夫!”みたいな勢いでの参加だったのですが…。
実際、キーボードのパートが無い部分も結構あって(笑)。
しばらく音楽活動にブランクがあった私としては、かなり苦労しましたね。
まずは情景に合わせた音づくりや、ギターとのバランス、雰囲気に合わせて鍵盤をどう組み込んでいくか…。
でも、メンバーが色々とアイディアを出してくれたので、良い感じになったのではないでしょうか。
合唱もそうですけど、音楽は一人一人の力がないと完成されないですからね!
――レコーディングもお疲れさまでした。
無事終了して良かったですね。
ありがとうございます!
皆さんのおかげです!
限られた短い時間の中で完成させなきゃいけないプレッシャーもありましたし。
何とか作り上げられたので良かったです。
――では、最後に読者へ向けてメッセージをお願いします。
そうですね。
音楽って遥か昔からあるもので、楽しんだり絆を深めたり、祈ったり伝えたり、様々な力を持っているものですよね。
その力が、合唱組曲「阿賀野川」や今回のプロジェクトの合唱×ROCKにも十分に表れているな、と感じています。
みなさんも是非一緒に音楽の力を感じていきましょう!
ゆいこ
1981年生まれ
秋田県秋田市出身
Swallowtail*Queenbee and Minami サポートキーボード
森林生態学を学んだ山ガール
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年4月7日土曜日
「皆川 和 インタビュー」
中学校での厳しい音楽の授業がなかったら?
“今でも自分は音楽に関わっていなかったかも”とまで明言してくれた彼の言葉は、とてもストレートに「阿賀野川」の在り方の本質を捉えていた。
平成7年度三川中学校卒業生、現在東京でインディーズレーベルを運営する中、今回の合唱×ROCKのカタチはどのように写るのか。
音楽っていう、音を楽しむ感覚は中学時代に理解できていた。
――中学時代に阿賀野川を歌っていた当時のことなどを教えてください。
私が中学校に入学した時には、すでに合唱組曲「阿賀野川」っていうのが音楽の授業で確立していました。
入学して一番最初の音楽の授業から楽譜を渡されましてね。
楽譜がまたね、丸めてチャンバラするのにちょうどいいサイズなんですよ(笑)。
所詮、中学校1年生ですよ。
歌い継ぐとか、合唱組曲とかっていう感覚は本当に最初薄かった。
だって、いわばちょっとグレてる年頃ですよね?
――はは…(笑)。それがどんどんと引き込まれていくという?
そうですね。
チャンバラこそしたが、楽譜にラクガキなんてする奴は一人もいなかった。
それこそ、メモがぎっしりでね。
何回も何回もメモを書かされるんですが、1年生の時に書いた字が汚いんですよ。
だから3年生になって、“もういいや”って消すんですよ。
でも消した矢先にまた同じこと言われてまた書く、何度も何度も(笑)。
――3年間、繰り返しなんですね(笑)。
そう、当時は音楽の先生の指導が何よりも厳しかったんじゃないかなぁ。
1年生の頃の声変わりの時期にはそれが本当にきつくてね。
歌えなきゃ(音がとれなければ)、すぐ隣の被服室でパート練習!
音楽室から追い出されるのですから。
――指導が厳しくても負けずと取り組んで行く生徒ではあった?
やっぱり当時の環境もあるのだろうけど、この壮大な内容と構成に子供ながらに何か感じ取っているんですね。
だから“やってやるぞ!”って。
私たちの学年はレコーディング(収録)もあったので情熱があったと思う。
だから、楽しくもあった。
科目の中で、ガクが「楽」なのは音楽だけでしょ。
指導してくれた先生とぶつかった時も何度もあったけど、それも今となればいい思い出。
音楽っていう、音を楽しむ感覚は中学時代に理解できていたんですよね。
音楽には厳しさがなきゃダメ、芸術じゃなきゃダメだって。
そうじゃなきゃ本当の楽しさなんてないって。
それは今の仕事や私生活にも大きく影響しているんじゃないかな。
――レコーディングと言いますと?
はい、中学校で「阿賀野川」5周年記念のCDを制作したんです。
自慢ですよ(笑)。
今でも自信持って歌えます。
だってあれだけの授業をやるのですもの。
卒業生で歌えない人なんていないんじゃないかなぁ。
ただ、「歌い継ぐ」っていう感覚や大切さっていうのは、正直当時から掴めなかったんです。
それは私が子供だったからじゃないと思うようになってね。
中学校を卒業してから「阿賀野川」っていうものの存在が、耳に届かなくなってしまった。
寂しいですが、どこか遠いものになってしまってね。
――それは具体的には?
東京に住むようになってからなおさら、“まだ中学生は歌っているのかなぁ”って感じですよ。
今となっては、思い出だけになってしまったモノのひとつ。
だから一卒業生としては、三川村から遠く離れていても、どこかで合唱組曲「阿賀野川」の活動や存在を耳にしたい。
中学生だけじゃなくてもっとこう、町全体で大合唱する機会があってもいい。
「歌い継ぐ」っていうカタチで、こんなに素晴らしいモノはないですもんね。
だから全国的にも広がればもっといい。
色々な事情はあると思うけど、当時(自分たちが在学している時)より大きくなって、いろんな人の耳に届くことを卒業生たちはきっと望んでいるんですよ。
そこは厳しい練習を乗り越えて、歌っていた人間だからはっきりと言えるんじゃないかな。
――その合唱組曲「阿賀野川」の魅力とは何でしょうか?
一言でいえば、「歌い継ぐ」ことなのではないでしょうか。
阿賀野川のことなんて知らなくてもいい。
上流がどこだとか、水域がどのくらいだとか、そんな歌じゃなくてね。
その阿賀野川が流れる地域に住む人々が、昭和の大水害(羽越大災害)を乗り越えてたくましく生きる姿。
子供の頃から親しんだ綺麗な風景をね、芸術を通して「歌い継ぐ」。
情報だらけの現代の世の中に対して、あえて音楽というもので、その土地の風景や力強さが歌い語られ、人に伝わればこんな素晴らしいことはない。
――なるほど。では今回の合唱×ROCKプロジェクトについてはいかがですか?
20周年なんですね…、最初聞いたときは驚きました。
当時から20年間歌い継がれてきている中で、それがカタチを変えて、今CD化されることには大賛成です。
だからこそ今回制作する皆さんには、20年前の当初から関わってきている人や、当時制作された方に対してもそうですが、その作品「阿賀野川」に大きな責任感を持って欲しい。
合唱って枠を外して、表現することもひとつの大きな試みだと思います。
合唱で歌っていた人や知っている人は是非聴いて欲しい。
逆に今回のこのCDを手にした人はぜひ、合唱も体感して欲しい。
聴いた時、思わず口ずさんでしまう人が何人いるか、想像するだけでも少し楽しい気持ちになりますね。
皆川 和
1981年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成7年度三川中学校卒業生
現在東京都在住
インディーズレーベルDEATH BLOW MUSIC/WHYTE NOISE FACTORY オーナー兼プロデューサー
“今でも自分は音楽に関わっていなかったかも”とまで明言してくれた彼の言葉は、とてもストレートに「阿賀野川」の在り方の本質を捉えていた。
平成7年度三川中学校卒業生、現在東京でインディーズレーベルを運営する中、今回の合唱×ROCKのカタチはどのように写るのか。
音楽っていう、音を楽しむ感覚は中学時代に理解できていた。
――中学時代に阿賀野川を歌っていた当時のことなどを教えてください。
私が中学校に入学した時には、すでに合唱組曲「阿賀野川」っていうのが音楽の授業で確立していました。
入学して一番最初の音楽の授業から楽譜を渡されましてね。
楽譜がまたね、丸めてチャンバラするのにちょうどいいサイズなんですよ(笑)。
所詮、中学校1年生ですよ。
歌い継ぐとか、合唱組曲とかっていう感覚は本当に最初薄かった。
だって、いわばちょっとグレてる年頃ですよね?
――はは…(笑)。それがどんどんと引き込まれていくという?
そうですね。
チャンバラこそしたが、楽譜にラクガキなんてする奴は一人もいなかった。
それこそ、メモがぎっしりでね。
何回も何回もメモを書かされるんですが、1年生の時に書いた字が汚いんですよ。
だから3年生になって、“もういいや”って消すんですよ。
でも消した矢先にまた同じこと言われてまた書く、何度も何度も(笑)。
――3年間、繰り返しなんですね(笑)。
そう、当時は音楽の先生の指導が何よりも厳しかったんじゃないかなぁ。
1年生の頃の声変わりの時期にはそれが本当にきつくてね。
歌えなきゃ(音がとれなければ)、すぐ隣の被服室でパート練習!
音楽室から追い出されるのですから。
――指導が厳しくても負けずと取り組んで行く生徒ではあった?
やっぱり当時の環境もあるのだろうけど、この壮大な内容と構成に子供ながらに何か感じ取っているんですね。
だから“やってやるぞ!”って。
私たちの学年はレコーディング(収録)もあったので情熱があったと思う。
だから、楽しくもあった。
科目の中で、ガクが「楽」なのは音楽だけでしょ。
指導してくれた先生とぶつかった時も何度もあったけど、それも今となればいい思い出。
音楽っていう、音を楽しむ感覚は中学時代に理解できていたんですよね。
音楽には厳しさがなきゃダメ、芸術じゃなきゃダメだって。
そうじゃなきゃ本当の楽しさなんてないって。
それは今の仕事や私生活にも大きく影響しているんじゃないかな。
――レコーディングと言いますと?
はい、中学校で「阿賀野川」5周年記念のCDを制作したんです。
自慢ですよ(笑)。
今でも自信持って歌えます。
だってあれだけの授業をやるのですもの。
卒業生で歌えない人なんていないんじゃないかなぁ。
ただ、「歌い継ぐ」っていう感覚や大切さっていうのは、正直当時から掴めなかったんです。
それは私が子供だったからじゃないと思うようになってね。
中学校を卒業してから「阿賀野川」っていうものの存在が、耳に届かなくなってしまった。
寂しいですが、どこか遠いものになってしまってね。
――それは具体的には?
東京に住むようになってからなおさら、“まだ中学生は歌っているのかなぁ”って感じですよ。
今となっては、思い出だけになってしまったモノのひとつ。
だから一卒業生としては、三川村から遠く離れていても、どこかで合唱組曲「阿賀野川」の活動や存在を耳にしたい。
中学生だけじゃなくてもっとこう、町全体で大合唱する機会があってもいい。
「歌い継ぐ」っていうカタチで、こんなに素晴らしいモノはないですもんね。
だから全国的にも広がればもっといい。
色々な事情はあると思うけど、当時(自分たちが在学している時)より大きくなって、いろんな人の耳に届くことを卒業生たちはきっと望んでいるんですよ。
そこは厳しい練習を乗り越えて、歌っていた人間だからはっきりと言えるんじゃないかな。
――その合唱組曲「阿賀野川」の魅力とは何でしょうか?
一言でいえば、「歌い継ぐ」ことなのではないでしょうか。
阿賀野川のことなんて知らなくてもいい。
上流がどこだとか、水域がどのくらいだとか、そんな歌じゃなくてね。
その阿賀野川が流れる地域に住む人々が、昭和の大水害(羽越大災害)を乗り越えてたくましく生きる姿。
子供の頃から親しんだ綺麗な風景をね、芸術を通して「歌い継ぐ」。
情報だらけの現代の世の中に対して、あえて音楽というもので、その土地の風景や力強さが歌い語られ、人に伝わればこんな素晴らしいことはない。
――なるほど。では今回の合唱×ROCKプロジェクトについてはいかがですか?
20周年なんですね…、最初聞いたときは驚きました。
当時から20年間歌い継がれてきている中で、それがカタチを変えて、今CD化されることには大賛成です。
だからこそ今回制作する皆さんには、20年前の当初から関わってきている人や、当時制作された方に対してもそうですが、その作品「阿賀野川」に大きな責任感を持って欲しい。
合唱って枠を外して、表現することもひとつの大きな試みだと思います。
合唱で歌っていた人や知っている人は是非聴いて欲しい。
逆に今回のこのCDを手にした人はぜひ、合唱も体感して欲しい。
聴いた時、思わず口ずさんでしまう人が何人いるか、想像するだけでも少し楽しい気持ちになりますね。
皆川 和
1981年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成7年度三川中学校卒業生
現在東京都在住
インディーズレーベルDEATH BLOW MUSIC/WHYTE NOISE FACTORY オーナー兼プロデューサー
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年4月2日月曜日
「合唱×ROCK『阿賀野川』中間発表試聴会感想 Part1」
平成24年2月29日、阿賀町立三川中学校にて、「合唱×ROCK『阿賀野川』中間発表試聴会」が開かれ、卒業を間近に控えていた3年生にできたてホヤホヤの音源を届けることができた。
原曲「合唱組曲『阿賀野川』」を20周年目に歌い継いだ彼らには、どう感じたのだろうか。
当日書いてくれた感想文をシリーズで紹介する。
1.「阿賀の里」
ロックになっても「阿賀野川」だと、むしろ情景がわかりやすくなり、
とても親しみやすくなった。
女性2人の声が透明感があって素敵。
改めて音楽ってすごいと思った。
2.「ふるさとの将軍杉」
三線が入って趣きがあって面白い。
合唱では口笛になるところがオカリナで演奏されていて、響きが深くよかった。
ギターと三線が重なり合うところが、現代と古代が合わさっているようでとても不思議だった。
3.「羽越大災害」
とても迫力があり、スピード感があって川が氾濫している様子が伝わってくる。
半鐘の音がシンバルで入っていて、ピアノの伴奏より半鐘っぽく感じる。
4.「悲歌」
とても悲しさが伝わってくる。
悲しみから立ち上がる部分「私は水底の友に叫ぶ」のあとも良さを殺していなくてすごかった。
5.「光にむかって」
リズミカルで明るさが伝わってくる。
ボーカルのハモリがとてもきれいで、情景が変わることがわかりやすくとてもよかった。
まとめ
自分たちが歌っていたものが、変わったようで、でも根本は変わらなくて。
ロックで「阿賀野川」をもっと引き出していてとても驚いた。
(3年生男子生徒)
・想像していたものとは違って、とてもPOPな曲で良いなと思いました。
・ROCKでも「阿賀野川」が表現されていて感動しました。
・「阿賀野川」を歌いつぐ会のように、たくさんの人に聴いてほしいと思いました。
・発売したら買おうと思います。
・これからもたくさんに人たちに、大災害の辛い経験を知ってもらいたいです。
・私は特に第五曲「光にむかって」が好きです。
(3年生女子生徒)
1.「阿賀の里」
J-POPの曲を聴くような感覚で聴くことができました。
合唱とROCKを合わせるだけで、かなり変わっていてびっくりしました。
2.「ふるさとの将軍杉」
将軍杉のイメージがしやすくてとてもよかったです。
3.「羽越大災害」
暗く激しい曲ですが、明るく聴くことができました。
4.「悲歌」
悲しいところを前向きになることろがすごくわかりやすかったです。
5.「光にむかって」
出だしの部分がかっこよくノリノリな感じでよかったです。
(3年生男子生徒)
原曲「合唱組曲『阿賀野川』」を20周年目に歌い継いだ彼らには、どう感じたのだろうか。
当日書いてくれた感想文をシリーズで紹介する。
1.「阿賀の里」
ロックになっても「阿賀野川」だと、むしろ情景がわかりやすくなり、
とても親しみやすくなった。
女性2人の声が透明感があって素敵。
改めて音楽ってすごいと思った。
2.「ふるさとの将軍杉」
三線が入って趣きがあって面白い。
合唱では口笛になるところがオカリナで演奏されていて、響きが深くよかった。
ギターと三線が重なり合うところが、現代と古代が合わさっているようでとても不思議だった。
3.「羽越大災害」
とても迫力があり、スピード感があって川が氾濫している様子が伝わってくる。
半鐘の音がシンバルで入っていて、ピアノの伴奏より半鐘っぽく感じる。
4.「悲歌」
とても悲しさが伝わってくる。
悲しみから立ち上がる部分「私は水底の友に叫ぶ」のあとも良さを殺していなくてすごかった。
5.「光にむかって」
リズミカルで明るさが伝わってくる。
ボーカルのハモリがとてもきれいで、情景が変わることがわかりやすくとてもよかった。
まとめ
自分たちが歌っていたものが、変わったようで、でも根本は変わらなくて。
ロックで「阿賀野川」をもっと引き出していてとても驚いた。
(3年生男子生徒)
・想像していたものとは違って、とてもPOPな曲で良いなと思いました。
・ROCKでも「阿賀野川」が表現されていて感動しました。
・「阿賀野川」を歌いつぐ会のように、たくさんの人に聴いてほしいと思いました。
・発売したら買おうと思います。
・これからもたくさんに人たちに、大災害の辛い経験を知ってもらいたいです。
・私は特に第五曲「光にむかって」が好きです。
(3年生女子生徒)
1.「阿賀の里」
J-POPの曲を聴くような感覚で聴くことができました。
合唱とROCKを合わせるだけで、かなり変わっていてびっくりしました。
2.「ふるさとの将軍杉」
将軍杉のイメージがしやすくてとてもよかったです。
3.「羽越大災害」
暗く激しい曲ですが、明るく聴くことができました。
4.「悲歌」
悲しいところを前向きになることろがすごくわかりやすかったです。
5.「光にむかって」
出だしの部分がかっこよくノリノリな感じでよかったです。
(3年生男子生徒)
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会