2012年7月25日水曜日
「北上 幸子インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――リーダーのミナガワさんとは同級生と伺っております。
「阿賀野川」の思い出など聞いていきますので、よろしくお願いします。
…それが覚えてなくって(笑)。
でも最初聴いた時、3曲目(「羽越大災害」)だけが「怖い」って印象だったのを、今でも覚えています。
あと2曲目(「ふるさとの将軍杉」)はすごく力を入れて練習してましたね。
4曲目の「悲歌」は、特に印象が薄いですね。
というのも、私たちの学年は3、4曲目って、歌う機会が少なかったんじゃないかな。
――授業での思い出などは?
私、歌はあまり上手ではなかったので…。
授業ではパートごとに分かれて、それぞれ別の教室へ移動して練習するんですよ。
カセットテープを聴きながら(笑)。
それで、時間になると一人ずつ先生に呼ばれて歌うっていうテストがあったんです。
確か「ふるさとの将軍杉」を歌ったような。
音程が取れていればOKなんだけど。
取れてないとまたパート練習に戻されてやり直し…(笑)!
――うわぁ。同じようなことを、以前どなたかもインタビューで嘆いてましたね(笑)。
それを繰り返したことがあります。
あれは嫌だった…。
音楽の授業はいろいろあったけど、最終的には“楽しかったなぁ~”という思い出ですね。
他の中学校ではきっと経験できなかったこともあったので。
――「阿賀野川」が20年以上も歌われていることについてはいかがですか?
スゴイと思う!
なんか不思議な感覚です。
私たちは音楽の授業の中で「阿賀野川」を3年間やってきたんですけど。
それが歌い継がれているっていうのが不思議。
中学生の頃はわかりませんでしたが、みんながこの組曲に力を入れているんだなぁと。
今となって、20年以上も歌い継がれているのを見てて、スゴイことなんだと感じてます。
――「阿賀野川」の中で思い入れの強い曲は?
中学時代最も多く歌った「将軍杉」…よりは、5曲目(「光にむかって」)です!!
4曲目の終わりから、5曲目にかけての部分も。
だんだん明るくなっていくのがいいですね。
「将軍杉」は歌い込み過ぎて、飽きもある…(笑)。
やりすぎた(笑)!
――ははは(笑)。
さて、阿賀町の魅力について教えてください。
観光名所はいっぱいあります。
意外と出身者って魅力に気付かないものですよね。
私は以前、町外の友達を招いて阿賀町を案内したことがあります。
その時、どこに連れて行こうかいろいろ調べたんですよ。
そしたら結構ありましたよ。
――へぇ。ちなみにどんなところへ行ったんですか?
不動滝!
結構迫力がありました。
あと狐の嫁入り屋敷とか、ダチョウ牧場とか(笑)。
将軍杉も見たし、ライン舟下りにも乗りました。
舟下りは成人式の時以来で久しぶりでした。
――地元の人は近すぎて、逆に魅力を見落としがちになりますよね。
では次の質問、北上さんにとって阿賀野川とは?
「心のふるさと」でしょうか。
私が生まれ育った実家のすぐ裏には、阿賀野川が流れています。
小さい頃から川へはよく行ってたので、「普通にあるもの」のような感覚なんです。
そこにあって当たり前だし、離れるのは嫌ですね。
家からは「ウルトラマン山※」も見えるし。
あの景色がとても好きです。
落ち着く場所ですね~。
――いよいよ合唱×ROCK「阿賀野川」が発売されましたが。
徹(ミナガワトオル氏)からこのプロジェクトのことを聞いた時、
なんか懐かしくなって初演のCDを聴き返しました。
探しましたよ、段ボールをあさって(笑)!
徹以外のメンバーさんは、合唱の「阿賀野川」を歌ってたわけじゃないので、
ちょっと私たちと感覚が違うかもしれませんけど、これからも頑張ってほしいです。
応援しています。
そして、旧三川村のことをどんどんPRしてください。
みかわ園での訪問演奏会ではありがとうございました!
――ご協力、ありがとうございました。
※ウルトラマン山
誰が名付けたか、三川中学校からも一望できる山の呼称。
ウルトラマンが仰向けに寝ているように見えることからその名が付けられたという。
ミナガワトオル氏が在学中には既にこう呼ばれていて、「阿賀野川」と同じく、三川中学校では代々語り伝えられている(?)
北上 幸子
1978年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成5年度三川中学校卒業生
パート:アルト
介護施設勤務
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――リーダーのミナガワさんとは同級生と伺っております。
「阿賀野川」の思い出など聞いていきますので、よろしくお願いします。
…それが覚えてなくって(笑)。
でも最初聴いた時、3曲目(「羽越大災害」)だけが「怖い」って印象だったのを、今でも覚えています。
あと2曲目(「ふるさとの将軍杉」)はすごく力を入れて練習してましたね。
4曲目の「悲歌」は、特に印象が薄いですね。
というのも、私たちの学年は3、4曲目って、歌う機会が少なかったんじゃないかな。
――授業での思い出などは?
私、歌はあまり上手ではなかったので…。
授業ではパートごとに分かれて、それぞれ別の教室へ移動して練習するんですよ。
カセットテープを聴きながら(笑)。
それで、時間になると一人ずつ先生に呼ばれて歌うっていうテストがあったんです。
確か「ふるさとの将軍杉」を歌ったような。
音程が取れていればOKなんだけど。
取れてないとまたパート練習に戻されてやり直し…(笑)!
――うわぁ。同じようなことを、以前どなたかもインタビューで嘆いてましたね(笑)。
それを繰り返したことがあります。
あれは嫌だった…。
音楽の授業はいろいろあったけど、最終的には“楽しかったなぁ~”という思い出ですね。
他の中学校ではきっと経験できなかったこともあったので。
――「阿賀野川」が20年以上も歌われていることについてはいかがですか?
スゴイと思う!
なんか不思議な感覚です。
私たちは音楽の授業の中で「阿賀野川」を3年間やってきたんですけど。
それが歌い継がれているっていうのが不思議。
中学生の頃はわかりませんでしたが、みんながこの組曲に力を入れているんだなぁと。
今となって、20年以上も歌い継がれているのを見てて、スゴイことなんだと感じてます。
――「阿賀野川」の中で思い入れの強い曲は?
中学時代最も多く歌った「将軍杉」…よりは、5曲目(「光にむかって」)です!!
4曲目の終わりから、5曲目にかけての部分も。
だんだん明るくなっていくのがいいですね。
「将軍杉」は歌い込み過ぎて、飽きもある…(笑)。
やりすぎた(笑)!
――ははは(笑)。
さて、阿賀町の魅力について教えてください。
観光名所はいっぱいあります。
意外と出身者って魅力に気付かないものですよね。
私は以前、町外の友達を招いて阿賀町を案内したことがあります。
その時、どこに連れて行こうかいろいろ調べたんですよ。
そしたら結構ありましたよ。
――へぇ。ちなみにどんなところへ行ったんですか?
不動滝!
結構迫力がありました。
あと狐の嫁入り屋敷とか、ダチョウ牧場とか(笑)。
将軍杉も見たし、ライン舟下りにも乗りました。
舟下りは成人式の時以来で久しぶりでした。
――地元の人は近すぎて、逆に魅力を見落としがちになりますよね。
では次の質問、北上さんにとって阿賀野川とは?
「心のふるさと」でしょうか。
私が生まれ育った実家のすぐ裏には、阿賀野川が流れています。
小さい頃から川へはよく行ってたので、「普通にあるもの」のような感覚なんです。
そこにあって当たり前だし、離れるのは嫌ですね。
家からは「ウルトラマン山※」も見えるし。
あの景色がとても好きです。
落ち着く場所ですね~。
――いよいよ合唱×ROCK「阿賀野川」が発売されましたが。
徹(ミナガワトオル氏)からこのプロジェクトのことを聞いた時、
なんか懐かしくなって初演のCDを聴き返しました。
探しましたよ、段ボールをあさって(笑)!
徹以外のメンバーさんは、合唱の「阿賀野川」を歌ってたわけじゃないので、
ちょっと私たちと感覚が違うかもしれませんけど、これからも頑張ってほしいです。
応援しています。
そして、旧三川村のことをどんどんPRしてください。
みかわ園での訪問演奏会ではありがとうございました!
――ご協力、ありがとうございました。
※ウルトラマン山
誰が名付けたか、三川中学校からも一望できる山の呼称。
ウルトラマンが仰向けに寝ているように見えることからその名が付けられたという。
ミナガワトオル氏が在学中には既にこう呼ばれていて、「阿賀野川」と同じく、三川中学校では代々語り伝えられている(?)
北上 幸子
1978年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成5年度三川中学校卒業生
パート:アルト
介護施設勤務
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年7月14日土曜日
「五十嵐 成美 インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――初めて「阿賀野川」を聴いた時の印象は?
姉兄が歌っている時に、家族で聴きに行ったのが最初です。
感動した、と言うよりは圧倒されたという感じですね。
普通の歌とは違う印象を受けました。
例えば、口笛を入れた歌(「ふるさとの将軍杉」)は初めて聴くものでした。
それは楽しい曲調ですけど、残酷な曲もあるし…。
いろんな感情がこの組曲には入っているなぁって。
――実際歌ってみて、いかがでしたか?
1年生の時は、歌う曲も(5曲中)2曲くらいなんです。
最初から全部覚えて歌うわけではないんですね。
感情を込めて歌う、とか細かいことは関係なし。
とりあえず一体感を出すために、裏声の練習でした。
「綺麗な声で歌う」ことだけを目標にして練習していました。
2、3年生になると、歌う曲も増えてくるし、今度は感情を込めて歌うようになってきます。
先生から教わると言うよりは、それぞれのパートごとに分かれての練習がメインです。
“ここはこういう感情で歌おう!”とか、“強弱を付けよう!”とか。
こういったパート練習の思い出が強いですね。
――なるほど~。生徒が自分たちで歌の表現方法を見つけていくんですね。
先生からのアドバイスもあるんですけど。
結局歌うのは自分たちなので。
――授業の中で、特に印象に残ってることはありますか?
音痴な子は個別レッスンを受けていましたね(笑)。
みんなパート練習で他の教室へ行くんですけど、その人たちだけは先生と残ってやってました。
あと、有名なおじさんが来てくれて…(笑)。
お名前は忘れたんですけど。
もともとパートは分かれてたんですけど、その方が音域をチェックして。
パートの再編成をやったのを覚えてます。
――有名なおじさんって…(笑)?
なんか、組曲「阿賀野川」を作った最初の時に関わっていたとか…。
――たぶん岩崎先生でしょうかね(笑)。
五十嵐さんはもしかして、2007年の【阿賀野川サミット】※には行かれましたか?
はい、私それ行きました。
最後、アンコールで歌ったのを覚えています!
――おそらく、岩崎先生が【阿賀野川サミット】の指導のために、中学校へ訪れたんだと思います(笑)。
では20年間続いていることについてはいかがですか?
やっぱりこれからも歌い継いでほしいです。
私たちの年齢と、「阿賀野川」の年齢は一緒なので…。
そういった意味でも、続いてほしいなぁと思っています。
――思い入れの強い曲はどれですか?
「悲歌」ですね。
私は、ロック調にアレンジされた「悲歌」の方も先ほど聴かせていただきました。
人それぞれ、詩の捉え方も違うし、歌ってる人数もCDでは2人のボーカルなので。
表現の仕方が違っていましたね。
例えば、合唱で私たちが力強く歌ってたところも、CDではサラッと歌ってたり…。
なので、まるで違う曲のような感じがしましたね。
――ROCK「阿賀野川」にはどのようなことを期待しますか?
阿賀町だけじゃなくて、もうちょっと認知度が広まってくれればいいなって思います。
それは、高校生の時から思ってることなんです。
高校に進学してできた友人に「阿賀野川」のことを言っても、ほとんどの人が知りませんでした。
ちょっと寂しかったですね。
なので、ロックの「阿賀野川」をきっかけに、合唱を聴いてもらえる機会が増えればいいですね。
五十嵐 成美
1991年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成18年度三川中学校卒業生
パート:ソプラノ
大学3年生
中学から始めたバレーボールに現在も打ち込んでいる
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――初めて「阿賀野川」を聴いた時の印象は?
姉兄が歌っている時に、家族で聴きに行ったのが最初です。
感動した、と言うよりは圧倒されたという感じですね。
普通の歌とは違う印象を受けました。
例えば、口笛を入れた歌(「ふるさとの将軍杉」)は初めて聴くものでした。
それは楽しい曲調ですけど、残酷な曲もあるし…。
いろんな感情がこの組曲には入っているなぁって。
――実際歌ってみて、いかがでしたか?
1年生の時は、歌う曲も(5曲中)2曲くらいなんです。
最初から全部覚えて歌うわけではないんですね。
感情を込めて歌う、とか細かいことは関係なし。
とりあえず一体感を出すために、裏声の練習でした。
「綺麗な声で歌う」ことだけを目標にして練習していました。
2、3年生になると、歌う曲も増えてくるし、今度は感情を込めて歌うようになってきます。
先生から教わると言うよりは、それぞれのパートごとに分かれての練習がメインです。
“ここはこういう感情で歌おう!”とか、“強弱を付けよう!”とか。
こういったパート練習の思い出が強いですね。
――なるほど~。生徒が自分たちで歌の表現方法を見つけていくんですね。
先生からのアドバイスもあるんですけど。
結局歌うのは自分たちなので。
――授業の中で、特に印象に残ってることはありますか?
音痴な子は個別レッスンを受けていましたね(笑)。
みんなパート練習で他の教室へ行くんですけど、その人たちだけは先生と残ってやってました。
あと、有名なおじさんが来てくれて…(笑)。
お名前は忘れたんですけど。
もともとパートは分かれてたんですけど、その方が音域をチェックして。
パートの再編成をやったのを覚えてます。
――有名なおじさんって…(笑)?
なんか、組曲「阿賀野川」を作った最初の時に関わっていたとか…。
――たぶん岩崎先生でしょうかね(笑)。
五十嵐さんはもしかして、2007年の【阿賀野川サミット】※には行かれましたか?
はい、私それ行きました。
最後、アンコールで歌ったのを覚えています!
――おそらく、岩崎先生が【阿賀野川サミット】の指導のために、中学校へ訪れたんだと思います(笑)。
では20年間続いていることについてはいかがですか?
やっぱりこれからも歌い継いでほしいです。
私たちの年齢と、「阿賀野川」の年齢は一緒なので…。
そういった意味でも、続いてほしいなぁと思っています。
――思い入れの強い曲はどれですか?
「悲歌」ですね。
私は、ロック調にアレンジされた「悲歌」の方も先ほど聴かせていただきました。
人それぞれ、詩の捉え方も違うし、歌ってる人数もCDでは2人のボーカルなので。
表現の仕方が違っていましたね。
例えば、合唱で私たちが力強く歌ってたところも、CDではサラッと歌ってたり…。
なので、まるで違う曲のような感じがしましたね。
――ROCK「阿賀野川」にはどのようなことを期待しますか?
阿賀町だけじゃなくて、もうちょっと認知度が広まってくれればいいなって思います。
それは、高校生の時から思ってることなんです。
高校に進学してできた友人に「阿賀野川」のことを言っても、ほとんどの人が知りませんでした。
ちょっと寂しかったですね。
なので、ロックの「阿賀野川」をきっかけに、合唱を聴いてもらえる機会が増えればいいですね。
五十嵐 成美
1991年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成18年度三川中学校卒業生
パート:ソプラノ
大学3年生
中学から始めたバレーボールに現在も打ち込んでいる
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年7月9日月曜日
2012年7月6日金曜日
「清野 敏生 インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――合唱組曲「阿賀野川」との出会いから教えてください。
小学校の頃から「阿賀野川」のことについて少しずつ勉強していました。
中学生が歌う合唱を聴きに行った時、“来年から自分たちも歌うんだなぁ”って。
“オレにこんな歌、歌えるのかなぁー。”っていう不安しかありませんでしたね(笑)。
――小学校の時は、「阿賀野川」をどのよう学んでたのですか?
6年生の「総合学習」で、「羽越大災害」のことについて深く考える授業がありました。
実際、災害に遭った現場の石間地区に行ったりして。
先生は組曲「阿賀野川」のことが好きだったみたいで、そういう授業にも特に力を入れていましたね。
――中学校生活3年間で、「阿賀野川」に対する気持ちの変化などはありましたか?
あぁ、ありましたね。
ただこう、歌うんじゃなくて。
なんて言うか、気持ちを込めて歌うようになりました。
それはオレだけじゃなくって、他のみんなもそうでした。
先輩の合唱を聴いたりすると“スゲーなぁ”って。
例えば強く歌うところなんかは、テキトーに歌うんじゃなくて、ホントに力を込めて歌うとか。
抑えるところは、ぐっと腹に力を入れて抑えるとか。
先輩の歌う姿から、そういうのは学び取りました。
そして、自分たちがメリハリを付けて歌えるようになった時のことは、よく覚えています。
――なるほど。それが「歌い継ぐ」ってことなんでしょうね~。
「阿賀野川」の中で、最も好きな曲は何ですか?
オレは「悲歌」が好きだったんですよ。
「悲歌」は、文化祭だと3年生だけで歌うんですよね。
これは伝統になっていて。
1、2年の頃は客席側から観ていて、“いい曲だなぁ”と、とても感動してました。
3年生になって、いざオレたちの番になったんですが、そこでも結局不安しかなかったですね(笑)。
“ホントにオレたちに歌えるのかな~”って(笑)。
――「悲歌」はどんなところが好きなんですか?
「羽越大災害」からの立ち直りっていうか。
だんだん希望に向かって明るくなっていく様子とか、歌詩の中に込められていて。
それで好きですね~。
――阿賀町の魅力を教えてください。
この自然ですかね。
他の町に比べると、緑に囲まれた、自然豊かな町だと思います。
将軍杉はよく行きますね。
この前も岩谷(将軍杉のある地区)の仲間の家に遊び行った時、
“将軍杉見に行こうぜー!”ってなって(笑)。
そんな軽いノリで見に行けるっていうのも、地元ならではですけど、魅力のひとつかもしれませんね。
――清野さんにとって阿賀野川とはどんな川ですか?
阿賀野川は町を蛇行しながら流れてて、とても身近な存在なんです。
だから、例えばオレが東京とかに行った時、たまに阿賀野川を思い出すと懐かしく感じると思います。
一言で表すなら、「ふるさと」って感じですね。
清野 敏生
1993年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成20年度三川中学校卒業生
パート:バス
ドライブが趣味の専門学生
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――合唱組曲「阿賀野川」との出会いから教えてください。
小学校の頃から「阿賀野川」のことについて少しずつ勉強していました。
中学生が歌う合唱を聴きに行った時、“来年から自分たちも歌うんだなぁ”って。
“オレにこんな歌、歌えるのかなぁー。”っていう不安しかありませんでしたね(笑)。
――小学校の時は、「阿賀野川」をどのよう学んでたのですか?
6年生の「総合学習」で、「羽越大災害」のことについて深く考える授業がありました。
実際、災害に遭った現場の石間地区に行ったりして。
先生は組曲「阿賀野川」のことが好きだったみたいで、そういう授業にも特に力を入れていましたね。
――中学校生活3年間で、「阿賀野川」に対する気持ちの変化などはありましたか?
あぁ、ありましたね。
ただこう、歌うんじゃなくて。
なんて言うか、気持ちを込めて歌うようになりました。
それはオレだけじゃなくって、他のみんなもそうでした。
先輩の合唱を聴いたりすると“スゲーなぁ”って。
例えば強く歌うところなんかは、テキトーに歌うんじゃなくて、ホントに力を込めて歌うとか。
抑えるところは、ぐっと腹に力を入れて抑えるとか。
先輩の歌う姿から、そういうのは学び取りました。
そして、自分たちがメリハリを付けて歌えるようになった時のことは、よく覚えています。
――なるほど。それが「歌い継ぐ」ってことなんでしょうね~。
「阿賀野川」の中で、最も好きな曲は何ですか?
オレは「悲歌」が好きだったんですよ。
「悲歌」は、文化祭だと3年生だけで歌うんですよね。
これは伝統になっていて。
1、2年の頃は客席側から観ていて、“いい曲だなぁ”と、とても感動してました。
3年生になって、いざオレたちの番になったんですが、そこでも結局不安しかなかったですね(笑)。
“ホントにオレたちに歌えるのかな~”って(笑)。
――「悲歌」はどんなところが好きなんですか?
「羽越大災害」からの立ち直りっていうか。
だんだん希望に向かって明るくなっていく様子とか、歌詩の中に込められていて。
それで好きですね~。
――阿賀町の魅力を教えてください。
この自然ですかね。
他の町に比べると、緑に囲まれた、自然豊かな町だと思います。
将軍杉はよく行きますね。
この前も岩谷(将軍杉のある地区)の仲間の家に遊び行った時、
“将軍杉見に行こうぜー!”ってなって(笑)。
そんな軽いノリで見に行けるっていうのも、地元ならではですけど、魅力のひとつかもしれませんね。
――清野さんにとって阿賀野川とはどんな川ですか?
阿賀野川は町を蛇行しながら流れてて、とても身近な存在なんです。
だから、例えばオレが東京とかに行った時、たまに阿賀野川を思い出すと懐かしく感じると思います。
一言で表すなら、「ふるさと」って感じですね。
清野 敏生
1993年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成20年度三川中学校卒業生
パート:バス
ドライブが趣味の専門学生
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年7月4日水曜日
「Minami(葉月 みなみ) インタビュー」
プロの演歌歌手としても幅広い活動を展開している葉月みなみ。
合唱×ROCK「阿賀野川」の構想は、さかのぼること十数年前――。
実は、リーダーミナガワトオルとの小さな約束から始まっていたのかもしれない。
彼女の発する言葉一つひとつは、CD発売を直前に控え、その感謝の気持ちでいっぱいに溢れていた。
ふるさとを想う心は同じ。今、歌で届けたい想い。
――まず最初に、今回の合唱×ROCK「阿賀野川」のプロジェクトに参加することになった経緯を教えてください。
きっかけは10年程前。
リーダーのミナガワトオルさんに、三川には混声三部合唱組曲「阿賀野川」というそれは壮大な組曲があるんだよという話を聞いたことからです。
私も歌が大好きだったので、興味深々で。
当時リーダーの携帯電話の着信音は「ふるさとの将軍杉」。
昔の携帯って、自分で作ってオリジナルメロディとして着信音にできたんですよね。
これをまず聞いて本当に気に入っちゃって(笑)。
だから今でもふるさとの将軍杉が一番大好きなんです。
歌詞を教えてもらってリーダーと何度も何度もでっかい声でハモって歌っていましたね。
居酒屋とかコンビニの前とかどこでも(笑)。
懐かしいです。
その頃からリーダーは語っていました。
いつかこの合唱曲をバンドでやりたいんだと。
そして一緒にできたらいいよねと。
――そして10年経って実現したわけですね?
はい、そうなんです。
実際には12年経っていますが(笑)。
他のメンバーとは違って戸惑いはなく、すんなりとやろう!って感じでした。
でも10年経って本当に実現しちゃうんだからこれはすごいことですよね!
当時は私が演歌歌手としてデビューすると思っていませんでしたが、同じ音楽を愛する者同士、ふるさとを想う心は同じです。
こうしてプロジェクトに参加させていただいて嬉しいです。
――20年間歌い継がれていること、また中学生が歌っている姿を見てどんな印象を受けましたか?
まずこの合唱曲を作られた深い歴史と意味を考えさせられました。
リーダーと共に取材に同行させてもらい、大屋(旧姓:斎藤)美智子さんに当時の生々しい現実や気持ちなど、聞かせていただくことができた時は言葉にならず、ただただ涙がこぼれました。
そして、この合唱曲を歌い継ぐことの本当の意味を感じることができました。
また、第20回の「歌いつぐ会」にお邪魔させていただき、生の中学生の歌声を聞くことができた時は、一生懸命に心をこめて歌う生徒さんの歌声や姿、組曲への姿勢に心を打たれました。
改めてこのプロジェクトに参加させていただくにあたって、身が引き締まるとともに、歌詞を今一度しっかり理解して心で歌いたいと思いました。
――レコーディングを終えてどうでしたか?
そうですね、一言で言えば大変でした!
でも楽しかったですよ。
バンドのレコーディングは初めての経験だったのでとても新鮮でいい経験でした。
ああ、こんな風に音を録って重ねていくのかあなど。
――一番大変だったことは?
ピアノ演奏ですね。
実は歌よりも苦労しました。
本業ではないので…なかなか思うような演奏ができなくて時間がかかりました。
できなすぎてムキ~っと楽譜も楽器もひっくり返したくなるくらい(笑)。
でも根気よく皆さん付き合っていただき、感謝しています。
いい勉強になりました。
ありがとうございました。
それから印象に残っているのは、「羽越大災害」の中に「あっ、学校が消えた」という部分が出てくるのですが、この「あっ」にかなり戸惑い、リーダーとSaeさんと「あっ」の連呼をしたこと。
どんな「あっ」がいいのか悩みましたよ~。
ぜひCDで聞いてみてください。
――葉月みなみとMinamiについて聞かせてください。
歌い方の違いやスタンスの違いはあるのですか?
普段は演歌歌手葉月みなみですが、今回のプロジェクトはMinamiとして参加させていただきました。
歌い方の違いは一つだけ、演歌独特のこぶしは使わないこと。
でもスタンスは同じです。
どんな歌も意味があって情景があって、作詞・作曲家の想いがあると思います。
それをよく感じて情景を思い浮かべながら歌う。
なりきって歌う。
そして一生懸命楽しんで歌う。
一生懸命歌うと聞いてくださる方に伝わると思います。
――なるほど、普段の歌手活動でもそうなんですね。
普段はどんな活動をしているのか教えてください。
はい、どんなステージも「初心と感謝の気持ち」を忘れずに歌わせていただいています。
普段は新潟県内を中心に介護施設、病院、各地区イベントに出演させていただいています。
ジャンル問わず、お客様の層を見て楽しんでいただけるようにその日の演目を考えています。
一生懸命さと楽しさは必ず伝わります!!
――最後に読者の皆様にメッセージをお願いします。
このプロジェクトでお世話になった方々、そして応援してくださる方々に心より感謝いたします。
そして、一緒に音楽を奏でることができるメンバーの皆さんに感謝いたします。
いよいよCD発売になります。
私たちのメッセージがそのまま詰め込んである渾身の1枚です。
ぜひ聞いていただいて、合唱組曲「阿賀野川」を広く長く愛し、歌い続けていただきたいと思います。
Minami(葉月みなみ)
1979年生まれ
新潟県新潟市出身
新潟を中心に介護施設、病院、各地区イベントに精力的に出演
合唱×ROCK「阿賀野川」の構想は、さかのぼること十数年前――。
実は、リーダーミナガワトオルとの小さな約束から始まっていたのかもしれない。
彼女の発する言葉一つひとつは、CD発売を直前に控え、その感謝の気持ちでいっぱいに溢れていた。
ふるさとを想う心は同じ。今、歌で届けたい想い。
――まず最初に、今回の合唱×ROCK「阿賀野川」のプロジェクトに参加することになった経緯を教えてください。
きっかけは10年程前。
リーダーのミナガワトオルさんに、三川には混声三部合唱組曲「阿賀野川」というそれは壮大な組曲があるんだよという話を聞いたことからです。
私も歌が大好きだったので、興味深々で。
当時リーダーの携帯電話の着信音は「ふるさとの将軍杉」。
昔の携帯って、自分で作ってオリジナルメロディとして着信音にできたんですよね。
これをまず聞いて本当に気に入っちゃって(笑)。
だから今でもふるさとの将軍杉が一番大好きなんです。
歌詞を教えてもらってリーダーと何度も何度もでっかい声でハモって歌っていましたね。
居酒屋とかコンビニの前とかどこでも(笑)。
懐かしいです。
その頃からリーダーは語っていました。
いつかこの合唱曲をバンドでやりたいんだと。
そして一緒にできたらいいよねと。
――そして10年経って実現したわけですね?
はい、そうなんです。
実際には12年経っていますが(笑)。
他のメンバーとは違って戸惑いはなく、すんなりとやろう!って感じでした。
でも10年経って本当に実現しちゃうんだからこれはすごいことですよね!
当時は私が演歌歌手としてデビューすると思っていませんでしたが、同じ音楽を愛する者同士、ふるさとを想う心は同じです。
こうしてプロジェクトに参加させていただいて嬉しいです。
――20年間歌い継がれていること、また中学生が歌っている姿を見てどんな印象を受けましたか?
まずこの合唱曲を作られた深い歴史と意味を考えさせられました。
リーダーと共に取材に同行させてもらい、大屋(旧姓:斎藤)美智子さんに当時の生々しい現実や気持ちなど、聞かせていただくことができた時は言葉にならず、ただただ涙がこぼれました。
そして、この合唱曲を歌い継ぐことの本当の意味を感じることができました。
また、第20回の「歌いつぐ会」にお邪魔させていただき、生の中学生の歌声を聞くことができた時は、一生懸命に心をこめて歌う生徒さんの歌声や姿、組曲への姿勢に心を打たれました。
改めてこのプロジェクトに参加させていただくにあたって、身が引き締まるとともに、歌詞を今一度しっかり理解して心で歌いたいと思いました。
――レコーディングを終えてどうでしたか?
そうですね、一言で言えば大変でした!
でも楽しかったですよ。
バンドのレコーディングは初めての経験だったのでとても新鮮でいい経験でした。
ああ、こんな風に音を録って重ねていくのかあなど。
――一番大変だったことは?
ピアノ演奏ですね。
実は歌よりも苦労しました。
本業ではないので…なかなか思うような演奏ができなくて時間がかかりました。
できなすぎてムキ~っと楽譜も楽器もひっくり返したくなるくらい(笑)。
でも根気よく皆さん付き合っていただき、感謝しています。
いい勉強になりました。
ありがとうございました。
それから印象に残っているのは、「羽越大災害」の中に「あっ、学校が消えた」という部分が出てくるのですが、この「あっ」にかなり戸惑い、リーダーとSaeさんと「あっ」の連呼をしたこと。
どんな「あっ」がいいのか悩みましたよ~。
ぜひCDで聞いてみてください。
――葉月みなみとMinamiについて聞かせてください。
歌い方の違いやスタンスの違いはあるのですか?
普段は演歌歌手葉月みなみですが、今回のプロジェクトはMinamiとして参加させていただきました。
歌い方の違いは一つだけ、演歌独特のこぶしは使わないこと。
でもスタンスは同じです。
どんな歌も意味があって情景があって、作詞・作曲家の想いがあると思います。
それをよく感じて情景を思い浮かべながら歌う。
なりきって歌う。
そして一生懸命楽しんで歌う。
一生懸命歌うと聞いてくださる方に伝わると思います。
――なるほど、普段の歌手活動でもそうなんですね。
普段はどんな活動をしているのか教えてください。
はい、どんなステージも「初心と感謝の気持ち」を忘れずに歌わせていただいています。
普段は新潟県内を中心に介護施設、病院、各地区イベントに出演させていただいています。
ジャンル問わず、お客様の層を見て楽しんでいただけるようにその日の演目を考えています。
一生懸命さと楽しさは必ず伝わります!!
――最後に読者の皆様にメッセージをお願いします。
このプロジェクトでお世話になった方々、そして応援してくださる方々に心より感謝いたします。
そして、一緒に音楽を奏でることができるメンバーの皆さんに感謝いたします。
いよいよCD発売になります。
私たちのメッセージがそのまま詰め込んである渾身の1枚です。
ぜひ聞いていただいて、合唱組曲「阿賀野川」を広く長く愛し、歌い続けていただきたいと思います。
Minami(葉月みなみ)
1979年生まれ
新潟県新潟市出身
新潟を中心に介護施設、病院、各地区イベントに精力的に出演
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年7月2日月曜日
「山口 究 インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――まず、合唱組曲「阿賀野川」についてお聞きしたいのですが。
そうですね…。
初めて聴いた時は13歳の頃でした。
小学生時代は、音楽の成績が悪かったので(笑)。
(音楽は)あまり好きな教科ではありませんでした。
だから“「阿賀野川」なんて絶対歌えない!!”っていうのが正直な第一印象でしたね。
――実際3年間歌ってみて、どうでしたか?
中学3年生になった時に、「歌いつぐ会」の実行委員長をやらせていただいて。
“なんでこんなヘタな自分が…。務まるのかな”と不安にも思いましたが(笑)。
今ではすごくいい思い出になってます。
――どんな思い出がありますか?
やっぱり、みんなで協力して取り組んだことですね。
僕が3年生の時は、ちょうど11周年目だったんです。
“もう一回みんなで踏み出そう!”っていうことで、「あらたに踏み出す一歩」というスローガンを掲げました。
実はPTAの方(かな?)が、気になさってたそうです。
“ひとつの節目である10周年が終わった時に、次はどのようなスローガンで来るのだろう?”と。
でも発表会の最後のコメントで、“このスローガンを聞いてすごく嬉しく思いました”と言ってくださったんですよね。
実行委員長として“ああ、このスローガンの下やってて良かったな”と思った瞬間でしたね。
――大変だったことはありますか?
う~ん…。
僕、口笛が吹けないので…(笑)。
「ふるさとの将軍杉」ではずっと吹いてるフリをしていました(一同爆笑)。
――思い入れの強い曲は?
…まぁそういうこともあって、やっぱり「将軍杉」ですかねぇ(笑)。
あの時、もう少し自分の意識が変わってたなら、口笛が吹けるようになるまで一生懸命やったかもって思います。
もしあの頃の自分に会えたら、“ちょっとがんばって練習してみたら?”って言いたいですね~。
――「阿賀野川」が20年間歌い継いがれていることに対して、いかがですか?
三川中学校の体育館に、「第20回…」という「歌いつぐ会」の張り紙が張り出されているのを見た時は驚きましたね。
“もう20年なんだ~”と。
20年って言ったらそれこそ、子供が大人になるくらいの年月ですよね。
その時の流れというか、伝統の中の一部に自分が居れたことを嬉しく感じました。
――元「歌いつぐ会」実行委員長として、今後「阿賀野川」に期待することはありますか?
「合唱」って言うと、昔の僕みたいに音楽の授業が苦手な子は“歌えないよな~”なんて思っちゃうかもしれませんが。
馴染みのあるROCK調だとか、例えばそうですね、AKB48とかアイドルが歌うような感じにしたりすれば、親しみを込めて歌えるんじゃないでしょうか。
これから中学生になって歌う子供たちも、感情移入がしやすいんじゃないかな~と。
だから、合唱×ROCK「阿賀野川」のプロジェクトを最初聞いた時に、“うわ~っ!スッゴイこと考える人がいるな~!”って思いました、本当に。
また、この話が適切なのかわからないですけど…。
阿賀野川には「新潟水俣病」という歴史もあったりします。
僕は、水俣病の歴史について調べていた時期がありました。
そのおかげで、いろんな方々からお話を聞けたり、様々な経験をさせていただきました。
阿賀町のちょっとした面を深く見るだけで、多くのことを与えてくれるんですよね、阿賀野川って。
羽越水害のことは、風化させないように後世へ伝えていかなければいけませんが、それ以外の歴史についても深く学んでもらいたいですね。
地元の子供たちには、そこから自分たちの世界を拡げていって欲しいな、と思います。
――おぉ。なんて立派なんでしょう!
そうですね~。この合唱組曲「阿賀野川」がそういった歴史や文化を知るきっかけになってくれたらいいですね。
ホントに勝手で押しつけがましいかもしれませんが、個人的に、このROCK調になった「阿賀野川」に期待する点はそこに尽きると思っています。
――最後に、山口さんがにとっての「阿賀野川」とは?
阿賀野川=「ふるさと」です。
昨年の新潟・福島豪雨による水害や、羽越の水害もそうですし、水俣病とか…。
過去のそういった水害があったにも関わらず、それでもなお一緒に生活を共にしているのは、やっぱり「ふるさと」だからなんだと思います。
山口 究
1987年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成14年度三川中学校卒業生
パート:テノール
青年海外協力隊を目指し、今年3月からアメリカで農業研修中
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――まず、合唱組曲「阿賀野川」についてお聞きしたいのですが。
そうですね…。
初めて聴いた時は13歳の頃でした。
小学生時代は、音楽の成績が悪かったので(笑)。
(音楽は)あまり好きな教科ではありませんでした。
だから“「阿賀野川」なんて絶対歌えない!!”っていうのが正直な第一印象でしたね。
――実際3年間歌ってみて、どうでしたか?
中学3年生になった時に、「歌いつぐ会」の実行委員長をやらせていただいて。
“なんでこんなヘタな自分が…。務まるのかな”と不安にも思いましたが(笑)。
今ではすごくいい思い出になってます。
――どんな思い出がありますか?
やっぱり、みんなで協力して取り組んだことですね。
僕が3年生の時は、ちょうど11周年目だったんです。
“もう一回みんなで踏み出そう!”っていうことで、「あらたに踏み出す一歩」というスローガンを掲げました。
実はPTAの方(かな?)が、気になさってたそうです。
“ひとつの節目である10周年が終わった時に、次はどのようなスローガンで来るのだろう?”と。
でも発表会の最後のコメントで、“このスローガンを聞いてすごく嬉しく思いました”と言ってくださったんですよね。
実行委員長として“ああ、このスローガンの下やってて良かったな”と思った瞬間でしたね。
――大変だったことはありますか?
う~ん…。
僕、口笛が吹けないので…(笑)。
「ふるさとの将軍杉」ではずっと吹いてるフリをしていました(一同爆笑)。
――思い入れの強い曲は?
…まぁそういうこともあって、やっぱり「将軍杉」ですかねぇ(笑)。
あの時、もう少し自分の意識が変わってたなら、口笛が吹けるようになるまで一生懸命やったかもって思います。
もしあの頃の自分に会えたら、“ちょっとがんばって練習してみたら?”って言いたいですね~。
――「阿賀野川」が20年間歌い継いがれていることに対して、いかがですか?
三川中学校の体育館に、「第20回…」という「歌いつぐ会」の張り紙が張り出されているのを見た時は驚きましたね。
“もう20年なんだ~”と。
20年って言ったらそれこそ、子供が大人になるくらいの年月ですよね。
その時の流れというか、伝統の中の一部に自分が居れたことを嬉しく感じました。
――元「歌いつぐ会」実行委員長として、今後「阿賀野川」に期待することはありますか?
「合唱」って言うと、昔の僕みたいに音楽の授業が苦手な子は“歌えないよな~”なんて思っちゃうかもしれませんが。
馴染みのあるROCK調だとか、例えばそうですね、AKB48とかアイドルが歌うような感じにしたりすれば、親しみを込めて歌えるんじゃないでしょうか。
これから中学生になって歌う子供たちも、感情移入がしやすいんじゃないかな~と。
だから、合唱×ROCK「阿賀野川」のプロジェクトを最初聞いた時に、“うわ~っ!スッゴイこと考える人がいるな~!”って思いました、本当に。
また、この話が適切なのかわからないですけど…。
阿賀野川には「新潟水俣病」という歴史もあったりします。
僕は、水俣病の歴史について調べていた時期がありました。
そのおかげで、いろんな方々からお話を聞けたり、様々な経験をさせていただきました。
阿賀町のちょっとした面を深く見るだけで、多くのことを与えてくれるんですよね、阿賀野川って。
羽越水害のことは、風化させないように後世へ伝えていかなければいけませんが、それ以外の歴史についても深く学んでもらいたいですね。
地元の子供たちには、そこから自分たちの世界を拡げていって欲しいな、と思います。
――おぉ。なんて立派なんでしょう!
そうですね~。この合唱組曲「阿賀野川」がそういった歴史や文化を知るきっかけになってくれたらいいですね。
ホントに勝手で押しつけがましいかもしれませんが、個人的に、このROCK調になった「阿賀野川」に期待する点はそこに尽きると思っています。
――最後に、山口さんがにとっての「阿賀野川」とは?
阿賀野川=「ふるさと」です。
昨年の新潟・福島豪雨による水害や、羽越の水害もそうですし、水俣病とか…。
過去のそういった水害があったにも関わらず、それでもなお一緒に生活を共にしているのは、やっぱり「ふるさと」だからなんだと思います。
山口 究
1987年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成14年度三川中学校卒業生
パート:テノール
青年海外協力隊を目指し、今年3月からアメリカで農業研修中
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会