2012年8月13日月曜日

「Sae インタビュー(前編)」

CDが発売されて1ヶ月―。
各方面から感想も寄せられる中、あらめてプロジェクトのスタート地点まで振り返り、今後の活動を見つめるSwallowtail*Queenbee ボーカル・三線Sae。
歴史ある伝統曲との出会いが、彼女の音楽活動の新たな意味ややり甲斐を生み出していく。




私が音楽活動をしていく中での「出会い」


――インタビューシリーズ、プロジェクトメンバーのアンカーを飾るのは、Swallowtail*QueenbeeボーカルのSaeさんです。
よろしくお願いします。


はい、よろしくお願いします。


――まず、プロジェクトに参加するきっかけを教えてください。

Swallowtail*Queenbeeのバンド活動をやっていく中で、ある日リーダー(ミナガワトオル氏)からこのプロジェクトの話がありました。
最終的に“やろう!”となったのは、リーダーが一人でコツコツ作っていた、デモ音源が完成してからのことです。
それ以前にも、思い起こせば何度か「阿賀野川」の話は聞いていた記憶があります。
昔、携帯電話で着メロ作ったものを無理矢理聴かされたり(笑)。
“この歌をバンドで演奏できないかなぁ”とか言ってましたね。
その当時は本当に漠然とした話で、“ふ~ん…”って思ってました。
だって全くイメージがわかなかったんですから(笑)。


――ミナガワさんは一人で計画を企てていたわけですね(笑)。

そうですね(笑)。
スタジオの帰り道だったかと思いますが、
“お前はボーカルだから(歌を表現する大事な役目という意味で)”と、
三川中学校の生徒が歌う合唱組曲「阿賀野川」の初演CDを手渡され…。
“覚えてきて!”と言われました(笑)。
続けて、
“ボクはこれをバンドでアレンジしようと思ってる。今、デモ音源を作っていることろだ”と。
今までとは違う「本気」を感じました。
他のメンバーが同意するかは疑問でしたが、ひとまずその初演CDをヘビーローテで聴きまくりました。
曲をひととおり覚えたころで、ちょうどデモ音源が完成したんです。


――デモ音源を聴いてどうでしたか?

“合唱曲がどうなるのか?”という疑問はありましたが、聴いた瞬間、合唱曲であることは忘れるくらいの感動がありました。
もちろん私は歌を先に覚えていたので、すんなり聴くことができましたよ。
でも何より、リーダーの口癖ですが、
「山本和夫×岩河三郎コンビによる、原曲が素晴らしい」のだと思いました(笑)。


――組曲の中で特に思い入れのある曲はありますか?

そうですね~。
5曲でワンセットなので、どれも伝えたいことが異なり素晴らしいと思います。
バンドアレンジでは、一曲一曲が個性的なアレンジになりました。
その中でも私はやっぱり、第一曲の「阿賀の里」が好きです。


――なるほど。どんなところが?

全体の雰囲気と詩の内容ですかね。
特に歌い出しの「紺碧の大空に鳶が舞っている」の一行が好きです。
この一行で私の中の「阿賀野川」が目覚めるんです!
メロディーも好きなポイントがいくつかあります。
例えばイントロのメロディー!
ギターのスライドから入るこのイントロがまた良いんです。
去年阿賀町では、新潟・福島豪雨による水害もあり、川は変わり果てた姿になってしまって…。
人々を悲しませました。
それでも、そんな自然に私たちは助けられ、守られている。
そんな気がするからです。




――ところでSaeさんは阿賀町出身ではありませんが、プロジェクトへはどのようなスタンスで?

はい、私は長岡市出身です。
でも「阿賀ロック」は壮大なプロジェクトですね。
出身は違いますが、私が音楽活動をしていく中での「出会い」だと思っています。
20年間も歌い継がれている合唱曲。
私自身も学生時代に合唱をやってましたし、とにかく歌うことがとても好きだったんですね。
めぐり合わせで組曲「阿賀野川」と出会い、続けてきたバンドで演奏し、歌うことができてとても嬉しく思います。
また、この組曲は“たくさんのキッカケや出会いをくれるなぁ”と感じています。


――ほう!それは具体的に?

はい。
今までバンドとしての活動は主にライブハウスが中心でした。
それが、アコースティックにも挑戦する機会をもらい、イベントや訪問演奏など活動範囲も広がりました。
あと、三川中学校へ実際に行って、ロックバージョンの「阿賀野川」を生徒さんや先生方に聴いてもらったり。
作詩家の山本和夫先生と親交の深かった若狭の方々に、先生のお話をいろいろ伺ったり。
「阿賀野川」が誕生したきっかけとなる作文を書かれた方とお会いしたり…。

羽越水害から歌の誕生まで、そして歌い継がれてきた20年の歴史の中で繋がっている人。
また、このプロジェクトに賛同して、新しいカタチを作り上げた人。
私は阿賀町出身ではありませんが、歴史を作り上げてきた方々に敬意を表します。
だからこそやり甲斐を感じるんです!

<後編へ続く>



Sae
新潟県長岡市出身
Swallowtail*Queenbee ボーカル・三線担当
バンド活動のほか、ソロでも活動中。

2012年8月9日木曜日

「神田 富美子インタビュー」

合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。




――まずは初めて歌うことになった時、いかがでしたか?

私はとーるBOY(ミナガワトオル氏)と同級生で、中学校1年生の時に「阿賀野川」のことを知りました。
なんか、“三川中学校がすごいプロジェクトをするんだな”っていう…。
“(初演公演の)CDを作って全国に販売するなんて、三川中スゴイぞ!”
っていう感じでしたね。
でもその時は、2、3年生の先輩が初演発表会をやってCDを作ってたから、私たちにはあまり関わりのないことなのかなって思ってました。
CDの歌詞カードには私たちの写真も載せてほしかったけどね(笑)!


――ははは(笑)。では、授業の思い出などは?

あのね、授業と授業の間の10分休みってあるじゃないですか。
そんな時まで、“早く集まって発声練習をしろー!”って言われてやった思い出がありますね。
昼休みももちろんなんだけど、そこまでして合唱に力を入れてたんだなぁ、という印象でした。
あと、濁音の発声練習方法がちょっと変わってて…。
例えば、「がぎぐげご」とかの濁音の前に必ず「ン」を入れるんですけど。
「母なる~阿ン賀野ン川は~ 悠々となンがれる~♪」みたいな(笑)。
そうすると濁音が汚らしく乱暴に聴こえないんです。


――ちなみに、ミナガワトオル氏の少年時代ってどんなでした?

とーるBOYはね、他の生徒たちより、特にこの「阿賀野川」に関しては真面目でね。
…あんまり言いたくないんだけど…(笑)。
進んで声を出してたり、先生の話も良く聴いて。
人一倍真面目に取り組んでたなぁって思います。
当時はほとんどの人が「歌わされている」って感覚だったでしょうけど、
とーるBOYの場合は、ホントに好きだったんでしょうね(笑)。
そんなオーラがすごい出てました。


――当時からやっぱりそうだったんですか、あの人(笑)!

合唱の発表会なんかでも、観に来てる人達はみんな目が行くみたいで(笑)。
“前列のあの子、身体揺らして大きな口開けて歌ってるね~”って。
そういう声はチラホラ何回も聞いてました。
確かに先生から、“口を大きく開けて、表情豊かに、全身で歌うように”と指導もされてましたから、
みんなそれぞれ自分なりに身体を揺らしながら歌ってた感じでしたけど。
その中でも特にとーるBOYは目立ってました。


《 合唱組曲「阿賀野川」の楽譜と初演発表会のCD 》
楽譜にはびっしりと事細かなメモが記されている。


――20年間歌われていることについてはいかがですか?

20年間歌い継がれてるっていうことはスゴイことですね。
去年の文化祭なんですけど、久しぶりに聴きに行きました。
自分が歌ってた時と違い、今は母親として聴く立場になって、あらためて「阿賀野川」の素晴らしさを発見した気がします。
昭和42年の羽越水害では子供も亡くなってますよね。
その亡くなった子供の親の気持ちも、昔は「歌わされている」だけだったけど、今ならわかるなぁって思います。
怖いなぁって…。
涙が出てきますね。
特に「羽越大災害」、「悲歌」…。
「悲歌」ってすごく悲しい歌ですけど、「光にむかって」では前向きになる歌で。
それを聴くと、すごく泣けてきますね~!
20年前に歌ってた時と、今こうして聴いてる時の気持ちは、やっぱり違いますね。


――あなたにとって阿賀野川とは?

去年水害があって、あんなに荒れ狂う阿賀野川を見たのは初めてでした。
幸い死者はでなかったものの、地域によっては床上浸水になったりして大変で…。
阿賀野川は羽越水害の時もそうですし、このように災害をもたらしますけど、
やっぱり私は三川が好きなので「ふるさと」ですかね。
私、高校卒業後は町外へ出たんですが、しょっちゅう三川へ帰ってきてました。
49号線に入って、阿賀野川沿いを車で走ってるとなんだか安心するんです。
だから阿賀野川とともにあるこの三川に、ずっといたいなぁと思ってます。


――最後に、合唱×ROCK「阿賀野川」プロジェクトのメンバーに向けてメッセージをお願いします。
神田さんたちが中学時代に歌ってた「阿賀野川」のことは、ミナガワ氏以外のメンバーは知らないわけですが。


あっ、でも、みなさんこのプロジェクトを通してすごく好きになってくれた、という話をとーるBOYから聞きました。
地元人としてはとても嬉しいことですね。
とーるBOYは同級生でもあるので、誇らしいです!
もっと有名になってもらって、“この人私の同級生なんだよー”って自慢したいですね(笑)。
メンバーのみなさんも、これからも頑張ってもらいたいと思います。



神田 富美子
1978年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成5年度三川中学校卒業生
パート:ソプラノ
介護施設勤務

2012年8月1日水曜日

「中嶌 哲演 インタビュー」

合唱組曲「阿賀野川」の詩の世界観を深く読み解くには、まず作詩者山本和夫という人物を知る必要がある。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。



パンツ一丁にランニング姿(笑)。


――山本和夫先生についてお話をお聞かせください。

山本先生のお宅は、ここ明通寺の檀家さんなんですよ。
だから山本先生のお父さんやお母さんの事も私は知ってます。
お父さんはお髭を生やした方で、村長さんも務められたり、学校の先生もされてたしね。
お母さんは、もう何でもできた人なんでしょうね。
糸車を回したりね、和裁なんかもできたでしょうし、すごく矍鑠としたお丈夫な方でしたね。
山本先生の一番で、最大の味方はお母さんだったんじゃないですかね。
包み込むようにして、山本先生をあったかく見守られたり、常に味方になっておられたんじゃないかなぁと思いますね。
先生の初期の詩集に、お母さんのことをテーマにしている作品もいくつかありますよ。
特に、お母さんの臨終を詩にされてるのなんかは、その中でも絶唱のひとつだと私は思っているんですけど。


――山本先生との思い出はありますか?

そうねぇ…。
先生を意識し始めたのは…、もう小学生時分から。
必ず休みのたびに帰って来られててね。
お寺へも訪ねて来てもらったり、気さくに子供たちにも声を掛ける先生でした。
もう、夏休みなんかに帰って来られると、パンツ一丁にランニング姿でね(笑)。
下駄をひっかけて、カランカラン村の中を散歩されてました。
私はこの散歩姿を思い出しますね。

私が小学校5、6年くらいの頃、将来の夢を聞かれた時に、“山本先生みたいな詩人になりたい”と答えたらしいのね。
昔は本当に田舎村だったから、休みのたびに東京から帰って来られる、先生のような人が新鮮だった。
児童文学の本も小学校に寄贈されたりね。
一様的なこの村の生活とは違った、何かこう…新しい風を、生まれ故郷に運んで来てくださった。
パンツ一丁にランニング姿の先生だったけども(笑)。
そういう感じの人として私は受け止めてたんでしょうね。


――山本先生は「お酒好き」とお聞きしましたが。

私はそんなにお酒は嗜まないので、先生と酌み交わしたっていうのはあんまり記憶にないんだけど。
子供の頃、たまたま私の両親と飲んでた時にね、面白いお話をされてた事がありましたね。
徳利を持ち上げながらね、“人ってそれぞれ考え方があるんだよ”と。
“この徳利の中に入ってるお酒を、「あ~、もうこれだけしか残っていない」と惜しみ惜しみ飲む人もいれば、
「まだこんなに残っているのか」という捉え方をしてお酒を楽しむ人もいる”
“同じ量に過ぎないんだけども、人によってそういうふうに捉え方が違うものなんだ”と。
“人の人生観も似たようなところがあるよね”って話されていました。
面白い話だなぁ、と印象に残ってますよ。


――例えが面白いですね。

そうなの、やっぱり詩人ですからね!
もう、先生の詩想というのはね、自由自在!古今東西!
ありとあらゆる分野に四通八達している。
イメージや言葉が自由に繋がり合ってね。
例え話も絶妙なものを出してくる。


――合唱組曲「阿賀野川」の詩の一節で、阿賀野川とドイツのライン川を重ね合わせるシーンがあります。

そうそう。
山本先生のあの自由自在さとか奔放さとか、それでいて大らかで深い味のある拡がり方っていうのは、
やっぱり中国文学、東洋文学・思想を大学時代に専攻された事が大いにベースにあるんだと思います。
老荘思想が専門分野だったから。
もちろんその枠に自分を閉じ込めるような先生ではなかったけどね(笑)。




「阿賀野川」はまるで交響曲(シンフォニー)ですね。


――こちら明通寺には、山本先生のお墓があるんですよね。

先生のご遺志も汲みらがらでしょうけど、息子さんが主としてお墓を建てられました。
山本先生が作られた、仏様の陶板を墓の上にはめ込んだりね。
墓石に刻まれた「山本和夫」という文字も、先生ご本人のものです。


――戒名というものは付いてないんですね。

最近では戒名に拘らない、いろんな葬り方が広まりつつありますね。
一番古い所では、森鴎外の墓が「森林太郎墓」とだけ書いてあって、戒名はないのですが。
頭の固い他のお寺の坊さんだと“戒名を授けない墓は預からない!”と対応する所もあるかもしれないけど。
私は先程言いましたように、少年時代より山本先生の感化も受けているから(笑)。
「自由であって良い」と思ってます。


――なるほど。
合唱組曲「阿賀野川」についてはいかがでしょうか?

いつ行きましたかね、新潟に…。
あの時、阿賀野川を見に行って舟下りもしましたね。
将軍杉も見ましたよ。
「阿賀野川」はまるで交響曲(シンフォニー)ですね。
山本先生は自由闊達な詩をいっぱい書いておられるけど、その先生のいろんな側面が総合されているような詩の構成は、
ひと色だけじゃなく、或いは形式ばったカチカチの構成詩でもないでしょ。
ゆったりと、大らかに何もかも飲み込みながらね、滔々と流れていくような、山本先生に相応しい交響曲(シンフォニー)的な詩だなぁと感じました。

小中学校の校歌も沢山作詩されています。
先生は必ず現地へ行ってフィールドワークされているんですよ。
実際の自然の風景、その風景も1シーズンだけじゃなくって、四季折々の風景をキチンと踏まえられているし。
単に、現在の人々と自然の関わり合いだけじゃなく、地域にずーっと根付いてきた歴史的な変遷も辿って今の姿がある、という事。
子供たちの歌に、未来に向けての展望も語っていますね。
そういうふうに、過去、現在、未来の時間的、歴史的視点がバッチリ納まっている。
先生が作詩される時のこういった作法は、「阿賀野川」の場合はもっと交響曲のように拡大された形で構成されていると思います。


――最後に、中嶌さんにとって「山本和夫」とは?

う~ん…(笑)。
「大人(たいじん)の風あり」…。
これは東洋思想や東洋文化の中で使う言葉なんですね。
大らかで、ありとあらゆるものを飲み込み知恵に溢れているんだけど、かと言ってそれをひけらかしているわけでもないしね。
とにかく村へ帰って来られると、子供もお年寄りも若者も…本当に無差別平等に声を掛けられていた。
先生は詩人だったから、ふるさとの道端に咲く草花にまで、たぶん声を掛けられていたと思いますね。




中嶌 哲演
1942年生まれ
福井県小浜市門前出身
明通寺住職