2012年6月29日金曜日

「斎藤 優希 インタビュー」

合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。




――初めて「阿賀野川」を聴いたのは?

はい、合唱組曲「阿賀野川」を初めて聴いたのはまだ小学生の時です。
中学生になると、授業で歌詞の内容の勉強があるんですよ。
先生と一緒に、石間にある羽越水害の碑石や氾濫した川を見に行ったりもしました。
そうやって「阿賀野川」の歌詞を勉強しながら、三川の歴史を学び、曲のことも深く知っていきました。


――中学時代、「阿賀野川」の思い出というと、どんな事が浮かびますか?

思い出は、ひたすら猛練習したことですかねぇ。
負けず嫌いなので(笑)、友達にも負けたくなくって。
誰よりも綺麗な高音を大きく出したいと思って、すごく練習してました。
学校での練習では足りないから、家でも毎日毎日歌ってましたね。
お風呂でとか(笑)。
ほんとに上手くなりたかった。


――熱心だったんですね。好きな曲などありますか?

4曲目の「悲歌」はすごくいい曲だと思います。
辛いことがあった後なのに、明るく前向きになっていく。
特に曲の後半ですよね。
前半の悲しくて重苦しい曲調から、だんだんと明るくなっていく雰囲気がとても好きです。


――斎藤さんにとって、「阿賀野川」とは?

小学校でも合唱曲はやってたんですが、とにかく今まで歌ってきた合唱曲の中では、間違いなく一番一生懸命に歌った曲です。
曲自体はとても深くて、重い感じのする内容だと思うんです。
だからこそ、この合唱組曲「阿賀野川」を全員で合唱して、完成した時の嬉しさと言ったらとっても大きい。
やっぱりこういうことは、経験したからこそ言えるのかもしれませんね。



斎藤 優希
1993年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成20年度三川中学校卒業生
パート:ソプラノ
(本人より一言)
音楽が大好きなので、これからも音楽に関わっていきたいです(*^^*)

2012年6月23日土曜日

「竹中 律子 インタビュー」

合唱組曲「阿賀野川」の詩の世界観を深く読み解くには、まず作詩者山本和夫という人物を知る必要がある。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。




山本先生は心のままに生きてて、まるで少年のような人


――初めてお会いしたときのことは覚えていますか?

山本先生に初めてお会いしたのは、たぶん主人と…他に何人かいらっしゃったかもしれませんが、萬徳寺(※)へ行ったときですね。
萬徳寺には国の天然記念物に指定されたモミジがあって、その庭園が有名なんですよ。
そこの五色椿のところで、山本先生が“この椿はね…”って説明してくださったのがとても印象に残ってます。
今から…30年くらい前ですかね~。


――山本先生はどんなお人でしたか?

お酒が好きだってのが、ホントに…(笑)。
うちの主人もお酒が好きでしたから。
私の祖母の実家が、むかし造り酒屋をしてたんですね。
そこの養子に来た従伯父が、山本先生と旧制中学で同級生だったんだそうです。
それで、山本先生は小浜に帰って来られると、しょっちゅうその酒屋さんへ来ておられて…。
酔っぱらっていらっしゃったそうです(笑)。
だから従伯母は、“山本さんが来ると長くて…(困)”という感じであまり歓迎していなかったようですが…(笑)。
でも、すごい陽気なお酒っていうか、いつも楽しそうに飲んでらっしゃいましたね。


――お酒が大変好きだったという情報は、他の若狭のみなさんからも異口同音に伺っております(笑)。

私の家にね、山本先生が書かれた直筆の色紙があるんです。
「醒めればわたしは 一人ぼっちの わたしになる」と書かれてます。
これは、合唱組曲「阿賀野川」の第四曲「悲歌」の詩の一部にあるのです。
…どっちだと思います(笑)?
「(お酒を飲んで)酔いよ、醒めるな」なのか、「悲歌」の詩のとおり「夢よ、さめるな」なのか…。


――あぁ!二つの意味に取れますね(笑)。

色紙をいただいた時は、ずーっと「酔いよ、醒めるな」だと思ってましたから(笑)。
“山本先生らしいなぁ”って、思い込んでたんです。
でも去年、資料をまとめてたときに詩を読んで、“あっ、「悲歌」の言葉なのかな”って思ったんですよ。
私も「阿賀野川」を歌ってたんだけど、その時は気付きませんでした。


――(吉井多美子氏)
 私には「桃の花咲く 平和な村が 拡がった」という色紙をくださったんですよ。
 他に、硝子屋さんの人は、カン、カン、カン…と、半鐘のことが書かれた色紙だった。
 “硝子職人さんにはピッタリやなぁ~”って言ってね(笑)。


――なるほど!では、山本先生はみなさんそれぞれに、「阿賀野川」の詩から抜粋して色紙を贈られたんですね。

と言うことは、私のは「夢よ さめるな」の意味ですね。
色紙に「夢よ」と書いてないあたりが、山本先生らしいユーモアなセンスですね(笑)。
きっとお酒の方の意味も含ませたんでしょう。


――山本先生のお酒好きは、みなさんにも受け継がれているようですね。

亡夫も、若狭文学会(※)に入らせてもらってたんですね。
その会合が、小浜にある私たち夫婦の別宅で開かれていたんですよ。
その別宅は、みなさんから「アジト」と呼ばれていました(笑)。
町の真ん中にありまして、普段は使ってない家だったんです。
だから、人が集まってお酒を飲んだりするには使いやすかったんですよね。
手帳に酒宴の日に○を付けていったら、ある年なんかは136回になりました。
主人はそれを自慢そうに話してました(笑)。




――ところで竹中さん、先ほど「阿賀野川」を歌ったとおっしゃっていましたが…。

【阿賀野川】コーラスサミット2004(※)へ行って歌いました。
もともと私も「ママさんコーラス」に入ってはいるんですけど。
なかなかこういうカッチリとした合唱曲は歌わないんです。
このような合唱曲に取り組むのは、初めてだったので大変でした。
でもああいうかたちで練習して、「阿賀野川」が流れる新潟へ皆さんと一緒に行き、1,000人以上の前で歌えたっていうのはすごく良かったなぁと思います。
2007年に、山本和夫先生の「生誕100年記念コンサート」を開催できたのも、このコーラスサミットがあったおかげなんですよね。
若狭からコーラスサミットへ行ったのは、8~10人程だったんですけど。
その人たちが中心となって、小浜で第九を歌ってる人とかにも声をかけました。
そのときだけの「青の村合唱団」を作って、山本先生作詩の「たじま牛」や「親しらず子しらず」などを歌いました。


――このコンサートでは、山本先生が作詩された学校の校歌も歌われたんですよね?

はい、学校の校歌はそれぞれの学校の子供たちが歌いました。
山本先生が校歌を作詩された学校は、県外にも多数あるんですけど。
この時は近隣の学校だけに声をかけまして、15もの小中高等学校が参加したのです。
“出ません”と断ったところは1校もなかったと思います。


――最後に、竹中さんにとって「山本和夫」とはどのような人ですか?

先生は「少年」のようでしたね(笑)。
気持ちは本当に少年のままでした。
心のままに生きていらっしゃって、それはプラス思考から生まれてくるものばかり。
戦争にも行っておられるし、いろんな大変なこともあったと思います。
でもそれらが全然マイナスの方向へ動いてないというか…。
詩なんか読んでみても、どれも純粋な感じがしますね~。



竹中 律子
1947年生まれ
福井県大飯郡おおい町出身
元小学校教師


※萬徳寺
福井県小浜市ある高野山真言宗の寺。
天然記念物の大山モミジを借景とする名勝枯山水庭園で知られている。

※若狭文学会
40年余りにわたって、福井県若狭地方の文学界をけん引。
年1~2回「若狭文学(1970年~2011年終刊)」を発行し、会の精神的支柱である山本和夫氏を様々な形で顕彰してきた。
毎年5月下旬には同会メンバーによって山本和夫忌を行っている。

※【阿賀野川】コーラスサミット2004
2004年(平成16年)8月29日、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館コンサートホールにて開催。
日本全国から、「川」にちなんだ合唱曲を歌っているコーラスグループ9団体が新潟に集結した。

2012年6月18日月曜日

読売新聞 平成24年6月9日(土)掲載



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2012年6月13日水曜日

「吉井 多美子 インタビュー(後編)」

合唱組曲「阿賀野川」の詩の世界観を深く読み解くには、まず作詩者山本和夫という人物を知る必要がある。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。


<前編を読む>



私にとって、山本先生はサンタクロースのような人


――他にはどんな思い出がありますか?

亡くなられるちょっと前に、“絵はがきを何枚送ったかな?”って言わはったのよ。
私に100枚の絵はがきを送ってくれる、という約束をしてたんです。
本当は80枚くらいあるのに、私は“40~50枚くらいでしょうかねぇ。”って嘘をつきました。
先生には“嘘ついとるやろ。”と、すぐばれてしまいましたけどね(笑)。
オー・ヘンリーの短篇に、葉っぱが落ちるお話がありますでしょ。
その話になぞって、少なく言ってちょっとでも長生きしてもらおうとしたんですが(笑)。
でもその後ね、ドサッと絵はがきが30枚くらい送られてきたのね。
一番最後のはがきが、誰か他の人に宛てた年賀状の書き損じが入ってました。
それを見て私は“あぁ、先生は亡くなられるなぁ。”って悟りました。


――【阿賀野川】コーラスサミット2004(※)では、吉井さんも「わかさ『青の村』合唱団」として「阿賀野川」を歌った経緯もあるとのことですが。

はい。
バスに乗ってね、新潟まで歌いに行きました。
当日指揮をされる岩崎先生には、新潟から何回か来ていただいて、指導もしていただきました。
新潟で合唱したときに、歌が合わなかったら困るからね。
あの時は、三川村の「阿賀野川」混声合唱団の他、いくつかの合唱団と一緒に歌ったんです。


――三川村へは行かれたことはありますか?

コーラスサミット以前、平成11年(1999年)7月に組曲「阿賀野川」を聴くため、三川中学校へ行ったことがあります。
そのときは明通寺の僧侶中嶌哲演さんや松井正さん、竹中延年さん(律子さんのご主人)も一緒でした。
三川温泉に入ったり、将軍杉も見に行きました。
懐かしいですね。


――最後の質問です。吉井さんにとって「山本和夫」とは?

私が作詩・作曲した「わたしのサンタクロース」という歌があるんです。



わたしのサンタクロース
作詩・作曲 吉井多美子

1.
わたしの好きなサンタクロース
トナカイのそりに乗り
冬の星空をかけてゆく
ベルを鳴らして

 ※リンルンルン リンルンルン リン ルンルン
  リンルンルン リンルンルン リン ルンルン
  リンルンルン リンルンルンルン ルン ルンルン


2.
わたしのすきなおじいさん
赤い帽子に赤い服
白いおひげがよくにあう
いつもにっこり


3.
わたしのすきなサンタクロース
大きな袋の中に
いっぱい詰まった夢と愛
くばってゆくの

 ※くり返し


これは、山本先生のイメージして作りました。
私にとってはサンタクロースのような人でしたね。


――まさにイメージにぴったりの曲ですね(拍手)!
貴重なお話を聞かせてくださいまして、ありがとうございました。






吉井 多美子
1946年生まれ
京都府京都市出身
小浜病院ボランティアすみれの会、若狭福祉会、
福井県立若狭歴史民俗資料館友の会会員


※【阿賀野川】コーラスサミット2004
2004年(平成16年)8月29日、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館コンサートホールにて開催。
日本全国から、「川」にちなんだ合唱曲を歌っているコーラスグループ9団体が新潟に集結した。

2012年6月5日火曜日

「吉井 多美子 インタビュー(前編)」

合唱組曲「阿賀野川」の詩の世界観を深く読み解くには、まず作詩者山本和夫という人物を知る必要がある。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。




私は「アッシー君」を務めていました(笑)


――山本和夫先生についてお話を伺っていきます。

山本先生は福井県立若狭歴史民俗資料館の館長をされていました。
その頃、月に1回は小浜に来られていましたので、私は「アッシー君」を務めていました(笑)。
車を運転して、先生とあちこち行きました。
そのうちに私は、作曲をするようになったので。
“次に来る時までに曲を作っておくよう”と、山本先生にはよく言われてましたね。


――吉井さんは山本先生と特に親しかったとお聞きしておりますが。

病床からもね、しょっちゅう電話がかかってきました。
“なんの用でしょうか?”と聞くと、
“用がなかったら、電話したらいかんのかー!?”と(笑)。


――ははは(笑)。お茶目ですね。

亡くなられる前もね、電話で“もう死にそうや…。”と言ってね。
山本先生は、“君は、来るんか?葬式には行かないけど、見舞いには来るって言うたやろ。”って。
“そうですね、ほんならお見舞いに行きます。何か食べたいものありませんか?”と聞いたら、
“ふたつある。”っておっしゃるんです。
“ひとつは鮎や。そこら辺の下流の鮎なんか食べられんぞ。ワシは水の綺麗なところで育ってるから、天然の鮎でないと。”(笑)。
それから“もうひとつはよもぎや。それも標高800メートル以上のところで摘んだよもぎで作った草餅が食べたい”って。


――なかなか細かいご注文でしたね(笑)。

私も“そうですか、わかりました。”と言ったものの、鮎はまだ解禁日になってないし(笑)。
よもぎも、池河内に行ったらきっと標高800メートルくらいあるかな、と思っていたけど(笑)。
主人に聞いたら“そんなとこ小浜にあらへんぞ~!”って(笑)。


――それは困りました(笑)。で、どうされたんですか?

友人に山の会の人がおられたから、摘んできてもらったんやけれど。
そんなにたくさん採れなかったので、うちの畑で採れたよもぎも加えて作りました。
近所の奥さん方にも来てもらってね。
鮎は、昨年冷凍してたのがあるのを思い出して、保冷剤を入れて送りました。
都立府中病院にて先生は、“はぁ、はぁ…”としんどそうだった…。
身体をさすってあげました。
“がんばれ、がんばれ”って。
他にも、女の人が何人も来てました。
だから順番待ち(笑)。
私もあんまり長くそこにはいられなかった。


――おモテになったんですね、先生は(笑)。

で、結局ね、鮎や草餅は食べてもらえなかったのかな~。
すぐに倒れられたみたいで…。
でもお棺の中には入れていただきました。
お葬式にも女の人がいっぱい(笑)!

<後編を読む>




吉井 多美子
1946年生まれ
京都市出身
小浜病院ボランティアすみれの会、若狭福祉会、
福井県立若狭歴史民俗資料館友の会会員