2012年10月19日金曜日
2012年10月12日金曜日
「Sae インタビュー(後編)」
各方面から感想も寄せられる中、あらめてプロジェクトのスタート地点まで振り返り、今後の活動を見つめるSwallowtail*Queenbee ボーカル・三線Sae。
歴史ある伝統曲との出会いが、彼女の音楽活動の新たな意味ややり甲斐を生み出していく。
<前編を読む>
今思えば挫折も原動力になっている
――プロ演歌歌手、Minamiさんとの共演はいかがでしたか?
そうですね。
リーダーの想いに賛同して、参加してくれとても嬉しかったです。
正直、プロの方との共演はプレッシャーでもあり、有り難くもありました。
Minamiさんは本当に歌が大好きなんです!
練習で行ったカラオケではマイクを離しません(笑)。
心から明るく、笑顔が輝いていて、人に対していつも感謝を忘れず優しさに溢れています。
そのすべてを歌で表現しているんですね。
そういったことを近くで感じることができて嬉しかったです。
――歌うなかで苦労したことなどありますか?
そうですね~。
私としてはもとが合唱曲なので、音程をつかむことが難しかったです。
思い込んで違うメロディーで歌っていることもしばしば…。
メインのメロディーは楽譜に忠実に歌わないとですからね。
コーラスのパートは、合唱だと綺麗に聴こえても、二人のハーモニーだとバンド音に合わせたとき、あまり素敵じゃなかったので、少し変えているところもあります。
実際の合唱とも聴き比べて欲しいですね。
――レコーディング中の思い出なんかありますか?
パンを…(笑)。
レコーディングは朝から一日作業で。
お昼にMinamiさんが持ってきてくれたパンを食べたんです。
意外に自分の歌う番が早く来てしまって。
私は食べ物食べた直後はタンがからんで声がガラガラになるんです。
本当は良くないんですが、時間も限りがありますので歌ったんですね。
それがかえってか味が出てよかったのかもしれません。
ガラガラポイント、探してみてください(笑)。
そんなメンバーの一瞬を閉じ込めた作品になりましたね!
――ところでSaeさんは三線を演奏されますよね?
はい、第ニ曲「ふるさとの将軍杉」には三線を入れました。
5曲の中でも一番、三線の音色が合いそうな曲でしたね。
素朴で温かい音色が良かったと思います。
――何故、三線を始めたんですか?
明確な理由はないんですが、ギターに挫折したからですかね(笑)。
ギターは上手い人がいっぱいいますし、練習してもなかなか上手くなりませんでした。
あ、バンドを始めた当時はギターボーカルの曲がありました。
歌うだけじゃなくて、楽器を弾きながら歌える人に憧れがありました。
そんなとき、三線という楽器を知って、面白そうだと思いました。
ネットで検索したら結構安く買えるなぁっと。
――それからどうやって三線を覚えたんですか?
どうやっていいのかわからなくて、完全なる独学です。
ギターのような感覚で弾いていて、結局やり方がわからなくて挫折したんです(笑)。
――あら…そうなんですね。
他に弾いてる人も知りませんでしたし、楽しさもわからないままでした。
でも、やっぱり弾き語りできるようになりたいと思ったとき、三線サークルや演奏家など、自然といろんな出会いがあり、三線仲間がいっぱいできました。
弾き語りする楽しさをようやく知ることができたんです。
――ここ最近のSaeさんの三線活動は盛んですもんね!
今思えば挫折も原動力になっているんだなって。
挫折したから見えたものもあるし、そこから生まれる新たな喜びもあります!
まるで、組曲「阿賀野川」のメッセージみたいですね(笑)。
まだまだ日々勉強中ですが、今、いろんなカタチで演奏できることも、こうやってバンドを続けていられることも、ひとりでは出来ないことです。
出会いや仲間に本当に感謝しています。
――それでは最後にみなさんへメッセージを!
はい!
試行錯誤して、大切な仲間と頑張ってつくった作品を聴いてもらえることが本当嬉しいです!!
これからも可愛がってください。
そして、合唱ですから、是非一緒に歌いましょう!!
Sae
新潟県長岡市出身
Swallowtail*Queenbee ボーカル・三線担当
バンド活動のほか、ソロでも活動中。
歴史ある伝統曲との出会いが、彼女の音楽活動の新たな意味ややり甲斐を生み出していく。
<前編を読む>
今思えば挫折も原動力になっている
――プロ演歌歌手、Minamiさんとの共演はいかがでしたか?
そうですね。
リーダーの想いに賛同して、参加してくれとても嬉しかったです。
正直、プロの方との共演はプレッシャーでもあり、有り難くもありました。
Minamiさんは本当に歌が大好きなんです!
練習で行ったカラオケではマイクを離しません(笑)。
心から明るく、笑顔が輝いていて、人に対していつも感謝を忘れず優しさに溢れています。
そのすべてを歌で表現しているんですね。
そういったことを近くで感じることができて嬉しかったです。
――歌うなかで苦労したことなどありますか?
そうですね~。
私としてはもとが合唱曲なので、音程をつかむことが難しかったです。
思い込んで違うメロディーで歌っていることもしばしば…。
メインのメロディーは楽譜に忠実に歌わないとですからね。
コーラスのパートは、合唱だと綺麗に聴こえても、二人のハーモニーだとバンド音に合わせたとき、あまり素敵じゃなかったので、少し変えているところもあります。
実際の合唱とも聴き比べて欲しいですね。
――レコーディング中の思い出なんかありますか?
パンを…(笑)。
レコーディングは朝から一日作業で。
お昼にMinamiさんが持ってきてくれたパンを食べたんです。
意外に自分の歌う番が早く来てしまって。
私は食べ物食べた直後はタンがからんで声がガラガラになるんです。
本当は良くないんですが、時間も限りがありますので歌ったんですね。
それがかえってか味が出てよかったのかもしれません。
ガラガラポイント、探してみてください(笑)。
そんなメンバーの一瞬を閉じ込めた作品になりましたね!
――ところでSaeさんは三線を演奏されますよね?
はい、第ニ曲「ふるさとの将軍杉」には三線を入れました。
5曲の中でも一番、三線の音色が合いそうな曲でしたね。
素朴で温かい音色が良かったと思います。
――何故、三線を始めたんですか?
明確な理由はないんですが、ギターに挫折したからですかね(笑)。
ギターは上手い人がいっぱいいますし、練習してもなかなか上手くなりませんでした。
あ、バンドを始めた当時はギターボーカルの曲がありました。
歌うだけじゃなくて、楽器を弾きながら歌える人に憧れがありました。
そんなとき、三線という楽器を知って、面白そうだと思いました。
ネットで検索したら結構安く買えるなぁっと。
――それからどうやって三線を覚えたんですか?
どうやっていいのかわからなくて、完全なる独学です。
ギターのような感覚で弾いていて、結局やり方がわからなくて挫折したんです(笑)。
――あら…そうなんですね。
他に弾いてる人も知りませんでしたし、楽しさもわからないままでした。
でも、やっぱり弾き語りできるようになりたいと思ったとき、三線サークルや演奏家など、自然といろんな出会いがあり、三線仲間がいっぱいできました。
弾き語りする楽しさをようやく知ることができたんです。
――ここ最近のSaeさんの三線活動は盛んですもんね!
今思えば挫折も原動力になっているんだなって。
挫折したから見えたものもあるし、そこから生まれる新たな喜びもあります!
まるで、組曲「阿賀野川」のメッセージみたいですね(笑)。
まだまだ日々勉強中ですが、今、いろんなカタチで演奏できることも、こうやってバンドを続けていられることも、ひとりでは出来ないことです。
出会いや仲間に本当に感謝しています。
――それでは最後にみなさんへメッセージを!
はい!
試行錯誤して、大切な仲間と頑張ってつくった作品を聴いてもらえることが本当嬉しいです!!
これからも可愛がってください。
そして、合唱ですから、是非一緒に歌いましょう!!
Sae
新潟県長岡市出身
Swallowtail*Queenbee ボーカル・三線担当
バンド活動のほか、ソロでも活動中。
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年10月7日日曜日
2012年10月1日月曜日
2012年9月28日金曜日
2012年9月5日水曜日
チャリティーコンサート合唱組曲「阿賀野川」
東日本大震災、新潟・福島豪雨水害復興チャリティーコンサート合唱組曲「阿賀野川」が、9月2日、村上市民ふれあいセンターにて開かれた。
《 紺碧の大空が広がる、村上市民ふれあいセンター 》
合唱組曲「阿賀野川」は昭和42年の羽越水害をもとに平成3年に旧三川村で誕生しているが、その被害はなにも旧三川村だけに限ったことではない。
羽越水害は、山形県置賜地方から新潟県下越地方を襲った集中豪雨。
村上市を流れる荒川流域だけでも死者・行方不明者90名、全壊・流出家屋1,056戸という甚大な被害をもたらした。
今年、その悲劇から45年が経ち、まだまだ記憶に新しい昨年の東北の大地震や新潟・福島豪雨も含めて、水害の恐ろしさを伝えるために、また、一日も早い復興を願うために…。
犠牲者に追悼の意を込めて村上から被災地へ向けて歌を届けようと企画された。
オープニングアクト
・新潟県立村上高等学校吹奏楽部
・ソプラノ独唱 伊藤 舞(胎内市出身)
ステージ1
・水害スライド上映「自然の力 人の力」
村上市立村上第一中学校 教諭 小黒 淳一
ステージ2
・合唱組曲「阿賀野川」演奏会
指揮 伴田 攻 伴奏 鈴木 典子
合唱組曲「阿賀野川」を歌う有志の会
(阿賀野川混声合唱団、村上混声合唱団、一般公募合唱団)
《 同時開催となる、パネル展 》
胸が絞めつけられそうなくらい衝撃的で真実(リアル)な写真が、多数展示されていた。
悲惨な記憶から目をそむけるのではなく、しっかりと受け止めること。
「二度とこのような水害が起きないように」
忘れずに心にとどめておくことが大切。
《 特別に、合唱×ROCK「阿賀野川」CDの販売コーナーも設置 》
閉会後、会場の外では大きな虹が架かり、
夢とロマンが、さんさんと光り輝いていた。
《 紺碧の大空が広がる、村上市民ふれあいセンター 》
合唱組曲「阿賀野川」は昭和42年の羽越水害をもとに平成3年に旧三川村で誕生しているが、その被害はなにも旧三川村だけに限ったことではない。
羽越水害は、山形県置賜地方から新潟県下越地方を襲った集中豪雨。
村上市を流れる荒川流域だけでも死者・行方不明者90名、全壊・流出家屋1,056戸という甚大な被害をもたらした。
今年、その悲劇から45年が経ち、まだまだ記憶に新しい昨年の東北の大地震や新潟・福島豪雨も含めて、水害の恐ろしさを伝えるために、また、一日も早い復興を願うために…。
犠牲者に追悼の意を込めて村上から被災地へ向けて歌を届けようと企画された。
オープニングアクト
・新潟県立村上高等学校吹奏楽部
・ソプラノ独唱 伊藤 舞(胎内市出身)
ステージ1
・水害スライド上映「自然の力 人の力」
村上市立村上第一中学校 教諭 小黒 淳一
ステージ2
・合唱組曲「阿賀野川」演奏会
指揮 伴田 攻 伴奏 鈴木 典子
合唱組曲「阿賀野川」を歌う有志の会
(阿賀野川混声合唱団、村上混声合唱団、一般公募合唱団)
《 同時開催となる、パネル展 》
胸が絞めつけられそうなくらい衝撃的で真実(リアル)な写真が、多数展示されていた。
悲惨な記憶から目をそむけるのではなく、しっかりと受け止めること。
「二度とこのような水害が起きないように」
忘れずに心にとどめておくことが大切。
《 特別に、合唱×ROCK「阿賀野川」CDの販売コーナーも設置 》
閉会後、会場の外では大きな虹が架かり、
夢とロマンが、さんさんと光り輝いていた。
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年8月13日月曜日
「Sae インタビュー(前編)」
CDが発売されて1ヶ月―。
各方面から感想も寄せられる中、あらめてプロジェクトのスタート地点まで振り返り、今後の活動を見つめるSwallowtail*Queenbee ボーカル・三線Sae。
歴史ある伝統曲との出会いが、彼女の音楽活動の新たな意味ややり甲斐を生み出していく。
私が音楽活動をしていく中での「出会い」
――インタビューシリーズ、プロジェクトメンバーのアンカーを飾るのは、Swallowtail*QueenbeeボーカルのSaeさんです。
よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
――まず、プロジェクトに参加するきっかけを教えてください。
Swallowtail*Queenbeeのバンド活動をやっていく中で、ある日リーダー(ミナガワトオル氏)からこのプロジェクトの話がありました。
最終的に“やろう!”となったのは、リーダーが一人でコツコツ作っていた、デモ音源が完成してからのことです。
それ以前にも、思い起こせば何度か「阿賀野川」の話は聞いていた記憶があります。
昔、携帯電話で着メロ作ったものを無理矢理聴かされたり(笑)。
“この歌をバンドで演奏できないかなぁ”とか言ってましたね。
その当時は本当に漠然とした話で、“ふ~ん…”って思ってました。
だって全くイメージがわかなかったんですから(笑)。
――ミナガワさんは一人で計画を企てていたわけですね(笑)。
そうですね(笑)。
スタジオの帰り道だったかと思いますが、
“お前はボーカルだから(歌を表現する大事な役目という意味で)”と、
三川中学校の生徒が歌う合唱組曲「阿賀野川」の初演CDを手渡され…。
“覚えてきて!”と言われました(笑)。
続けて、
“ボクはこれをバンドでアレンジしようと思ってる。今、デモ音源を作っていることろだ”と。
今までとは違う「本気」を感じました。
他のメンバーが同意するかは疑問でしたが、ひとまずその初演CDをヘビーローテで聴きまくりました。
曲をひととおり覚えたころで、ちょうどデモ音源が完成したんです。
――デモ音源を聴いてどうでしたか?
“合唱曲がどうなるのか?”という疑問はありましたが、聴いた瞬間、合唱曲であることは忘れるくらいの感動がありました。
もちろん私は歌を先に覚えていたので、すんなり聴くことができましたよ。
でも何より、リーダーの口癖ですが、
「山本和夫×岩河三郎コンビによる、原曲が素晴らしい」のだと思いました(笑)。
――組曲の中で特に思い入れのある曲はありますか?
そうですね~。
5曲でワンセットなので、どれも伝えたいことが異なり素晴らしいと思います。
バンドアレンジでは、一曲一曲が個性的なアレンジになりました。
その中でも私はやっぱり、第一曲の「阿賀の里」が好きです。
――なるほど。どんなところが?
全体の雰囲気と詩の内容ですかね。
特に歌い出しの「紺碧の大空に鳶が舞っている」の一行が好きです。
この一行で私の中の「阿賀野川」が目覚めるんです!
メロディーも好きなポイントがいくつかあります。
例えばイントロのメロディー!
ギターのスライドから入るこのイントロがまた良いんです。
去年阿賀町では、新潟・福島豪雨による水害もあり、川は変わり果てた姿になってしまって…。
人々を悲しませました。
それでも、そんな自然に私たちは助けられ、守られている。
そんな気がするからです。
――ところでSaeさんは阿賀町出身ではありませんが、プロジェクトへはどのようなスタンスで?
はい、私は長岡市出身です。
でも「阿賀ロック」は壮大なプロジェクトですね。
出身は違いますが、私が音楽活動をしていく中での「出会い」だと思っています。
20年間も歌い継がれている合唱曲。
私自身も学生時代に合唱をやってましたし、とにかく歌うことがとても好きだったんですね。
めぐり合わせで組曲「阿賀野川」と出会い、続けてきたバンドで演奏し、歌うことができてとても嬉しく思います。
また、この組曲は“たくさんのキッカケや出会いをくれるなぁ”と感じています。
――ほう!それは具体的に?
はい。
今までバンドとしての活動は主にライブハウスが中心でした。
それが、アコースティックにも挑戦する機会をもらい、イベントや訪問演奏など活動範囲も広がりました。
あと、三川中学校へ実際に行って、ロックバージョンの「阿賀野川」を生徒さんや先生方に聴いてもらったり。
作詩家の山本和夫先生と親交の深かった若狭の方々に、先生のお話をいろいろ伺ったり。
「阿賀野川」が誕生したきっかけとなる作文を書かれた方とお会いしたり…。
羽越水害から歌の誕生まで、そして歌い継がれてきた20年の歴史の中で繋がっている人。
また、このプロジェクトに賛同して、新しいカタチを作り上げた人。
私は阿賀町出身ではありませんが、歴史を作り上げてきた方々に敬意を表します。
だからこそやり甲斐を感じるんです!
<後編へ続く>
Sae
新潟県長岡市出身
Swallowtail*Queenbee ボーカル・三線担当
バンド活動のほか、ソロでも活動中。
各方面から感想も寄せられる中、あらめてプロジェクトのスタート地点まで振り返り、今後の活動を見つめるSwallowtail*Queenbee ボーカル・三線Sae。
歴史ある伝統曲との出会いが、彼女の音楽活動の新たな意味ややり甲斐を生み出していく。
私が音楽活動をしていく中での「出会い」
――インタビューシリーズ、プロジェクトメンバーのアンカーを飾るのは、Swallowtail*QueenbeeボーカルのSaeさんです。
よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
――まず、プロジェクトに参加するきっかけを教えてください。
Swallowtail*Queenbeeのバンド活動をやっていく中で、ある日リーダー(ミナガワトオル氏)からこのプロジェクトの話がありました。
最終的に“やろう!”となったのは、リーダーが一人でコツコツ作っていた、デモ音源が完成してからのことです。
それ以前にも、思い起こせば何度か「阿賀野川」の話は聞いていた記憶があります。
昔、携帯電話で着メロ作ったものを無理矢理聴かされたり(笑)。
“この歌をバンドで演奏できないかなぁ”とか言ってましたね。
その当時は本当に漠然とした話で、“ふ~ん…”って思ってました。
だって全くイメージがわかなかったんですから(笑)。
――ミナガワさんは一人で計画を企てていたわけですね(笑)。
そうですね(笑)。
スタジオの帰り道だったかと思いますが、
“お前はボーカルだから(歌を表現する大事な役目という意味で)”と、
三川中学校の生徒が歌う合唱組曲「阿賀野川」の初演CDを手渡され…。
“覚えてきて!”と言われました(笑)。
続けて、
“ボクはこれをバンドでアレンジしようと思ってる。今、デモ音源を作っていることろだ”と。
今までとは違う「本気」を感じました。
他のメンバーが同意するかは疑問でしたが、ひとまずその初演CDをヘビーローテで聴きまくりました。
曲をひととおり覚えたころで、ちょうどデモ音源が完成したんです。
――デモ音源を聴いてどうでしたか?
“合唱曲がどうなるのか?”という疑問はありましたが、聴いた瞬間、合唱曲であることは忘れるくらいの感動がありました。
もちろん私は歌を先に覚えていたので、すんなり聴くことができましたよ。
でも何より、リーダーの口癖ですが、
「山本和夫×岩河三郎コンビによる、原曲が素晴らしい」のだと思いました(笑)。
――組曲の中で特に思い入れのある曲はありますか?
そうですね~。
5曲でワンセットなので、どれも伝えたいことが異なり素晴らしいと思います。
バンドアレンジでは、一曲一曲が個性的なアレンジになりました。
その中でも私はやっぱり、第一曲の「阿賀の里」が好きです。
――なるほど。どんなところが?
全体の雰囲気と詩の内容ですかね。
特に歌い出しの「紺碧の大空に鳶が舞っている」の一行が好きです。
この一行で私の中の「阿賀野川」が目覚めるんです!
メロディーも好きなポイントがいくつかあります。
例えばイントロのメロディー!
ギターのスライドから入るこのイントロがまた良いんです。
去年阿賀町では、新潟・福島豪雨による水害もあり、川は変わり果てた姿になってしまって…。
人々を悲しませました。
それでも、そんな自然に私たちは助けられ、守られている。
そんな気がするからです。
――ところでSaeさんは阿賀町出身ではありませんが、プロジェクトへはどのようなスタンスで?
はい、私は長岡市出身です。
でも「阿賀ロック」は壮大なプロジェクトですね。
出身は違いますが、私が音楽活動をしていく中での「出会い」だと思っています。
20年間も歌い継がれている合唱曲。
私自身も学生時代に合唱をやってましたし、とにかく歌うことがとても好きだったんですね。
めぐり合わせで組曲「阿賀野川」と出会い、続けてきたバンドで演奏し、歌うことができてとても嬉しく思います。
また、この組曲は“たくさんのキッカケや出会いをくれるなぁ”と感じています。
――ほう!それは具体的に?
はい。
今までバンドとしての活動は主にライブハウスが中心でした。
それが、アコースティックにも挑戦する機会をもらい、イベントや訪問演奏など活動範囲も広がりました。
あと、三川中学校へ実際に行って、ロックバージョンの「阿賀野川」を生徒さんや先生方に聴いてもらったり。
作詩家の山本和夫先生と親交の深かった若狭の方々に、先生のお話をいろいろ伺ったり。
「阿賀野川」が誕生したきっかけとなる作文を書かれた方とお会いしたり…。
羽越水害から歌の誕生まで、そして歌い継がれてきた20年の歴史の中で繋がっている人。
また、このプロジェクトに賛同して、新しいカタチを作り上げた人。
私は阿賀町出身ではありませんが、歴史を作り上げてきた方々に敬意を表します。
だからこそやり甲斐を感じるんです!
<後編へ続く>
Sae
新潟県長岡市出身
Swallowtail*Queenbee ボーカル・三線担当
バンド活動のほか、ソロでも活動中。
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年8月9日木曜日
「神田 富美子インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――まずは初めて歌うことになった時、いかがでしたか?
私はとーるBOY(ミナガワトオル氏)と同級生で、中学校1年生の時に「阿賀野川」のことを知りました。
なんか、“三川中学校がすごいプロジェクトをするんだな”っていう…。
“(初演公演の)CDを作って全国に販売するなんて、三川中スゴイぞ!”
っていう感じでしたね。
でもその時は、2、3年生の先輩が初演発表会をやってCDを作ってたから、私たちにはあまり関わりのないことなのかなって思ってました。
CDの歌詞カードには私たちの写真も載せてほしかったけどね(笑)!
――ははは(笑)。では、授業の思い出などは?
あのね、授業と授業の間の10分休みってあるじゃないですか。
そんな時まで、“早く集まって発声練習をしろー!”って言われてやった思い出がありますね。
昼休みももちろんなんだけど、そこまでして合唱に力を入れてたんだなぁ、という印象でした。
あと、濁音の発声練習方法がちょっと変わってて…。
例えば、「がぎぐげご」とかの濁音の前に必ず「ン」を入れるんですけど。
「母なる~阿ン賀野ン川は~ 悠々となンがれる~♪」みたいな(笑)。
そうすると濁音が汚らしく乱暴に聴こえないんです。
――ちなみに、ミナガワトオル氏の少年時代ってどんなでした?
とーるBOYはね、他の生徒たちより、特にこの「阿賀野川」に関しては真面目でね。
…あんまり言いたくないんだけど…(笑)。
進んで声を出してたり、先生の話も良く聴いて。
人一倍真面目に取り組んでたなぁって思います。
当時はほとんどの人が「歌わされている」って感覚だったでしょうけど、
とーるBOYの場合は、ホントに好きだったんでしょうね(笑)。
そんなオーラがすごい出てました。
――当時からやっぱりそうだったんですか、あの人(笑)!
合唱の発表会なんかでも、観に来てる人達はみんな目が行くみたいで(笑)。
“前列のあの子、身体揺らして大きな口開けて歌ってるね~”って。
そういう声はチラホラ何回も聞いてました。
確かに先生から、“口を大きく開けて、表情豊かに、全身で歌うように”と指導もされてましたから、
みんなそれぞれ自分なりに身体を揺らしながら歌ってた感じでしたけど。
その中でも特にとーるBOYは目立ってました。
《 合唱組曲「阿賀野川」の楽譜と初演発表会のCD 》
楽譜にはびっしりと事細かなメモが記されている。
――20年間歌われていることについてはいかがですか?
20年間歌い継がれてるっていうことはスゴイことですね。
去年の文化祭なんですけど、久しぶりに聴きに行きました。
自分が歌ってた時と違い、今は母親として聴く立場になって、あらためて「阿賀野川」の素晴らしさを発見した気がします。
昭和42年の羽越水害では子供も亡くなってますよね。
その亡くなった子供の親の気持ちも、昔は「歌わされている」だけだったけど、今ならわかるなぁって思います。
怖いなぁって…。
涙が出てきますね。
特に「羽越大災害」、「悲歌」…。
「悲歌」ってすごく悲しい歌ですけど、「光にむかって」では前向きになる歌で。
それを聴くと、すごく泣けてきますね~!
20年前に歌ってた時と、今こうして聴いてる時の気持ちは、やっぱり違いますね。
――あなたにとって阿賀野川とは?
去年水害があって、あんなに荒れ狂う阿賀野川を見たのは初めてでした。
幸い死者はでなかったものの、地域によっては床上浸水になったりして大変で…。
阿賀野川は羽越水害の時もそうですし、このように災害をもたらしますけど、
やっぱり私は三川が好きなので「ふるさと」ですかね。
私、高校卒業後は町外へ出たんですが、しょっちゅう三川へ帰ってきてました。
49号線に入って、阿賀野川沿いを車で走ってるとなんだか安心するんです。
だから阿賀野川とともにあるこの三川に、ずっといたいなぁと思ってます。
――最後に、合唱×ROCK「阿賀野川」プロジェクトのメンバーに向けてメッセージをお願いします。
神田さんたちが中学時代に歌ってた「阿賀野川」のことは、ミナガワ氏以外のメンバーは知らないわけですが。
あっ、でも、みなさんこのプロジェクトを通してすごく好きになってくれた、という話をとーるBOYから聞きました。
地元人としてはとても嬉しいことですね。
とーるBOYは同級生でもあるので、誇らしいです!
もっと有名になってもらって、“この人私の同級生なんだよー”って自慢したいですね(笑)。
メンバーのみなさんも、これからも頑張ってもらいたいと思います。
神田 富美子
1978年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成5年度三川中学校卒業生
パート:ソプラノ
介護施設勤務
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――まずは初めて歌うことになった時、いかがでしたか?
私はとーるBOY(ミナガワトオル氏)と同級生で、中学校1年生の時に「阿賀野川」のことを知りました。
なんか、“三川中学校がすごいプロジェクトをするんだな”っていう…。
“(初演公演の)CDを作って全国に販売するなんて、三川中スゴイぞ!”
っていう感じでしたね。
でもその時は、2、3年生の先輩が初演発表会をやってCDを作ってたから、私たちにはあまり関わりのないことなのかなって思ってました。
CDの歌詞カードには私たちの写真も載せてほしかったけどね(笑)!
――ははは(笑)。では、授業の思い出などは?
あのね、授業と授業の間の10分休みってあるじゃないですか。
そんな時まで、“早く集まって発声練習をしろー!”って言われてやった思い出がありますね。
昼休みももちろんなんだけど、そこまでして合唱に力を入れてたんだなぁ、という印象でした。
あと、濁音の発声練習方法がちょっと変わってて…。
例えば、「がぎぐげご」とかの濁音の前に必ず「ン」を入れるんですけど。
「母なる~阿ン賀野ン川は~ 悠々となンがれる~♪」みたいな(笑)。
そうすると濁音が汚らしく乱暴に聴こえないんです。
――ちなみに、ミナガワトオル氏の少年時代ってどんなでした?
とーるBOYはね、他の生徒たちより、特にこの「阿賀野川」に関しては真面目でね。
…あんまり言いたくないんだけど…(笑)。
進んで声を出してたり、先生の話も良く聴いて。
人一倍真面目に取り組んでたなぁって思います。
当時はほとんどの人が「歌わされている」って感覚だったでしょうけど、
とーるBOYの場合は、ホントに好きだったんでしょうね(笑)。
そんなオーラがすごい出てました。
――当時からやっぱりそうだったんですか、あの人(笑)!
合唱の発表会なんかでも、観に来てる人達はみんな目が行くみたいで(笑)。
“前列のあの子、身体揺らして大きな口開けて歌ってるね~”って。
そういう声はチラホラ何回も聞いてました。
確かに先生から、“口を大きく開けて、表情豊かに、全身で歌うように”と指導もされてましたから、
みんなそれぞれ自分なりに身体を揺らしながら歌ってた感じでしたけど。
その中でも特にとーるBOYは目立ってました。
《 合唱組曲「阿賀野川」の楽譜と初演発表会のCD 》
楽譜にはびっしりと事細かなメモが記されている。
――20年間歌われていることについてはいかがですか?
20年間歌い継がれてるっていうことはスゴイことですね。
去年の文化祭なんですけど、久しぶりに聴きに行きました。
自分が歌ってた時と違い、今は母親として聴く立場になって、あらためて「阿賀野川」の素晴らしさを発見した気がします。
昭和42年の羽越水害では子供も亡くなってますよね。
その亡くなった子供の親の気持ちも、昔は「歌わされている」だけだったけど、今ならわかるなぁって思います。
怖いなぁって…。
涙が出てきますね。
特に「羽越大災害」、「悲歌」…。
「悲歌」ってすごく悲しい歌ですけど、「光にむかって」では前向きになる歌で。
それを聴くと、すごく泣けてきますね~!
20年前に歌ってた時と、今こうして聴いてる時の気持ちは、やっぱり違いますね。
――あなたにとって阿賀野川とは?
去年水害があって、あんなに荒れ狂う阿賀野川を見たのは初めてでした。
幸い死者はでなかったものの、地域によっては床上浸水になったりして大変で…。
阿賀野川は羽越水害の時もそうですし、このように災害をもたらしますけど、
やっぱり私は三川が好きなので「ふるさと」ですかね。
私、高校卒業後は町外へ出たんですが、しょっちゅう三川へ帰ってきてました。
49号線に入って、阿賀野川沿いを車で走ってるとなんだか安心するんです。
だから阿賀野川とともにあるこの三川に、ずっといたいなぁと思ってます。
――最後に、合唱×ROCK「阿賀野川」プロジェクトのメンバーに向けてメッセージをお願いします。
神田さんたちが中学時代に歌ってた「阿賀野川」のことは、ミナガワ氏以外のメンバーは知らないわけですが。
あっ、でも、みなさんこのプロジェクトを通してすごく好きになってくれた、という話をとーるBOYから聞きました。
地元人としてはとても嬉しいことですね。
とーるBOYは同級生でもあるので、誇らしいです!
もっと有名になってもらって、“この人私の同級生なんだよー”って自慢したいですね(笑)。
メンバーのみなさんも、これからも頑張ってもらいたいと思います。
神田 富美子
1978年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成5年度三川中学校卒業生
パート:ソプラノ
介護施設勤務
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年8月1日水曜日
「中嶌 哲演 インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」の詩の世界観を深く読み解くには、まず作詩者山本和夫という人物を知る必要がある。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。
パンツ一丁にランニング姿(笑)。
――山本和夫先生についてお話をお聞かせください。
山本先生のお宅は、ここ明通寺の檀家さんなんですよ。
だから山本先生のお父さんやお母さんの事も私は知ってます。
お父さんはお髭を生やした方で、村長さんも務められたり、学校の先生もされてたしね。
お母さんは、もう何でもできた人なんでしょうね。
糸車を回したりね、和裁なんかもできたでしょうし、すごく矍鑠としたお丈夫な方でしたね。
山本先生の一番で、最大の味方はお母さんだったんじゃないですかね。
包み込むようにして、山本先生をあったかく見守られたり、常に味方になっておられたんじゃないかなぁと思いますね。
先生の初期の詩集に、お母さんのことをテーマにしている作品もいくつかありますよ。
特に、お母さんの臨終を詩にされてるのなんかは、その中でも絶唱のひとつだと私は思っているんですけど。
――山本先生との思い出はありますか?
そうねぇ…。
先生を意識し始めたのは…、もう小学生時分から。
必ず休みのたびに帰って来られててね。
お寺へも訪ねて来てもらったり、気さくに子供たちにも声を掛ける先生でした。
もう、夏休みなんかに帰って来られると、パンツ一丁にランニング姿でね(笑)。
下駄をひっかけて、カランカラン村の中を散歩されてました。
私はこの散歩姿を思い出しますね。
私が小学校5、6年くらいの頃、将来の夢を聞かれた時に、“山本先生みたいな詩人になりたい”と答えたらしいのね。
昔は本当に田舎村だったから、休みのたびに東京から帰って来られる、先生のような人が新鮮だった。
児童文学の本も小学校に寄贈されたりね。
一様的なこの村の生活とは違った、何かこう…新しい風を、生まれ故郷に運んで来てくださった。
パンツ一丁にランニング姿の先生だったけども(笑)。
そういう感じの人として私は受け止めてたんでしょうね。
――山本先生は「お酒好き」とお聞きしましたが。
私はそんなにお酒は嗜まないので、先生と酌み交わしたっていうのはあんまり記憶にないんだけど。
子供の頃、たまたま私の両親と飲んでた時にね、面白いお話をされてた事がありましたね。
徳利を持ち上げながらね、“人ってそれぞれ考え方があるんだよ”と。
“この徳利の中に入ってるお酒を、「あ~、もうこれだけしか残っていない」と惜しみ惜しみ飲む人もいれば、
「まだこんなに残っているのか」という捉え方をしてお酒を楽しむ人もいる”
“同じ量に過ぎないんだけども、人によってそういうふうに捉え方が違うものなんだ”と。
“人の人生観も似たようなところがあるよね”って話されていました。
面白い話だなぁ、と印象に残ってますよ。
――例えが面白いですね。
そうなの、やっぱり詩人ですからね!
もう、先生の詩想というのはね、自由自在!古今東西!
ありとあらゆる分野に四通八達している。
イメージや言葉が自由に繋がり合ってね。
例え話も絶妙なものを出してくる。
――合唱組曲「阿賀野川」の詩の一節で、阿賀野川とドイツのライン川を重ね合わせるシーンがあります。
そうそう。
山本先生のあの自由自在さとか奔放さとか、それでいて大らかで深い味のある拡がり方っていうのは、
やっぱり中国文学、東洋文学・思想を大学時代に専攻された事が大いにベースにあるんだと思います。
老荘思想が専門分野だったから。
もちろんその枠に自分を閉じ込めるような先生ではなかったけどね(笑)。
「阿賀野川」はまるで交響曲(シンフォニー)ですね。
――こちら明通寺には、山本先生のお墓があるんですよね。
先生のご遺志も汲みらがらでしょうけど、息子さんが主としてお墓を建てられました。
山本先生が作られた、仏様の陶板を墓の上にはめ込んだりね。
墓石に刻まれた「山本和夫」という文字も、先生ご本人のものです。
――戒名というものは付いてないんですね。
最近では戒名に拘らない、いろんな葬り方が広まりつつありますね。
一番古い所では、森鴎外の墓が「森林太郎墓」とだけ書いてあって、戒名はないのですが。
頭の固い他のお寺の坊さんだと“戒名を授けない墓は預からない!”と対応する所もあるかもしれないけど。
私は先程言いましたように、少年時代より山本先生の感化も受けているから(笑)。
「自由であって良い」と思ってます。
――なるほど。
合唱組曲「阿賀野川」についてはいかがでしょうか?
いつ行きましたかね、新潟に…。
あの時、阿賀野川を見に行って舟下りもしましたね。
将軍杉も見ましたよ。
「阿賀野川」はまるで交響曲(シンフォニー)ですね。
山本先生は自由闊達な詩をいっぱい書いておられるけど、その先生のいろんな側面が総合されているような詩の構成は、
ひと色だけじゃなく、或いは形式ばったカチカチの構成詩でもないでしょ。
ゆったりと、大らかに何もかも飲み込みながらね、滔々と流れていくような、山本先生に相応しい交響曲(シンフォニー)的な詩だなぁと感じました。
小中学校の校歌も沢山作詩されています。
先生は必ず現地へ行ってフィールドワークされているんですよ。
実際の自然の風景、その風景も1シーズンだけじゃなくって、四季折々の風景をキチンと踏まえられているし。
単に、現在の人々と自然の関わり合いだけじゃなく、地域にずーっと根付いてきた歴史的な変遷も辿って今の姿がある、という事。
子供たちの歌に、未来に向けての展望も語っていますね。
そういうふうに、過去、現在、未来の時間的、歴史的視点がバッチリ納まっている。
先生が作詩される時のこういった作法は、「阿賀野川」の場合はもっと交響曲のように拡大された形で構成されていると思います。
――最後に、中嶌さんにとって「山本和夫」とは?
う~ん…(笑)。
「大人(たいじん)の風あり」…。
これは東洋思想や東洋文化の中で使う言葉なんですね。
大らかで、ありとあらゆるものを飲み込み知恵に溢れているんだけど、かと言ってそれをひけらかしているわけでもないしね。
とにかく村へ帰って来られると、子供もお年寄りも若者も…本当に無差別平等に声を掛けられていた。
先生は詩人だったから、ふるさとの道端に咲く草花にまで、たぶん声を掛けられていたと思いますね。
中嶌 哲演
1942年生まれ
福井県小浜市門前出身
明通寺住職
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。
パンツ一丁にランニング姿(笑)。
――山本和夫先生についてお話をお聞かせください。
山本先生のお宅は、ここ明通寺の檀家さんなんですよ。
だから山本先生のお父さんやお母さんの事も私は知ってます。
お父さんはお髭を生やした方で、村長さんも務められたり、学校の先生もされてたしね。
お母さんは、もう何でもできた人なんでしょうね。
糸車を回したりね、和裁なんかもできたでしょうし、すごく矍鑠としたお丈夫な方でしたね。
山本先生の一番で、最大の味方はお母さんだったんじゃないですかね。
包み込むようにして、山本先生をあったかく見守られたり、常に味方になっておられたんじゃないかなぁと思いますね。
先生の初期の詩集に、お母さんのことをテーマにしている作品もいくつかありますよ。
特に、お母さんの臨終を詩にされてるのなんかは、その中でも絶唱のひとつだと私は思っているんですけど。
――山本先生との思い出はありますか?
そうねぇ…。
先生を意識し始めたのは…、もう小学生時分から。
必ず休みのたびに帰って来られててね。
お寺へも訪ねて来てもらったり、気さくに子供たちにも声を掛ける先生でした。
もう、夏休みなんかに帰って来られると、パンツ一丁にランニング姿でね(笑)。
下駄をひっかけて、カランカラン村の中を散歩されてました。
私はこの散歩姿を思い出しますね。
私が小学校5、6年くらいの頃、将来の夢を聞かれた時に、“山本先生みたいな詩人になりたい”と答えたらしいのね。
昔は本当に田舎村だったから、休みのたびに東京から帰って来られる、先生のような人が新鮮だった。
児童文学の本も小学校に寄贈されたりね。
一様的なこの村の生活とは違った、何かこう…新しい風を、生まれ故郷に運んで来てくださった。
パンツ一丁にランニング姿の先生だったけども(笑)。
そういう感じの人として私は受け止めてたんでしょうね。
――山本先生は「お酒好き」とお聞きしましたが。
私はそんなにお酒は嗜まないので、先生と酌み交わしたっていうのはあんまり記憶にないんだけど。
子供の頃、たまたま私の両親と飲んでた時にね、面白いお話をされてた事がありましたね。
徳利を持ち上げながらね、“人ってそれぞれ考え方があるんだよ”と。
“この徳利の中に入ってるお酒を、「あ~、もうこれだけしか残っていない」と惜しみ惜しみ飲む人もいれば、
「まだこんなに残っているのか」という捉え方をしてお酒を楽しむ人もいる”
“同じ量に過ぎないんだけども、人によってそういうふうに捉え方が違うものなんだ”と。
“人の人生観も似たようなところがあるよね”って話されていました。
面白い話だなぁ、と印象に残ってますよ。
――例えが面白いですね。
そうなの、やっぱり詩人ですからね!
もう、先生の詩想というのはね、自由自在!古今東西!
ありとあらゆる分野に四通八達している。
イメージや言葉が自由に繋がり合ってね。
例え話も絶妙なものを出してくる。
――合唱組曲「阿賀野川」の詩の一節で、阿賀野川とドイツのライン川を重ね合わせるシーンがあります。
そうそう。
山本先生のあの自由自在さとか奔放さとか、それでいて大らかで深い味のある拡がり方っていうのは、
やっぱり中国文学、東洋文学・思想を大学時代に専攻された事が大いにベースにあるんだと思います。
老荘思想が専門分野だったから。
もちろんその枠に自分を閉じ込めるような先生ではなかったけどね(笑)。
「阿賀野川」はまるで交響曲(シンフォニー)ですね。
――こちら明通寺には、山本先生のお墓があるんですよね。
先生のご遺志も汲みらがらでしょうけど、息子さんが主としてお墓を建てられました。
山本先生が作られた、仏様の陶板を墓の上にはめ込んだりね。
墓石に刻まれた「山本和夫」という文字も、先生ご本人のものです。
――戒名というものは付いてないんですね。
最近では戒名に拘らない、いろんな葬り方が広まりつつありますね。
一番古い所では、森鴎外の墓が「森林太郎墓」とだけ書いてあって、戒名はないのですが。
頭の固い他のお寺の坊さんだと“戒名を授けない墓は預からない!”と対応する所もあるかもしれないけど。
私は先程言いましたように、少年時代より山本先生の感化も受けているから(笑)。
「自由であって良い」と思ってます。
――なるほど。
合唱組曲「阿賀野川」についてはいかがでしょうか?
いつ行きましたかね、新潟に…。
あの時、阿賀野川を見に行って舟下りもしましたね。
将軍杉も見ましたよ。
「阿賀野川」はまるで交響曲(シンフォニー)ですね。
山本先生は自由闊達な詩をいっぱい書いておられるけど、その先生のいろんな側面が総合されているような詩の構成は、
ひと色だけじゃなく、或いは形式ばったカチカチの構成詩でもないでしょ。
ゆったりと、大らかに何もかも飲み込みながらね、滔々と流れていくような、山本先生に相応しい交響曲(シンフォニー)的な詩だなぁと感じました。
小中学校の校歌も沢山作詩されています。
先生は必ず現地へ行ってフィールドワークされているんですよ。
実際の自然の風景、その風景も1シーズンだけじゃなくって、四季折々の風景をキチンと踏まえられているし。
単に、現在の人々と自然の関わり合いだけじゃなく、地域にずーっと根付いてきた歴史的な変遷も辿って今の姿がある、という事。
子供たちの歌に、未来に向けての展望も語っていますね。
そういうふうに、過去、現在、未来の時間的、歴史的視点がバッチリ納まっている。
先生が作詩される時のこういった作法は、「阿賀野川」の場合はもっと交響曲のように拡大された形で構成されていると思います。
――最後に、中嶌さんにとって「山本和夫」とは?
う~ん…(笑)。
「大人(たいじん)の風あり」…。
これは東洋思想や東洋文化の中で使う言葉なんですね。
大らかで、ありとあらゆるものを飲み込み知恵に溢れているんだけど、かと言ってそれをひけらかしているわけでもないしね。
とにかく村へ帰って来られると、子供もお年寄りも若者も…本当に無差別平等に声を掛けられていた。
先生は詩人だったから、ふるさとの道端に咲く草花にまで、たぶん声を掛けられていたと思いますね。
中嶌 哲演
1942年生まれ
福井県小浜市門前出身
明通寺住職
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年7月25日水曜日
「北上 幸子インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――リーダーのミナガワさんとは同級生と伺っております。
「阿賀野川」の思い出など聞いていきますので、よろしくお願いします。
…それが覚えてなくって(笑)。
でも最初聴いた時、3曲目(「羽越大災害」)だけが「怖い」って印象だったのを、今でも覚えています。
あと2曲目(「ふるさとの将軍杉」)はすごく力を入れて練習してましたね。
4曲目の「悲歌」は、特に印象が薄いですね。
というのも、私たちの学年は3、4曲目って、歌う機会が少なかったんじゃないかな。
――授業での思い出などは?
私、歌はあまり上手ではなかったので…。
授業ではパートごとに分かれて、それぞれ別の教室へ移動して練習するんですよ。
カセットテープを聴きながら(笑)。
それで、時間になると一人ずつ先生に呼ばれて歌うっていうテストがあったんです。
確か「ふるさとの将軍杉」を歌ったような。
音程が取れていればOKなんだけど。
取れてないとまたパート練習に戻されてやり直し…(笑)!
――うわぁ。同じようなことを、以前どなたかもインタビューで嘆いてましたね(笑)。
それを繰り返したことがあります。
あれは嫌だった…。
音楽の授業はいろいろあったけど、最終的には“楽しかったなぁ~”という思い出ですね。
他の中学校ではきっと経験できなかったこともあったので。
――「阿賀野川」が20年以上も歌われていることについてはいかがですか?
スゴイと思う!
なんか不思議な感覚です。
私たちは音楽の授業の中で「阿賀野川」を3年間やってきたんですけど。
それが歌い継がれているっていうのが不思議。
中学生の頃はわかりませんでしたが、みんながこの組曲に力を入れているんだなぁと。
今となって、20年以上も歌い継がれているのを見てて、スゴイことなんだと感じてます。
――「阿賀野川」の中で思い入れの強い曲は?
中学時代最も多く歌った「将軍杉」…よりは、5曲目(「光にむかって」)です!!
4曲目の終わりから、5曲目にかけての部分も。
だんだん明るくなっていくのがいいですね。
「将軍杉」は歌い込み過ぎて、飽きもある…(笑)。
やりすぎた(笑)!
――ははは(笑)。
さて、阿賀町の魅力について教えてください。
観光名所はいっぱいあります。
意外と出身者って魅力に気付かないものですよね。
私は以前、町外の友達を招いて阿賀町を案内したことがあります。
その時、どこに連れて行こうかいろいろ調べたんですよ。
そしたら結構ありましたよ。
――へぇ。ちなみにどんなところへ行ったんですか?
不動滝!
結構迫力がありました。
あと狐の嫁入り屋敷とか、ダチョウ牧場とか(笑)。
将軍杉も見たし、ライン舟下りにも乗りました。
舟下りは成人式の時以来で久しぶりでした。
――地元の人は近すぎて、逆に魅力を見落としがちになりますよね。
では次の質問、北上さんにとって阿賀野川とは?
「心のふるさと」でしょうか。
私が生まれ育った実家のすぐ裏には、阿賀野川が流れています。
小さい頃から川へはよく行ってたので、「普通にあるもの」のような感覚なんです。
そこにあって当たり前だし、離れるのは嫌ですね。
家からは「ウルトラマン山※」も見えるし。
あの景色がとても好きです。
落ち着く場所ですね~。
――いよいよ合唱×ROCK「阿賀野川」が発売されましたが。
徹(ミナガワトオル氏)からこのプロジェクトのことを聞いた時、
なんか懐かしくなって初演のCDを聴き返しました。
探しましたよ、段ボールをあさって(笑)!
徹以外のメンバーさんは、合唱の「阿賀野川」を歌ってたわけじゃないので、
ちょっと私たちと感覚が違うかもしれませんけど、これからも頑張ってほしいです。
応援しています。
そして、旧三川村のことをどんどんPRしてください。
みかわ園での訪問演奏会ではありがとうございました!
――ご協力、ありがとうございました。
※ウルトラマン山
誰が名付けたか、三川中学校からも一望できる山の呼称。
ウルトラマンが仰向けに寝ているように見えることからその名が付けられたという。
ミナガワトオル氏が在学中には既にこう呼ばれていて、「阿賀野川」と同じく、三川中学校では代々語り伝えられている(?)
北上 幸子
1978年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成5年度三川中学校卒業生
パート:アルト
介護施設勤務
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――リーダーのミナガワさんとは同級生と伺っております。
「阿賀野川」の思い出など聞いていきますので、よろしくお願いします。
…それが覚えてなくって(笑)。
でも最初聴いた時、3曲目(「羽越大災害」)だけが「怖い」って印象だったのを、今でも覚えています。
あと2曲目(「ふるさとの将軍杉」)はすごく力を入れて練習してましたね。
4曲目の「悲歌」は、特に印象が薄いですね。
というのも、私たちの学年は3、4曲目って、歌う機会が少なかったんじゃないかな。
――授業での思い出などは?
私、歌はあまり上手ではなかったので…。
授業ではパートごとに分かれて、それぞれ別の教室へ移動して練習するんですよ。
カセットテープを聴きながら(笑)。
それで、時間になると一人ずつ先生に呼ばれて歌うっていうテストがあったんです。
確か「ふるさとの将軍杉」を歌ったような。
音程が取れていればOKなんだけど。
取れてないとまたパート練習に戻されてやり直し…(笑)!
――うわぁ。同じようなことを、以前どなたかもインタビューで嘆いてましたね(笑)。
それを繰り返したことがあります。
あれは嫌だった…。
音楽の授業はいろいろあったけど、最終的には“楽しかったなぁ~”という思い出ですね。
他の中学校ではきっと経験できなかったこともあったので。
――「阿賀野川」が20年以上も歌われていることについてはいかがですか?
スゴイと思う!
なんか不思議な感覚です。
私たちは音楽の授業の中で「阿賀野川」を3年間やってきたんですけど。
それが歌い継がれているっていうのが不思議。
中学生の頃はわかりませんでしたが、みんながこの組曲に力を入れているんだなぁと。
今となって、20年以上も歌い継がれているのを見てて、スゴイことなんだと感じてます。
――「阿賀野川」の中で思い入れの強い曲は?
中学時代最も多く歌った「将軍杉」…よりは、5曲目(「光にむかって」)です!!
4曲目の終わりから、5曲目にかけての部分も。
だんだん明るくなっていくのがいいですね。
「将軍杉」は歌い込み過ぎて、飽きもある…(笑)。
やりすぎた(笑)!
――ははは(笑)。
さて、阿賀町の魅力について教えてください。
観光名所はいっぱいあります。
意外と出身者って魅力に気付かないものですよね。
私は以前、町外の友達を招いて阿賀町を案内したことがあります。
その時、どこに連れて行こうかいろいろ調べたんですよ。
そしたら結構ありましたよ。
――へぇ。ちなみにどんなところへ行ったんですか?
不動滝!
結構迫力がありました。
あと狐の嫁入り屋敷とか、ダチョウ牧場とか(笑)。
将軍杉も見たし、ライン舟下りにも乗りました。
舟下りは成人式の時以来で久しぶりでした。
――地元の人は近すぎて、逆に魅力を見落としがちになりますよね。
では次の質問、北上さんにとって阿賀野川とは?
「心のふるさと」でしょうか。
私が生まれ育った実家のすぐ裏には、阿賀野川が流れています。
小さい頃から川へはよく行ってたので、「普通にあるもの」のような感覚なんです。
そこにあって当たり前だし、離れるのは嫌ですね。
家からは「ウルトラマン山※」も見えるし。
あの景色がとても好きです。
落ち着く場所ですね~。
――いよいよ合唱×ROCK「阿賀野川」が発売されましたが。
徹(ミナガワトオル氏)からこのプロジェクトのことを聞いた時、
なんか懐かしくなって初演のCDを聴き返しました。
探しましたよ、段ボールをあさって(笑)!
徹以外のメンバーさんは、合唱の「阿賀野川」を歌ってたわけじゃないので、
ちょっと私たちと感覚が違うかもしれませんけど、これからも頑張ってほしいです。
応援しています。
そして、旧三川村のことをどんどんPRしてください。
みかわ園での訪問演奏会ではありがとうございました!
――ご協力、ありがとうございました。
※ウルトラマン山
誰が名付けたか、三川中学校からも一望できる山の呼称。
ウルトラマンが仰向けに寝ているように見えることからその名が付けられたという。
ミナガワトオル氏が在学中には既にこう呼ばれていて、「阿賀野川」と同じく、三川中学校では代々語り伝えられている(?)
北上 幸子
1978年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成5年度三川中学校卒業生
パート:アルト
介護施設勤務
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年7月14日土曜日
「五十嵐 成美 インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――初めて「阿賀野川」を聴いた時の印象は?
姉兄が歌っている時に、家族で聴きに行ったのが最初です。
感動した、と言うよりは圧倒されたという感じですね。
普通の歌とは違う印象を受けました。
例えば、口笛を入れた歌(「ふるさとの将軍杉」)は初めて聴くものでした。
それは楽しい曲調ですけど、残酷な曲もあるし…。
いろんな感情がこの組曲には入っているなぁって。
――実際歌ってみて、いかがでしたか?
1年生の時は、歌う曲も(5曲中)2曲くらいなんです。
最初から全部覚えて歌うわけではないんですね。
感情を込めて歌う、とか細かいことは関係なし。
とりあえず一体感を出すために、裏声の練習でした。
「綺麗な声で歌う」ことだけを目標にして練習していました。
2、3年生になると、歌う曲も増えてくるし、今度は感情を込めて歌うようになってきます。
先生から教わると言うよりは、それぞれのパートごとに分かれての練習がメインです。
“ここはこういう感情で歌おう!”とか、“強弱を付けよう!”とか。
こういったパート練習の思い出が強いですね。
――なるほど~。生徒が自分たちで歌の表現方法を見つけていくんですね。
先生からのアドバイスもあるんですけど。
結局歌うのは自分たちなので。
――授業の中で、特に印象に残ってることはありますか?
音痴な子は個別レッスンを受けていましたね(笑)。
みんなパート練習で他の教室へ行くんですけど、その人たちだけは先生と残ってやってました。
あと、有名なおじさんが来てくれて…(笑)。
お名前は忘れたんですけど。
もともとパートは分かれてたんですけど、その方が音域をチェックして。
パートの再編成をやったのを覚えてます。
――有名なおじさんって…(笑)?
なんか、組曲「阿賀野川」を作った最初の時に関わっていたとか…。
――たぶん岩崎先生でしょうかね(笑)。
五十嵐さんはもしかして、2007年の【阿賀野川サミット】※には行かれましたか?
はい、私それ行きました。
最後、アンコールで歌ったのを覚えています!
――おそらく、岩崎先生が【阿賀野川サミット】の指導のために、中学校へ訪れたんだと思います(笑)。
では20年間続いていることについてはいかがですか?
やっぱりこれからも歌い継いでほしいです。
私たちの年齢と、「阿賀野川」の年齢は一緒なので…。
そういった意味でも、続いてほしいなぁと思っています。
――思い入れの強い曲はどれですか?
「悲歌」ですね。
私は、ロック調にアレンジされた「悲歌」の方も先ほど聴かせていただきました。
人それぞれ、詩の捉え方も違うし、歌ってる人数もCDでは2人のボーカルなので。
表現の仕方が違っていましたね。
例えば、合唱で私たちが力強く歌ってたところも、CDではサラッと歌ってたり…。
なので、まるで違う曲のような感じがしましたね。
――ROCK「阿賀野川」にはどのようなことを期待しますか?
阿賀町だけじゃなくて、もうちょっと認知度が広まってくれればいいなって思います。
それは、高校生の時から思ってることなんです。
高校に進学してできた友人に「阿賀野川」のことを言っても、ほとんどの人が知りませんでした。
ちょっと寂しかったですね。
なので、ロックの「阿賀野川」をきっかけに、合唱を聴いてもらえる機会が増えればいいですね。
五十嵐 成美
1991年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成18年度三川中学校卒業生
パート:ソプラノ
大学3年生
中学から始めたバレーボールに現在も打ち込んでいる
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――初めて「阿賀野川」を聴いた時の印象は?
姉兄が歌っている時に、家族で聴きに行ったのが最初です。
感動した、と言うよりは圧倒されたという感じですね。
普通の歌とは違う印象を受けました。
例えば、口笛を入れた歌(「ふるさとの将軍杉」)は初めて聴くものでした。
それは楽しい曲調ですけど、残酷な曲もあるし…。
いろんな感情がこの組曲には入っているなぁって。
――実際歌ってみて、いかがでしたか?
1年生の時は、歌う曲も(5曲中)2曲くらいなんです。
最初から全部覚えて歌うわけではないんですね。
感情を込めて歌う、とか細かいことは関係なし。
とりあえず一体感を出すために、裏声の練習でした。
「綺麗な声で歌う」ことだけを目標にして練習していました。
2、3年生になると、歌う曲も増えてくるし、今度は感情を込めて歌うようになってきます。
先生から教わると言うよりは、それぞれのパートごとに分かれての練習がメインです。
“ここはこういう感情で歌おう!”とか、“強弱を付けよう!”とか。
こういったパート練習の思い出が強いですね。
――なるほど~。生徒が自分たちで歌の表現方法を見つけていくんですね。
先生からのアドバイスもあるんですけど。
結局歌うのは自分たちなので。
――授業の中で、特に印象に残ってることはありますか?
音痴な子は個別レッスンを受けていましたね(笑)。
みんなパート練習で他の教室へ行くんですけど、その人たちだけは先生と残ってやってました。
あと、有名なおじさんが来てくれて…(笑)。
お名前は忘れたんですけど。
もともとパートは分かれてたんですけど、その方が音域をチェックして。
パートの再編成をやったのを覚えてます。
――有名なおじさんって…(笑)?
なんか、組曲「阿賀野川」を作った最初の時に関わっていたとか…。
――たぶん岩崎先生でしょうかね(笑)。
五十嵐さんはもしかして、2007年の【阿賀野川サミット】※には行かれましたか?
はい、私それ行きました。
最後、アンコールで歌ったのを覚えています!
――おそらく、岩崎先生が【阿賀野川サミット】の指導のために、中学校へ訪れたんだと思います(笑)。
では20年間続いていることについてはいかがですか?
やっぱりこれからも歌い継いでほしいです。
私たちの年齢と、「阿賀野川」の年齢は一緒なので…。
そういった意味でも、続いてほしいなぁと思っています。
――思い入れの強い曲はどれですか?
「悲歌」ですね。
私は、ロック調にアレンジされた「悲歌」の方も先ほど聴かせていただきました。
人それぞれ、詩の捉え方も違うし、歌ってる人数もCDでは2人のボーカルなので。
表現の仕方が違っていましたね。
例えば、合唱で私たちが力強く歌ってたところも、CDではサラッと歌ってたり…。
なので、まるで違う曲のような感じがしましたね。
――ROCK「阿賀野川」にはどのようなことを期待しますか?
阿賀町だけじゃなくて、もうちょっと認知度が広まってくれればいいなって思います。
それは、高校生の時から思ってることなんです。
高校に進学してできた友人に「阿賀野川」のことを言っても、ほとんどの人が知りませんでした。
ちょっと寂しかったですね。
なので、ロックの「阿賀野川」をきっかけに、合唱を聴いてもらえる機会が増えればいいですね。
五十嵐 成美
1991年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成18年度三川中学校卒業生
パート:ソプラノ
大学3年生
中学から始めたバレーボールに現在も打ち込んでいる
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年7月9日月曜日
2012年7月6日金曜日
「清野 敏生 インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――合唱組曲「阿賀野川」との出会いから教えてください。
小学校の頃から「阿賀野川」のことについて少しずつ勉強していました。
中学生が歌う合唱を聴きに行った時、“来年から自分たちも歌うんだなぁ”って。
“オレにこんな歌、歌えるのかなぁー。”っていう不安しかありませんでしたね(笑)。
――小学校の時は、「阿賀野川」をどのよう学んでたのですか?
6年生の「総合学習」で、「羽越大災害」のことについて深く考える授業がありました。
実際、災害に遭った現場の石間地区に行ったりして。
先生は組曲「阿賀野川」のことが好きだったみたいで、そういう授業にも特に力を入れていましたね。
――中学校生活3年間で、「阿賀野川」に対する気持ちの変化などはありましたか?
あぁ、ありましたね。
ただこう、歌うんじゃなくて。
なんて言うか、気持ちを込めて歌うようになりました。
それはオレだけじゃなくって、他のみんなもそうでした。
先輩の合唱を聴いたりすると“スゲーなぁ”って。
例えば強く歌うところなんかは、テキトーに歌うんじゃなくて、ホントに力を込めて歌うとか。
抑えるところは、ぐっと腹に力を入れて抑えるとか。
先輩の歌う姿から、そういうのは学び取りました。
そして、自分たちがメリハリを付けて歌えるようになった時のことは、よく覚えています。
――なるほど。それが「歌い継ぐ」ってことなんでしょうね~。
「阿賀野川」の中で、最も好きな曲は何ですか?
オレは「悲歌」が好きだったんですよ。
「悲歌」は、文化祭だと3年生だけで歌うんですよね。
これは伝統になっていて。
1、2年の頃は客席側から観ていて、“いい曲だなぁ”と、とても感動してました。
3年生になって、いざオレたちの番になったんですが、そこでも結局不安しかなかったですね(笑)。
“ホントにオレたちに歌えるのかな~”って(笑)。
――「悲歌」はどんなところが好きなんですか?
「羽越大災害」からの立ち直りっていうか。
だんだん希望に向かって明るくなっていく様子とか、歌詩の中に込められていて。
それで好きですね~。
――阿賀町の魅力を教えてください。
この自然ですかね。
他の町に比べると、緑に囲まれた、自然豊かな町だと思います。
将軍杉はよく行きますね。
この前も岩谷(将軍杉のある地区)の仲間の家に遊び行った時、
“将軍杉見に行こうぜー!”ってなって(笑)。
そんな軽いノリで見に行けるっていうのも、地元ならではですけど、魅力のひとつかもしれませんね。
――清野さんにとって阿賀野川とはどんな川ですか?
阿賀野川は町を蛇行しながら流れてて、とても身近な存在なんです。
だから、例えばオレが東京とかに行った時、たまに阿賀野川を思い出すと懐かしく感じると思います。
一言で表すなら、「ふるさと」って感じですね。
清野 敏生
1993年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成20年度三川中学校卒業生
パート:バス
ドライブが趣味の専門学生
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――合唱組曲「阿賀野川」との出会いから教えてください。
小学校の頃から「阿賀野川」のことについて少しずつ勉強していました。
中学生が歌う合唱を聴きに行った時、“来年から自分たちも歌うんだなぁ”って。
“オレにこんな歌、歌えるのかなぁー。”っていう不安しかありませんでしたね(笑)。
――小学校の時は、「阿賀野川」をどのよう学んでたのですか?
6年生の「総合学習」で、「羽越大災害」のことについて深く考える授業がありました。
実際、災害に遭った現場の石間地区に行ったりして。
先生は組曲「阿賀野川」のことが好きだったみたいで、そういう授業にも特に力を入れていましたね。
――中学校生活3年間で、「阿賀野川」に対する気持ちの変化などはありましたか?
あぁ、ありましたね。
ただこう、歌うんじゃなくて。
なんて言うか、気持ちを込めて歌うようになりました。
それはオレだけじゃなくって、他のみんなもそうでした。
先輩の合唱を聴いたりすると“スゲーなぁ”って。
例えば強く歌うところなんかは、テキトーに歌うんじゃなくて、ホントに力を込めて歌うとか。
抑えるところは、ぐっと腹に力を入れて抑えるとか。
先輩の歌う姿から、そういうのは学び取りました。
そして、自分たちがメリハリを付けて歌えるようになった時のことは、よく覚えています。
――なるほど。それが「歌い継ぐ」ってことなんでしょうね~。
「阿賀野川」の中で、最も好きな曲は何ですか?
オレは「悲歌」が好きだったんですよ。
「悲歌」は、文化祭だと3年生だけで歌うんですよね。
これは伝統になっていて。
1、2年の頃は客席側から観ていて、“いい曲だなぁ”と、とても感動してました。
3年生になって、いざオレたちの番になったんですが、そこでも結局不安しかなかったですね(笑)。
“ホントにオレたちに歌えるのかな~”って(笑)。
――「悲歌」はどんなところが好きなんですか?
「羽越大災害」からの立ち直りっていうか。
だんだん希望に向かって明るくなっていく様子とか、歌詩の中に込められていて。
それで好きですね~。
――阿賀町の魅力を教えてください。
この自然ですかね。
他の町に比べると、緑に囲まれた、自然豊かな町だと思います。
将軍杉はよく行きますね。
この前も岩谷(将軍杉のある地区)の仲間の家に遊び行った時、
“将軍杉見に行こうぜー!”ってなって(笑)。
そんな軽いノリで見に行けるっていうのも、地元ならではですけど、魅力のひとつかもしれませんね。
――清野さんにとって阿賀野川とはどんな川ですか?
阿賀野川は町を蛇行しながら流れてて、とても身近な存在なんです。
だから、例えばオレが東京とかに行った時、たまに阿賀野川を思い出すと懐かしく感じると思います。
一言で表すなら、「ふるさと」って感じですね。
清野 敏生
1993年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成20年度三川中学校卒業生
パート:バス
ドライブが趣味の専門学生
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年7月4日水曜日
「Minami(葉月 みなみ) インタビュー」
プロの演歌歌手としても幅広い活動を展開している葉月みなみ。
合唱×ROCK「阿賀野川」の構想は、さかのぼること十数年前――。
実は、リーダーミナガワトオルとの小さな約束から始まっていたのかもしれない。
彼女の発する言葉一つひとつは、CD発売を直前に控え、その感謝の気持ちでいっぱいに溢れていた。
ふるさとを想う心は同じ。今、歌で届けたい想い。
――まず最初に、今回の合唱×ROCK「阿賀野川」のプロジェクトに参加することになった経緯を教えてください。
きっかけは10年程前。
リーダーのミナガワトオルさんに、三川には混声三部合唱組曲「阿賀野川」というそれは壮大な組曲があるんだよという話を聞いたことからです。
私も歌が大好きだったので、興味深々で。
当時リーダーの携帯電話の着信音は「ふるさとの将軍杉」。
昔の携帯って、自分で作ってオリジナルメロディとして着信音にできたんですよね。
これをまず聞いて本当に気に入っちゃって(笑)。
だから今でもふるさとの将軍杉が一番大好きなんです。
歌詞を教えてもらってリーダーと何度も何度もでっかい声でハモって歌っていましたね。
居酒屋とかコンビニの前とかどこでも(笑)。
懐かしいです。
その頃からリーダーは語っていました。
いつかこの合唱曲をバンドでやりたいんだと。
そして一緒にできたらいいよねと。
――そして10年経って実現したわけですね?
はい、そうなんです。
実際には12年経っていますが(笑)。
他のメンバーとは違って戸惑いはなく、すんなりとやろう!って感じでした。
でも10年経って本当に実現しちゃうんだからこれはすごいことですよね!
当時は私が演歌歌手としてデビューすると思っていませんでしたが、同じ音楽を愛する者同士、ふるさとを想う心は同じです。
こうしてプロジェクトに参加させていただいて嬉しいです。
――20年間歌い継がれていること、また中学生が歌っている姿を見てどんな印象を受けましたか?
まずこの合唱曲を作られた深い歴史と意味を考えさせられました。
リーダーと共に取材に同行させてもらい、大屋(旧姓:斎藤)美智子さんに当時の生々しい現実や気持ちなど、聞かせていただくことができた時は言葉にならず、ただただ涙がこぼれました。
そして、この合唱曲を歌い継ぐことの本当の意味を感じることができました。
また、第20回の「歌いつぐ会」にお邪魔させていただき、生の中学生の歌声を聞くことができた時は、一生懸命に心をこめて歌う生徒さんの歌声や姿、組曲への姿勢に心を打たれました。
改めてこのプロジェクトに参加させていただくにあたって、身が引き締まるとともに、歌詞を今一度しっかり理解して心で歌いたいと思いました。
――レコーディングを終えてどうでしたか?
そうですね、一言で言えば大変でした!
でも楽しかったですよ。
バンドのレコーディングは初めての経験だったのでとても新鮮でいい経験でした。
ああ、こんな風に音を録って重ねていくのかあなど。
――一番大変だったことは?
ピアノ演奏ですね。
実は歌よりも苦労しました。
本業ではないので…なかなか思うような演奏ができなくて時間がかかりました。
できなすぎてムキ~っと楽譜も楽器もひっくり返したくなるくらい(笑)。
でも根気よく皆さん付き合っていただき、感謝しています。
いい勉強になりました。
ありがとうございました。
それから印象に残っているのは、「羽越大災害」の中に「あっ、学校が消えた」という部分が出てくるのですが、この「あっ」にかなり戸惑い、リーダーとSaeさんと「あっ」の連呼をしたこと。
どんな「あっ」がいいのか悩みましたよ~。
ぜひCDで聞いてみてください。
――葉月みなみとMinamiについて聞かせてください。
歌い方の違いやスタンスの違いはあるのですか?
普段は演歌歌手葉月みなみですが、今回のプロジェクトはMinamiとして参加させていただきました。
歌い方の違いは一つだけ、演歌独特のこぶしは使わないこと。
でもスタンスは同じです。
どんな歌も意味があって情景があって、作詞・作曲家の想いがあると思います。
それをよく感じて情景を思い浮かべながら歌う。
なりきって歌う。
そして一生懸命楽しんで歌う。
一生懸命歌うと聞いてくださる方に伝わると思います。
――なるほど、普段の歌手活動でもそうなんですね。
普段はどんな活動をしているのか教えてください。
はい、どんなステージも「初心と感謝の気持ち」を忘れずに歌わせていただいています。
普段は新潟県内を中心に介護施設、病院、各地区イベントに出演させていただいています。
ジャンル問わず、お客様の層を見て楽しんでいただけるようにその日の演目を考えています。
一生懸命さと楽しさは必ず伝わります!!
――最後に読者の皆様にメッセージをお願いします。
このプロジェクトでお世話になった方々、そして応援してくださる方々に心より感謝いたします。
そして、一緒に音楽を奏でることができるメンバーの皆さんに感謝いたします。
いよいよCD発売になります。
私たちのメッセージがそのまま詰め込んである渾身の1枚です。
ぜひ聞いていただいて、合唱組曲「阿賀野川」を広く長く愛し、歌い続けていただきたいと思います。
Minami(葉月みなみ)
1979年生まれ
新潟県新潟市出身
新潟を中心に介護施設、病院、各地区イベントに精力的に出演
合唱×ROCK「阿賀野川」の構想は、さかのぼること十数年前――。
実は、リーダーミナガワトオルとの小さな約束から始まっていたのかもしれない。
彼女の発する言葉一つひとつは、CD発売を直前に控え、その感謝の気持ちでいっぱいに溢れていた。
ふるさとを想う心は同じ。今、歌で届けたい想い。
――まず最初に、今回の合唱×ROCK「阿賀野川」のプロジェクトに参加することになった経緯を教えてください。
きっかけは10年程前。
リーダーのミナガワトオルさんに、三川には混声三部合唱組曲「阿賀野川」というそれは壮大な組曲があるんだよという話を聞いたことからです。
私も歌が大好きだったので、興味深々で。
当時リーダーの携帯電話の着信音は「ふるさとの将軍杉」。
昔の携帯って、自分で作ってオリジナルメロディとして着信音にできたんですよね。
これをまず聞いて本当に気に入っちゃって(笑)。
だから今でもふるさとの将軍杉が一番大好きなんです。
歌詞を教えてもらってリーダーと何度も何度もでっかい声でハモって歌っていましたね。
居酒屋とかコンビニの前とかどこでも(笑)。
懐かしいです。
その頃からリーダーは語っていました。
いつかこの合唱曲をバンドでやりたいんだと。
そして一緒にできたらいいよねと。
――そして10年経って実現したわけですね?
はい、そうなんです。
実際には12年経っていますが(笑)。
他のメンバーとは違って戸惑いはなく、すんなりとやろう!って感じでした。
でも10年経って本当に実現しちゃうんだからこれはすごいことですよね!
当時は私が演歌歌手としてデビューすると思っていませんでしたが、同じ音楽を愛する者同士、ふるさとを想う心は同じです。
こうしてプロジェクトに参加させていただいて嬉しいです。
――20年間歌い継がれていること、また中学生が歌っている姿を見てどんな印象を受けましたか?
まずこの合唱曲を作られた深い歴史と意味を考えさせられました。
リーダーと共に取材に同行させてもらい、大屋(旧姓:斎藤)美智子さんに当時の生々しい現実や気持ちなど、聞かせていただくことができた時は言葉にならず、ただただ涙がこぼれました。
そして、この合唱曲を歌い継ぐことの本当の意味を感じることができました。
また、第20回の「歌いつぐ会」にお邪魔させていただき、生の中学生の歌声を聞くことができた時は、一生懸命に心をこめて歌う生徒さんの歌声や姿、組曲への姿勢に心を打たれました。
改めてこのプロジェクトに参加させていただくにあたって、身が引き締まるとともに、歌詞を今一度しっかり理解して心で歌いたいと思いました。
――レコーディングを終えてどうでしたか?
そうですね、一言で言えば大変でした!
でも楽しかったですよ。
バンドのレコーディングは初めての経験だったのでとても新鮮でいい経験でした。
ああ、こんな風に音を録って重ねていくのかあなど。
――一番大変だったことは?
ピアノ演奏ですね。
実は歌よりも苦労しました。
本業ではないので…なかなか思うような演奏ができなくて時間がかかりました。
できなすぎてムキ~っと楽譜も楽器もひっくり返したくなるくらい(笑)。
でも根気よく皆さん付き合っていただき、感謝しています。
いい勉強になりました。
ありがとうございました。
それから印象に残っているのは、「羽越大災害」の中に「あっ、学校が消えた」という部分が出てくるのですが、この「あっ」にかなり戸惑い、リーダーとSaeさんと「あっ」の連呼をしたこと。
どんな「あっ」がいいのか悩みましたよ~。
ぜひCDで聞いてみてください。
――葉月みなみとMinamiについて聞かせてください。
歌い方の違いやスタンスの違いはあるのですか?
普段は演歌歌手葉月みなみですが、今回のプロジェクトはMinamiとして参加させていただきました。
歌い方の違いは一つだけ、演歌独特のこぶしは使わないこと。
でもスタンスは同じです。
どんな歌も意味があって情景があって、作詞・作曲家の想いがあると思います。
それをよく感じて情景を思い浮かべながら歌う。
なりきって歌う。
そして一生懸命楽しんで歌う。
一生懸命歌うと聞いてくださる方に伝わると思います。
――なるほど、普段の歌手活動でもそうなんですね。
普段はどんな活動をしているのか教えてください。
はい、どんなステージも「初心と感謝の気持ち」を忘れずに歌わせていただいています。
普段は新潟県内を中心に介護施設、病院、各地区イベントに出演させていただいています。
ジャンル問わず、お客様の層を見て楽しんでいただけるようにその日の演目を考えています。
一生懸命さと楽しさは必ず伝わります!!
――最後に読者の皆様にメッセージをお願いします。
このプロジェクトでお世話になった方々、そして応援してくださる方々に心より感謝いたします。
そして、一緒に音楽を奏でることができるメンバーの皆さんに感謝いたします。
いよいよCD発売になります。
私たちのメッセージがそのまま詰め込んである渾身の1枚です。
ぜひ聞いていただいて、合唱組曲「阿賀野川」を広く長く愛し、歌い続けていただきたいと思います。
Minami(葉月みなみ)
1979年生まれ
新潟県新潟市出身
新潟を中心に介護施設、病院、各地区イベントに精力的に出演
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年7月2日月曜日
「山口 究 インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――まず、合唱組曲「阿賀野川」についてお聞きしたいのですが。
そうですね…。
初めて聴いた時は13歳の頃でした。
小学生時代は、音楽の成績が悪かったので(笑)。
(音楽は)あまり好きな教科ではありませんでした。
だから“「阿賀野川」なんて絶対歌えない!!”っていうのが正直な第一印象でしたね。
――実際3年間歌ってみて、どうでしたか?
中学3年生になった時に、「歌いつぐ会」の実行委員長をやらせていただいて。
“なんでこんなヘタな自分が…。務まるのかな”と不安にも思いましたが(笑)。
今ではすごくいい思い出になってます。
――どんな思い出がありますか?
やっぱり、みんなで協力して取り組んだことですね。
僕が3年生の時は、ちょうど11周年目だったんです。
“もう一回みんなで踏み出そう!”っていうことで、「あらたに踏み出す一歩」というスローガンを掲げました。
実はPTAの方(かな?)が、気になさってたそうです。
“ひとつの節目である10周年が終わった時に、次はどのようなスローガンで来るのだろう?”と。
でも発表会の最後のコメントで、“このスローガンを聞いてすごく嬉しく思いました”と言ってくださったんですよね。
実行委員長として“ああ、このスローガンの下やってて良かったな”と思った瞬間でしたね。
――大変だったことはありますか?
う~ん…。
僕、口笛が吹けないので…(笑)。
「ふるさとの将軍杉」ではずっと吹いてるフリをしていました(一同爆笑)。
――思い入れの強い曲は?
…まぁそういうこともあって、やっぱり「将軍杉」ですかねぇ(笑)。
あの時、もう少し自分の意識が変わってたなら、口笛が吹けるようになるまで一生懸命やったかもって思います。
もしあの頃の自分に会えたら、“ちょっとがんばって練習してみたら?”って言いたいですね~。
――「阿賀野川」が20年間歌い継いがれていることに対して、いかがですか?
三川中学校の体育館に、「第20回…」という「歌いつぐ会」の張り紙が張り出されているのを見た時は驚きましたね。
“もう20年なんだ~”と。
20年って言ったらそれこそ、子供が大人になるくらいの年月ですよね。
その時の流れというか、伝統の中の一部に自分が居れたことを嬉しく感じました。
――元「歌いつぐ会」実行委員長として、今後「阿賀野川」に期待することはありますか?
「合唱」って言うと、昔の僕みたいに音楽の授業が苦手な子は“歌えないよな~”なんて思っちゃうかもしれませんが。
馴染みのあるROCK調だとか、例えばそうですね、AKB48とかアイドルが歌うような感じにしたりすれば、親しみを込めて歌えるんじゃないでしょうか。
これから中学生になって歌う子供たちも、感情移入がしやすいんじゃないかな~と。
だから、合唱×ROCK「阿賀野川」のプロジェクトを最初聞いた時に、“うわ~っ!スッゴイこと考える人がいるな~!”って思いました、本当に。
また、この話が適切なのかわからないですけど…。
阿賀野川には「新潟水俣病」という歴史もあったりします。
僕は、水俣病の歴史について調べていた時期がありました。
そのおかげで、いろんな方々からお話を聞けたり、様々な経験をさせていただきました。
阿賀町のちょっとした面を深く見るだけで、多くのことを与えてくれるんですよね、阿賀野川って。
羽越水害のことは、風化させないように後世へ伝えていかなければいけませんが、それ以外の歴史についても深く学んでもらいたいですね。
地元の子供たちには、そこから自分たちの世界を拡げていって欲しいな、と思います。
――おぉ。なんて立派なんでしょう!
そうですね~。この合唱組曲「阿賀野川」がそういった歴史や文化を知るきっかけになってくれたらいいですね。
ホントに勝手で押しつけがましいかもしれませんが、個人的に、このROCK調になった「阿賀野川」に期待する点はそこに尽きると思っています。
――最後に、山口さんがにとっての「阿賀野川」とは?
阿賀野川=「ふるさと」です。
昨年の新潟・福島豪雨による水害や、羽越の水害もそうですし、水俣病とか…。
過去のそういった水害があったにも関わらず、それでもなお一緒に生活を共にしているのは、やっぱり「ふるさと」だからなんだと思います。
山口 究
1987年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成14年度三川中学校卒業生
パート:テノール
青年海外協力隊を目指し、今年3月からアメリカで農業研修中
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――まず、合唱組曲「阿賀野川」についてお聞きしたいのですが。
そうですね…。
初めて聴いた時は13歳の頃でした。
小学生時代は、音楽の成績が悪かったので(笑)。
(音楽は)あまり好きな教科ではありませんでした。
だから“「阿賀野川」なんて絶対歌えない!!”っていうのが正直な第一印象でしたね。
――実際3年間歌ってみて、どうでしたか?
中学3年生になった時に、「歌いつぐ会」の実行委員長をやらせていただいて。
“なんでこんなヘタな自分が…。務まるのかな”と不安にも思いましたが(笑)。
今ではすごくいい思い出になってます。
――どんな思い出がありますか?
やっぱり、みんなで協力して取り組んだことですね。
僕が3年生の時は、ちょうど11周年目だったんです。
“もう一回みんなで踏み出そう!”っていうことで、「あらたに踏み出す一歩」というスローガンを掲げました。
実はPTAの方(かな?)が、気になさってたそうです。
“ひとつの節目である10周年が終わった時に、次はどのようなスローガンで来るのだろう?”と。
でも発表会の最後のコメントで、“このスローガンを聞いてすごく嬉しく思いました”と言ってくださったんですよね。
実行委員長として“ああ、このスローガンの下やってて良かったな”と思った瞬間でしたね。
――大変だったことはありますか?
う~ん…。
僕、口笛が吹けないので…(笑)。
「ふるさとの将軍杉」ではずっと吹いてるフリをしていました(一同爆笑)。
――思い入れの強い曲は?
…まぁそういうこともあって、やっぱり「将軍杉」ですかねぇ(笑)。
あの時、もう少し自分の意識が変わってたなら、口笛が吹けるようになるまで一生懸命やったかもって思います。
もしあの頃の自分に会えたら、“ちょっとがんばって練習してみたら?”って言いたいですね~。
――「阿賀野川」が20年間歌い継いがれていることに対して、いかがですか?
三川中学校の体育館に、「第20回…」という「歌いつぐ会」の張り紙が張り出されているのを見た時は驚きましたね。
“もう20年なんだ~”と。
20年って言ったらそれこそ、子供が大人になるくらいの年月ですよね。
その時の流れというか、伝統の中の一部に自分が居れたことを嬉しく感じました。
――元「歌いつぐ会」実行委員長として、今後「阿賀野川」に期待することはありますか?
「合唱」って言うと、昔の僕みたいに音楽の授業が苦手な子は“歌えないよな~”なんて思っちゃうかもしれませんが。
馴染みのあるROCK調だとか、例えばそうですね、AKB48とかアイドルが歌うような感じにしたりすれば、親しみを込めて歌えるんじゃないでしょうか。
これから中学生になって歌う子供たちも、感情移入がしやすいんじゃないかな~と。
だから、合唱×ROCK「阿賀野川」のプロジェクトを最初聞いた時に、“うわ~っ!スッゴイこと考える人がいるな~!”って思いました、本当に。
また、この話が適切なのかわからないですけど…。
阿賀野川には「新潟水俣病」という歴史もあったりします。
僕は、水俣病の歴史について調べていた時期がありました。
そのおかげで、いろんな方々からお話を聞けたり、様々な経験をさせていただきました。
阿賀町のちょっとした面を深く見るだけで、多くのことを与えてくれるんですよね、阿賀野川って。
羽越水害のことは、風化させないように後世へ伝えていかなければいけませんが、それ以外の歴史についても深く学んでもらいたいですね。
地元の子供たちには、そこから自分たちの世界を拡げていって欲しいな、と思います。
――おぉ。なんて立派なんでしょう!
そうですね~。この合唱組曲「阿賀野川」がそういった歴史や文化を知るきっかけになってくれたらいいですね。
ホントに勝手で押しつけがましいかもしれませんが、個人的に、このROCK調になった「阿賀野川」に期待する点はそこに尽きると思っています。
――最後に、山口さんがにとっての「阿賀野川」とは?
阿賀野川=「ふるさと」です。
昨年の新潟・福島豪雨による水害や、羽越の水害もそうですし、水俣病とか…。
過去のそういった水害があったにも関わらず、それでもなお一緒に生活を共にしているのは、やっぱり「ふるさと」だからなんだと思います。
山口 究
1987年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成14年度三川中学校卒業生
パート:テノール
青年海外協力隊を目指し、今年3月からアメリカで農業研修中
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年6月29日金曜日
「斎藤 優希 インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――初めて「阿賀野川」を聴いたのは?
はい、合唱組曲「阿賀野川」を初めて聴いたのはまだ小学生の時です。
中学生になると、授業で歌詞の内容の勉強があるんですよ。
先生と一緒に、石間にある羽越水害の碑石や氾濫した川を見に行ったりもしました。
そうやって「阿賀野川」の歌詞を勉強しながら、三川の歴史を学び、曲のことも深く知っていきました。
――中学時代、「阿賀野川」の思い出というと、どんな事が浮かびますか?
思い出は、ひたすら猛練習したことですかねぇ。
負けず嫌いなので(笑)、友達にも負けたくなくって。
誰よりも綺麗な高音を大きく出したいと思って、すごく練習してました。
学校での練習では足りないから、家でも毎日毎日歌ってましたね。
お風呂でとか(笑)。
ほんとに上手くなりたかった。
――熱心だったんですね。好きな曲などありますか?
4曲目の「悲歌」はすごくいい曲だと思います。
辛いことがあった後なのに、明るく前向きになっていく。
特に曲の後半ですよね。
前半の悲しくて重苦しい曲調から、だんだんと明るくなっていく雰囲気がとても好きです。
――斎藤さんにとって、「阿賀野川」とは?
小学校でも合唱曲はやってたんですが、とにかく今まで歌ってきた合唱曲の中では、間違いなく一番一生懸命に歌った曲です。
曲自体はとても深くて、重い感じのする内容だと思うんです。
だからこそ、この合唱組曲「阿賀野川」を全員で合唱して、完成した時の嬉しさと言ったらとっても大きい。
やっぱりこういうことは、経験したからこそ言えるのかもしれませんね。
斎藤 優希
1993年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成20年度三川中学校卒業生
パート:ソプラノ
(本人より一言)
音楽が大好きなので、これからも音楽に関わっていきたいです(*^^*)
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――初めて「阿賀野川」を聴いたのは?
はい、合唱組曲「阿賀野川」を初めて聴いたのはまだ小学生の時です。
中学生になると、授業で歌詞の内容の勉強があるんですよ。
先生と一緒に、石間にある羽越水害の碑石や氾濫した川を見に行ったりもしました。
そうやって「阿賀野川」の歌詞を勉強しながら、三川の歴史を学び、曲のことも深く知っていきました。
――中学時代、「阿賀野川」の思い出というと、どんな事が浮かびますか?
思い出は、ひたすら猛練習したことですかねぇ。
負けず嫌いなので(笑)、友達にも負けたくなくって。
誰よりも綺麗な高音を大きく出したいと思って、すごく練習してました。
学校での練習では足りないから、家でも毎日毎日歌ってましたね。
お風呂でとか(笑)。
ほんとに上手くなりたかった。
――熱心だったんですね。好きな曲などありますか?
4曲目の「悲歌」はすごくいい曲だと思います。
辛いことがあった後なのに、明るく前向きになっていく。
特に曲の後半ですよね。
前半の悲しくて重苦しい曲調から、だんだんと明るくなっていく雰囲気がとても好きです。
――斎藤さんにとって、「阿賀野川」とは?
小学校でも合唱曲はやってたんですが、とにかく今まで歌ってきた合唱曲の中では、間違いなく一番一生懸命に歌った曲です。
曲自体はとても深くて、重い感じのする内容だと思うんです。
だからこそ、この合唱組曲「阿賀野川」を全員で合唱して、完成した時の嬉しさと言ったらとっても大きい。
やっぱりこういうことは、経験したからこそ言えるのかもしれませんね。
斎藤 優希
1993年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成20年度三川中学校卒業生
パート:ソプラノ
(本人より一言)
音楽が大好きなので、これからも音楽に関わっていきたいです(*^^*)
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年6月23日土曜日
「竹中 律子 インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」の詩の世界観を深く読み解くには、まず作詩者山本和夫という人物を知る必要がある。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。
山本先生は心のままに生きてて、まるで少年のような人
――初めてお会いしたときのことは覚えていますか?
山本先生に初めてお会いしたのは、たぶん主人と…他に何人かいらっしゃったかもしれませんが、萬徳寺(※)へ行ったときですね。
萬徳寺には国の天然記念物に指定されたモミジがあって、その庭園が有名なんですよ。
そこの五色椿のところで、山本先生が“この椿はね…”って説明してくださったのがとても印象に残ってます。
今から…30年くらい前ですかね~。
――山本先生はどんなお人でしたか?
お酒が好きだってのが、ホントに…(笑)。
うちの主人もお酒が好きでしたから。
私の祖母の実家が、むかし造り酒屋をしてたんですね。
そこの養子に来た従伯父が、山本先生と旧制中学で同級生だったんだそうです。
それで、山本先生は小浜に帰って来られると、しょっちゅうその酒屋さんへ来ておられて…。
酔っぱらっていらっしゃったそうです(笑)。
だから従伯母は、“山本さんが来ると長くて…(困)”という感じであまり歓迎していなかったようですが…(笑)。
でも、すごい陽気なお酒っていうか、いつも楽しそうに飲んでらっしゃいましたね。
――お酒が大変好きだったという情報は、他の若狭のみなさんからも異口同音に伺っております(笑)。
私の家にね、山本先生が書かれた直筆の色紙があるんです。
「醒めればわたしは 一人ぼっちの わたしになる」と書かれてます。
これは、合唱組曲「阿賀野川」の第四曲「悲歌」の詩の一部にあるのです。
…どっちだと思います(笑)?
「(お酒を飲んで)酔いよ、醒めるな」なのか、「悲歌」の詩のとおり「夢よ、さめるな」なのか…。
――あぁ!二つの意味に取れますね(笑)。
色紙をいただいた時は、ずーっと「酔いよ、醒めるな」だと思ってましたから(笑)。
“山本先生らしいなぁ”って、思い込んでたんです。
でも去年、資料をまとめてたときに詩を読んで、“あっ、「悲歌」の言葉なのかな”って思ったんですよ。
私も「阿賀野川」を歌ってたんだけど、その時は気付きませんでした。
――(吉井多美子氏)
私には「桃の花咲く 平和な村が 拡がった」という色紙をくださったんですよ。
他に、硝子屋さんの人は、カン、カン、カン…と、半鐘のことが書かれた色紙だった。
“硝子職人さんにはピッタリやなぁ~”って言ってね(笑)。
――なるほど!では、山本先生はみなさんそれぞれに、「阿賀野川」の詩から抜粋して色紙を贈られたんですね。
と言うことは、私のは「夢よ さめるな」の意味ですね。
色紙に「夢よ」と書いてないあたりが、山本先生らしいユーモアなセンスですね(笑)。
きっとお酒の方の意味も含ませたんでしょう。
――山本先生のお酒好きは、みなさんにも受け継がれているようですね。
亡夫も、若狭文学会(※)に入らせてもらってたんですね。
その会合が、小浜にある私たち夫婦の別宅で開かれていたんですよ。
その別宅は、みなさんから「アジト」と呼ばれていました(笑)。
町の真ん中にありまして、普段は使ってない家だったんです。
だから、人が集まってお酒を飲んだりするには使いやすかったんですよね。
手帳に酒宴の日に○を付けていったら、ある年なんかは136回になりました。
主人はそれを自慢そうに話してました(笑)。
――ところで竹中さん、先ほど「阿賀野川」を歌ったとおっしゃっていましたが…。
【阿賀野川】コーラスサミット2004(※)へ行って歌いました。
もともと私も「ママさんコーラス」に入ってはいるんですけど。
なかなかこういうカッチリとした合唱曲は歌わないんです。
このような合唱曲に取り組むのは、初めてだったので大変でした。
でもああいうかたちで練習して、「阿賀野川」が流れる新潟へ皆さんと一緒に行き、1,000人以上の前で歌えたっていうのはすごく良かったなぁと思います。
2007年に、山本和夫先生の「生誕100年記念コンサート」を開催できたのも、このコーラスサミットがあったおかげなんですよね。
若狭からコーラスサミットへ行ったのは、8~10人程だったんですけど。
その人たちが中心となって、小浜で第九を歌ってる人とかにも声をかけました。
そのときだけの「青の村合唱団」を作って、山本先生作詩の「たじま牛」や「親しらず子しらず」などを歌いました。
――このコンサートでは、山本先生が作詩された学校の校歌も歌われたんですよね?
はい、学校の校歌はそれぞれの学校の子供たちが歌いました。
山本先生が校歌を作詩された学校は、県外にも多数あるんですけど。
この時は近隣の学校だけに声をかけまして、15もの小中高等学校が参加したのです。
“出ません”と断ったところは1校もなかったと思います。
――最後に、竹中さんにとって「山本和夫」とはどのような人ですか?
先生は「少年」のようでしたね(笑)。
気持ちは本当に少年のままでした。
心のままに生きていらっしゃって、それはプラス思考から生まれてくるものばかり。
戦争にも行っておられるし、いろんな大変なこともあったと思います。
でもそれらが全然マイナスの方向へ動いてないというか…。
詩なんか読んでみても、どれも純粋な感じがしますね~。
竹中 律子
1947年生まれ
福井県大飯郡おおい町出身
元小学校教師
※萬徳寺
福井県小浜市ある高野山真言宗の寺。
天然記念物の大山モミジを借景とする名勝枯山水庭園で知られている。
※若狭文学会
40年余りにわたって、福井県若狭地方の文学界をけん引。
年1~2回「若狭文学(1970年~2011年終刊)」を発行し、会の精神的支柱である山本和夫氏を様々な形で顕彰してきた。
毎年5月下旬には同会メンバーによって山本和夫忌を行っている。
※【阿賀野川】コーラスサミット2004
2004年(平成16年)8月29日、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館コンサートホールにて開催。
日本全国から、「川」にちなんだ合唱曲を歌っているコーラスグループ9団体が新潟に集結した。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。
山本先生は心のままに生きてて、まるで少年のような人
――初めてお会いしたときのことは覚えていますか?
山本先生に初めてお会いしたのは、たぶん主人と…他に何人かいらっしゃったかもしれませんが、萬徳寺(※)へ行ったときですね。
萬徳寺には国の天然記念物に指定されたモミジがあって、その庭園が有名なんですよ。
そこの五色椿のところで、山本先生が“この椿はね…”って説明してくださったのがとても印象に残ってます。
今から…30年くらい前ですかね~。
――山本先生はどんなお人でしたか?
お酒が好きだってのが、ホントに…(笑)。
うちの主人もお酒が好きでしたから。
私の祖母の実家が、むかし造り酒屋をしてたんですね。
そこの養子に来た従伯父が、山本先生と旧制中学で同級生だったんだそうです。
それで、山本先生は小浜に帰って来られると、しょっちゅうその酒屋さんへ来ておられて…。
酔っぱらっていらっしゃったそうです(笑)。
だから従伯母は、“山本さんが来ると長くて…(困)”という感じであまり歓迎していなかったようですが…(笑)。
でも、すごい陽気なお酒っていうか、いつも楽しそうに飲んでらっしゃいましたね。
――お酒が大変好きだったという情報は、他の若狭のみなさんからも異口同音に伺っております(笑)。
私の家にね、山本先生が書かれた直筆の色紙があるんです。
「醒めればわたしは 一人ぼっちの わたしになる」と書かれてます。
これは、合唱組曲「阿賀野川」の第四曲「悲歌」の詩の一部にあるのです。
…どっちだと思います(笑)?
「(お酒を飲んで)酔いよ、醒めるな」なのか、「悲歌」の詩のとおり「夢よ、さめるな」なのか…。
――あぁ!二つの意味に取れますね(笑)。
色紙をいただいた時は、ずーっと「酔いよ、醒めるな」だと思ってましたから(笑)。
“山本先生らしいなぁ”って、思い込んでたんです。
でも去年、資料をまとめてたときに詩を読んで、“あっ、「悲歌」の言葉なのかな”って思ったんですよ。
私も「阿賀野川」を歌ってたんだけど、その時は気付きませんでした。
――(吉井多美子氏)
私には「桃の花咲く 平和な村が 拡がった」という色紙をくださったんですよ。
他に、硝子屋さんの人は、カン、カン、カン…と、半鐘のことが書かれた色紙だった。
“硝子職人さんにはピッタリやなぁ~”って言ってね(笑)。
――なるほど!では、山本先生はみなさんそれぞれに、「阿賀野川」の詩から抜粋して色紙を贈られたんですね。
と言うことは、私のは「夢よ さめるな」の意味ですね。
色紙に「夢よ」と書いてないあたりが、山本先生らしいユーモアなセンスですね(笑)。
きっとお酒の方の意味も含ませたんでしょう。
――山本先生のお酒好きは、みなさんにも受け継がれているようですね。
亡夫も、若狭文学会(※)に入らせてもらってたんですね。
その会合が、小浜にある私たち夫婦の別宅で開かれていたんですよ。
その別宅は、みなさんから「アジト」と呼ばれていました(笑)。
町の真ん中にありまして、普段は使ってない家だったんです。
だから、人が集まってお酒を飲んだりするには使いやすかったんですよね。
手帳に酒宴の日に○を付けていったら、ある年なんかは136回になりました。
主人はそれを自慢そうに話してました(笑)。
――ところで竹中さん、先ほど「阿賀野川」を歌ったとおっしゃっていましたが…。
【阿賀野川】コーラスサミット2004(※)へ行って歌いました。
もともと私も「ママさんコーラス」に入ってはいるんですけど。
なかなかこういうカッチリとした合唱曲は歌わないんです。
このような合唱曲に取り組むのは、初めてだったので大変でした。
でもああいうかたちで練習して、「阿賀野川」が流れる新潟へ皆さんと一緒に行き、1,000人以上の前で歌えたっていうのはすごく良かったなぁと思います。
2007年に、山本和夫先生の「生誕100年記念コンサート」を開催できたのも、このコーラスサミットがあったおかげなんですよね。
若狭からコーラスサミットへ行ったのは、8~10人程だったんですけど。
その人たちが中心となって、小浜で第九を歌ってる人とかにも声をかけました。
そのときだけの「青の村合唱団」を作って、山本先生作詩の「たじま牛」や「親しらず子しらず」などを歌いました。
――このコンサートでは、山本先生が作詩された学校の校歌も歌われたんですよね?
はい、学校の校歌はそれぞれの学校の子供たちが歌いました。
山本先生が校歌を作詩された学校は、県外にも多数あるんですけど。
この時は近隣の学校だけに声をかけまして、15もの小中高等学校が参加したのです。
“出ません”と断ったところは1校もなかったと思います。
――最後に、竹中さんにとって「山本和夫」とはどのような人ですか?
先生は「少年」のようでしたね(笑)。
気持ちは本当に少年のままでした。
心のままに生きていらっしゃって、それはプラス思考から生まれてくるものばかり。
戦争にも行っておられるし、いろんな大変なこともあったと思います。
でもそれらが全然マイナスの方向へ動いてないというか…。
詩なんか読んでみても、どれも純粋な感じがしますね~。
竹中 律子
1947年生まれ
福井県大飯郡おおい町出身
元小学校教師
※萬徳寺
福井県小浜市ある高野山真言宗の寺。
天然記念物の大山モミジを借景とする名勝枯山水庭園で知られている。
※若狭文学会
40年余りにわたって、福井県若狭地方の文学界をけん引。
年1~2回「若狭文学(1970年~2011年終刊)」を発行し、会の精神的支柱である山本和夫氏を様々な形で顕彰してきた。
毎年5月下旬には同会メンバーによって山本和夫忌を行っている。
※【阿賀野川】コーラスサミット2004
2004年(平成16年)8月29日、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館コンサートホールにて開催。
日本全国から、「川」にちなんだ合唱曲を歌っているコーラスグループ9団体が新潟に集結した。
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年6月18日月曜日
2012年6月13日水曜日
「吉井 多美子 インタビュー(後編)」
合唱組曲「阿賀野川」の詩の世界観を深く読み解くには、まず作詩者山本和夫という人物を知る必要がある。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。
<前編を読む>
私にとって、山本先生はサンタクロースのような人
――他にはどんな思い出がありますか?
亡くなられるちょっと前に、“絵はがきを何枚送ったかな?”って言わはったのよ。
私に100枚の絵はがきを送ってくれる、という約束をしてたんです。
本当は80枚くらいあるのに、私は“40~50枚くらいでしょうかねぇ。”って嘘をつきました。
先生には“嘘ついとるやろ。”と、すぐばれてしまいましたけどね(笑)。
オー・ヘンリーの短篇に、葉っぱが落ちるお話がありますでしょ。
その話になぞって、少なく言ってちょっとでも長生きしてもらおうとしたんですが(笑)。
でもその後ね、ドサッと絵はがきが30枚くらい送られてきたのね。
一番最後のはがきが、誰か他の人に宛てた年賀状の書き損じが入ってました。
それを見て私は“あぁ、先生は亡くなられるなぁ。”って悟りました。
――【阿賀野川】コーラスサミット2004(※)では、吉井さんも「わかさ『青の村』合唱団」として「阿賀野川」を歌った経緯もあるとのことですが。
はい。
バスに乗ってね、新潟まで歌いに行きました。
当日指揮をされる岩崎先生には、新潟から何回か来ていただいて、指導もしていただきました。
新潟で合唱したときに、歌が合わなかったら困るからね。
あの時は、三川村の「阿賀野川」混声合唱団の他、いくつかの合唱団と一緒に歌ったんです。
――三川村へは行かれたことはありますか?
コーラスサミット以前、平成11年(1999年)7月に組曲「阿賀野川」を聴くため、三川中学校へ行ったことがあります。
そのときは明通寺の僧侶中嶌哲演さんや松井正さん、竹中延年さん(律子さんのご主人)も一緒でした。
三川温泉に入ったり、将軍杉も見に行きました。
懐かしいですね。
――最後の質問です。吉井さんにとって「山本和夫」とは?
私が作詩・作曲した「わたしのサンタクロース」という歌があるんです。
わたしのサンタクロース
作詩・作曲 吉井多美子
1.
わたしの好きなサンタクロース
トナカイのそりに乗り
冬の星空をかけてゆく
ベルを鳴らして
※リンルンルン リンルンルン リン ルンルン
リンルンルン リンルンルン リン ルンルン
リンルンルン リンルンルンルン ルン ルンルン
2.
わたしのすきなおじいさん
赤い帽子に赤い服
白いおひげがよくにあう
いつもにっこり
3.
わたしのすきなサンタクロース
大きな袋の中に
いっぱい詰まった夢と愛
くばってゆくの
※くり返し
これは、山本先生のイメージして作りました。
私にとってはサンタクロースのような人でしたね。
――まさにイメージにぴったりの曲ですね(拍手)!
貴重なお話を聞かせてくださいまして、ありがとうございました。
吉井 多美子
1946年生まれ
京都府京都市出身
小浜病院ボランティアすみれの会、若狭福祉会、
福井県立若狭歴史民俗資料館友の会会員
※【阿賀野川】コーラスサミット2004
2004年(平成16年)8月29日、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館コンサートホールにて開催。
日本全国から、「川」にちなんだ合唱曲を歌っているコーラスグループ9団体が新潟に集結した。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。
<前編を読む>
私にとって、山本先生はサンタクロースのような人
――他にはどんな思い出がありますか?
亡くなられるちょっと前に、“絵はがきを何枚送ったかな?”って言わはったのよ。
私に100枚の絵はがきを送ってくれる、という約束をしてたんです。
本当は80枚くらいあるのに、私は“40~50枚くらいでしょうかねぇ。”って嘘をつきました。
先生には“嘘ついとるやろ。”と、すぐばれてしまいましたけどね(笑)。
オー・ヘンリーの短篇に、葉っぱが落ちるお話がありますでしょ。
その話になぞって、少なく言ってちょっとでも長生きしてもらおうとしたんですが(笑)。
でもその後ね、ドサッと絵はがきが30枚くらい送られてきたのね。
一番最後のはがきが、誰か他の人に宛てた年賀状の書き損じが入ってました。
それを見て私は“あぁ、先生は亡くなられるなぁ。”って悟りました。
――【阿賀野川】コーラスサミット2004(※)では、吉井さんも「わかさ『青の村』合唱団」として「阿賀野川」を歌った経緯もあるとのことですが。
はい。
バスに乗ってね、新潟まで歌いに行きました。
当日指揮をされる岩崎先生には、新潟から何回か来ていただいて、指導もしていただきました。
新潟で合唱したときに、歌が合わなかったら困るからね。
あの時は、三川村の「阿賀野川」混声合唱団の他、いくつかの合唱団と一緒に歌ったんです。
――三川村へは行かれたことはありますか?
コーラスサミット以前、平成11年(1999年)7月に組曲「阿賀野川」を聴くため、三川中学校へ行ったことがあります。
そのときは明通寺の僧侶中嶌哲演さんや松井正さん、竹中延年さん(律子さんのご主人)も一緒でした。
三川温泉に入ったり、将軍杉も見に行きました。
懐かしいですね。
――最後の質問です。吉井さんにとって「山本和夫」とは?
私が作詩・作曲した「わたしのサンタクロース」という歌があるんです。
わたしのサンタクロース
作詩・作曲 吉井多美子
1.
わたしの好きなサンタクロース
トナカイのそりに乗り
冬の星空をかけてゆく
ベルを鳴らして
※リンルンルン リンルンルン リン ルンルン
リンルンルン リンルンルン リン ルンルン
リンルンルン リンルンルンルン ルン ルンルン
2.
わたしのすきなおじいさん
赤い帽子に赤い服
白いおひげがよくにあう
いつもにっこり
3.
わたしのすきなサンタクロース
大きな袋の中に
いっぱい詰まった夢と愛
くばってゆくの
※くり返し
これは、山本先生のイメージして作りました。
私にとってはサンタクロースのような人でしたね。
――まさにイメージにぴったりの曲ですね(拍手)!
貴重なお話を聞かせてくださいまして、ありがとうございました。
吉井 多美子
1946年生まれ
京都府京都市出身
小浜病院ボランティアすみれの会、若狭福祉会、
福井県立若狭歴史民俗資料館友の会会員
※【阿賀野川】コーラスサミット2004
2004年(平成16年)8月29日、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館コンサートホールにて開催。
日本全国から、「川」にちなんだ合唱曲を歌っているコーラスグループ9団体が新潟に集結した。
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年6月5日火曜日
「吉井 多美子 インタビュー(前編)」
合唱組曲「阿賀野川」の詩の世界観を深く読み解くには、まず作詩者山本和夫という人物を知る必要がある。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。
私は「アッシー君」を務めていました(笑)
――山本和夫先生についてお話を伺っていきます。
山本先生は福井県立若狭歴史民俗資料館の館長をされていました。
その頃、月に1回は小浜に来られていましたので、私は「アッシー君」を務めていました(笑)。
車を運転して、先生とあちこち行きました。
そのうちに私は、作曲をするようになったので。
“次に来る時までに曲を作っておくよう”と、山本先生にはよく言われてましたね。
――吉井さんは山本先生と特に親しかったとお聞きしておりますが。
病床からもね、しょっちゅう電話がかかってきました。
“なんの用でしょうか?”と聞くと、
“用がなかったら、電話したらいかんのかー!?”と(笑)。
――ははは(笑)。お茶目ですね。
亡くなられる前もね、電話で“もう死にそうや…。”と言ってね。
山本先生は、“君は、来るんか?葬式には行かないけど、見舞いには来るって言うたやろ。”って。
“そうですね、ほんならお見舞いに行きます。何か食べたいものありませんか?”と聞いたら、
“ふたつある。”っておっしゃるんです。
“ひとつは鮎や。そこら辺の下流の鮎なんか食べられんぞ。ワシは水の綺麗なところで育ってるから、天然の鮎でないと。”(笑)。
それから“もうひとつはよもぎや。それも標高800メートル以上のところで摘んだよもぎで作った草餅が食べたい”って。
――なかなか細かいご注文でしたね(笑)。
私も“そうですか、わかりました。”と言ったものの、鮎はまだ解禁日になってないし(笑)。
よもぎも、池河内に行ったらきっと標高800メートルくらいあるかな、と思っていたけど(笑)。
主人に聞いたら“そんなとこ小浜にあらへんぞ~!”って(笑)。
――それは困りました(笑)。で、どうされたんですか?
友人に山の会の人がおられたから、摘んできてもらったんやけれど。
そんなにたくさん採れなかったので、うちの畑で採れたよもぎも加えて作りました。
近所の奥さん方にも来てもらってね。
鮎は、昨年冷凍してたのがあるのを思い出して、保冷剤を入れて送りました。
都立府中病院にて先生は、“はぁ、はぁ…”としんどそうだった…。
身体をさすってあげました。
“がんばれ、がんばれ”って。
他にも、女の人が何人も来てました。
だから順番待ち(笑)。
私もあんまり長くそこにはいられなかった。
――おモテになったんですね、先生は(笑)。
で、結局ね、鮎や草餅は食べてもらえなかったのかな~。
すぐに倒れられたみたいで…。
でもお棺の中には入れていただきました。
お葬式にも女の人がいっぱい(笑)!
<後編を読む>
吉井 多美子
1946年生まれ
京都市出身
小浜病院ボランティアすみれの会、若狭福祉会、
福井県立若狭歴史民俗資料館友の会会員
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。
私は「アッシー君」を務めていました(笑)
――山本和夫先生についてお話を伺っていきます。
山本先生は福井県立若狭歴史民俗資料館の館長をされていました。
その頃、月に1回は小浜に来られていましたので、私は「アッシー君」を務めていました(笑)。
車を運転して、先生とあちこち行きました。
そのうちに私は、作曲をするようになったので。
“次に来る時までに曲を作っておくよう”と、山本先生にはよく言われてましたね。
――吉井さんは山本先生と特に親しかったとお聞きしておりますが。
病床からもね、しょっちゅう電話がかかってきました。
“なんの用でしょうか?”と聞くと、
“用がなかったら、電話したらいかんのかー!?”と(笑)。
――ははは(笑)。お茶目ですね。
亡くなられる前もね、電話で“もう死にそうや…。”と言ってね。
山本先生は、“君は、来るんか?葬式には行かないけど、見舞いには来るって言うたやろ。”って。
“そうですね、ほんならお見舞いに行きます。何か食べたいものありませんか?”と聞いたら、
“ふたつある。”っておっしゃるんです。
“ひとつは鮎や。そこら辺の下流の鮎なんか食べられんぞ。ワシは水の綺麗なところで育ってるから、天然の鮎でないと。”(笑)。
それから“もうひとつはよもぎや。それも標高800メートル以上のところで摘んだよもぎで作った草餅が食べたい”って。
――なかなか細かいご注文でしたね(笑)。
私も“そうですか、わかりました。”と言ったものの、鮎はまだ解禁日になってないし(笑)。
よもぎも、池河内に行ったらきっと標高800メートルくらいあるかな、と思っていたけど(笑)。
主人に聞いたら“そんなとこ小浜にあらへんぞ~!”って(笑)。
――それは困りました(笑)。で、どうされたんですか?
友人に山の会の人がおられたから、摘んできてもらったんやけれど。
そんなにたくさん採れなかったので、うちの畑で採れたよもぎも加えて作りました。
近所の奥さん方にも来てもらってね。
鮎は、昨年冷凍してたのがあるのを思い出して、保冷剤を入れて送りました。
都立府中病院にて先生は、“はぁ、はぁ…”としんどそうだった…。
身体をさすってあげました。
“がんばれ、がんばれ”って。
他にも、女の人が何人も来てました。
だから順番待ち(笑)。
私もあんまり長くそこにはいられなかった。
――おモテになったんですね、先生は(笑)。
で、結局ね、鮎や草餅は食べてもらえなかったのかな~。
すぐに倒れられたみたいで…。
でもお棺の中には入れていただきました。
お葬式にも女の人がいっぱい(笑)!
<後編を読む>
吉井 多美子
1946年生まれ
京都市出身
小浜病院ボランティアすみれの会、若狭福祉会、
福井県立若狭歴史民俗資料館友の会会員
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年5月19日土曜日
「小畑 昭八郎 インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」の詩の世界観を深く読み解くには、まず作詩者山本和夫という人物を知る必要がある。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。
先生は、僕の事を滅多に褒めないんだけど、その時だけだね。
――山本和夫先生についていろいろとお聞かせください。
僕は、山本和夫先生の実家とは近所に生まれ育ちました。
だから小さい時から先生のことは知っていたんですよ。
昭和28~9年頃、僕は高校を卒業すると東京の山本先生の家へ行くようになります。
当時先生は小平市にある都営住宅に住んでいらっしゃいました。
アルバイトを紹介してほしくって先生を訪ねて行ったんですが、だんだん仲が深まりましてね(笑)。
もう、日曜日になると、先生のところへ行ってたんです。
――思い出は何かありますか?
それがいっぱいあってねぇ(笑)。
僕は、腰巾着のように山本先生にくっついてた。
特にね、飲み屋はね…(笑)。
先生は小浜に帰ってくると、駅からすぐ僕のところへ電話をかけてくるんです。
“今、東京から帰ったきた。ちょっと出てこい!”と、仕事中にも関わらずよく呼び出されたね(笑)。
――結構お酒が好きな方だったんですか?
すごいですよ(笑)!
そんなわけでね、僕の酒好きも山本先生から教授されたようなもんです(笑)。
東京でもいろんなところへ連れてってもらいました。
――山本先生の作品で、印象に残ってるものはありますか?
「町をかついできた子」という童話があるんですが。
そのお話は、ここ若狭地方一帯が舞台となってるんです。
主人公は、明通寺の小僧で、敦賀からもらわれてくるんです。
敦賀はこの村より都会ですから、それで「町をかついできた…」というわけです。
でも、なかなか古い因習には染まらない。
そしていろんな事件が起こる…という物語。
山本先生の作品としては戦後の早い時期に作られた作品です。
教育映画にもなりましたね。
――面白そうなお話ですね!
ところで、小畑さんは小浜市立図書館で館長をされていたとお聞きしましたが。
そうです。
当時小浜市では、酒井家から寄贈された本がほったらかしにされていた。
山本先生は“アレをどないかしなさい”と市長に言うてね。
その時僕はちょうど図書館の司書の資格を持ってたもんですから、声がかかった。
僕は図書館を定年で辞める3年前くらいに、「酒井家文庫総合目録」というものをまとめ上げました。
約700ページものぶ厚いものなんです。
これを山本先生に送ったらね、“こういうのを紙碑(しひ)と言うのだ”と、長ーい手紙をくれたんですよ。
あの時はもう涙が出たね。
先生は、僕の事を滅多に褒めないんだけど、その時だけだね~。
“お前は、ふるさとの「百科事典」になりなさい”と。
まぁそんなことがありましたね。
――それでは最後の質問になりますが、小畑さんにとって「山本和夫」とは?
僕にとっては、近すぎて…。
「親父」しかないなあぁ。
僕が詩を書くようになったのも、山本先生の影響を受けてなんですよ。
会うと、“(詩を)書いとるか?書いとるか?”と言ってねぇ。
それが口ぐせだったね。
小畑 昭八郎
1933年生まれ
福井県小浜市池河内出身
元小浜市立図書館館長
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。
先生は、僕の事を滅多に褒めないんだけど、その時だけだね。
――山本和夫先生についていろいろとお聞かせください。
僕は、山本和夫先生の実家とは近所に生まれ育ちました。
だから小さい時から先生のことは知っていたんですよ。
昭和28~9年頃、僕は高校を卒業すると東京の山本先生の家へ行くようになります。
当時先生は小平市にある都営住宅に住んでいらっしゃいました。
アルバイトを紹介してほしくって先生を訪ねて行ったんですが、だんだん仲が深まりましてね(笑)。
もう、日曜日になると、先生のところへ行ってたんです。
――思い出は何かありますか?
それがいっぱいあってねぇ(笑)。
僕は、腰巾着のように山本先生にくっついてた。
特にね、飲み屋はね…(笑)。
先生は小浜に帰ってくると、駅からすぐ僕のところへ電話をかけてくるんです。
“今、東京から帰ったきた。ちょっと出てこい!”と、仕事中にも関わらずよく呼び出されたね(笑)。
――結構お酒が好きな方だったんですか?
すごいですよ(笑)!
そんなわけでね、僕の酒好きも山本先生から教授されたようなもんです(笑)。
東京でもいろんなところへ連れてってもらいました。
――山本先生の作品で、印象に残ってるものはありますか?
「町をかついできた子」という童話があるんですが。
そのお話は、ここ若狭地方一帯が舞台となってるんです。
主人公は、明通寺の小僧で、敦賀からもらわれてくるんです。
敦賀はこの村より都会ですから、それで「町をかついできた…」というわけです。
でも、なかなか古い因習には染まらない。
そしていろんな事件が起こる…という物語。
山本先生の作品としては戦後の早い時期に作られた作品です。
教育映画にもなりましたね。
――面白そうなお話ですね!
ところで、小畑さんは小浜市立図書館で館長をされていたとお聞きしましたが。
そうです。
当時小浜市では、酒井家から寄贈された本がほったらかしにされていた。
山本先生は“アレをどないかしなさい”と市長に言うてね。
その時僕はちょうど図書館の司書の資格を持ってたもんですから、声がかかった。
僕は図書館を定年で辞める3年前くらいに、「酒井家文庫総合目録」というものをまとめ上げました。
約700ページものぶ厚いものなんです。
これを山本先生に送ったらね、“こういうのを紙碑(しひ)と言うのだ”と、長ーい手紙をくれたんですよ。
あの時はもう涙が出たね。
先生は、僕の事を滅多に褒めないんだけど、その時だけだね~。
“お前は、ふるさとの「百科事典」になりなさい”と。
まぁそんなことがありましたね。
――それでは最後の質問になりますが、小畑さんにとって「山本和夫」とは?
僕にとっては、近すぎて…。
「親父」しかないなあぁ。
僕が詩を書くようになったのも、山本先生の影響を受けてなんですよ。
会うと、“(詩を)書いとるか?書いとるか?”と言ってねぇ。
それが口ぐせだったね。
小畑 昭八郎
1933年生まれ
福井県小浜市池河内出身
元小浜市立図書館館長
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年5月15日火曜日
「合唱×ROCK『阿賀野川』中間発表試聴会感想 Part3」
平成24年2月29日、阿賀町立三川中学校にて、「合唱×ROCK『阿賀野川』中間発表試聴会」が開かれ、卒業を間近に控えていた3年生にできたてホヤホヤの音源を届けることができた。
原曲「合唱組曲『阿賀野川』」を20周年目に歌い継いだ彼らには、どう感じたのだろうか。
当日書いてくれた感想文をシリーズで紹介する。
すごくきれいだったし、合唱の「阿賀野川」とはまた違う雰囲気で聴けました。
歌のリズムなどに迫力があって、大災害の情景が浮かんできました。
災害から立ち上がっていくところが、うまく表現されていて良かったです。
(3年生女子生徒)
1.「阿賀の里」
声がとてもきれい!!
ベースを教えてもらいたい(`・ω・)
アレンジがかっこいい。
2.「ふるさとの将軍杉」
オカリナいいーー(´ω`)♪
3.「羽越大災害」
これ好き!!ヤバイ!!
やろうと思えばヘドバンできるw
めっちゃかっこいい(*´艸`)
4.「悲歌」
演歌!?
最後のところ、ギターならもっと好きです!!
5.「光にむかって」
POPですねぇ♪
「退けばふさがり、進めばひらく」のところから「~たくましくなる」のところがカッコよかった。
総合的
ROCKだけじゃなく、いろんなジャンルの音を聴けた気がする。
何回聴いてもベースの音にはあこがれる。
(3年生女子生徒)
・2人の女性の声がとてもよい。
・三線が入った演奏がよかった。
・3曲目「羽越大災害」は激しいロックでかっこよかった。
・4曲目「悲歌」は文字通り悲しい曲だけど、その悲しさがすごく伝わってきた。
・5曲目で一気に明るくなり、楽しさが伝わる曲だった。
(3年生男子生徒)
1.「阿賀の里」
楽しそうな合唱の雰囲気が残っていました。
合唱はゆっくりだけど、けっこう早いリズムでした。
2.「ふるさとの将軍杉」
三線やオカリナが入っていて、明るく楽しそうな感じが伝わってきました。
3.「羽越大災害」
最初の雨の音が大災害の雨もようで、合唱の授業のときに教わったようなイメージでした。
4.「悲歌」
合唱の雰囲気が少し残っていました。
この歌の悲しさが表現されていました。
悲しいところから明るくなることろがよかったです。
最後のピアノもよかったです。
5.「光にむかって」
二胡の音がとてもよかったです。
歌声が力強く、合唱のときのような楽しさと、「頑張るぞ」という地元の人の感じが出ていてよかったです。
(3年生女子生徒)
原曲「合唱組曲『阿賀野川』」を20周年目に歌い継いだ彼らには、どう感じたのだろうか。
当日書いてくれた感想文をシリーズで紹介する。
すごくきれいだったし、合唱の「阿賀野川」とはまた違う雰囲気で聴けました。
歌のリズムなどに迫力があって、大災害の情景が浮かんできました。
災害から立ち上がっていくところが、うまく表現されていて良かったです。
(3年生女子生徒)
1.「阿賀の里」
声がとてもきれい!!
ベースを教えてもらいたい(`・ω・)
アレンジがかっこいい。
2.「ふるさとの将軍杉」
オカリナいいーー(´ω`)♪
3.「羽越大災害」
これ好き!!ヤバイ!!
やろうと思えばヘドバンできるw
めっちゃかっこいい(*´艸`)
4.「悲歌」
演歌!?
最後のところ、ギターならもっと好きです!!
5.「光にむかって」
POPですねぇ♪
「退けばふさがり、進めばひらく」のところから「~たくましくなる」のところがカッコよかった。
総合的
ROCKだけじゃなく、いろんなジャンルの音を聴けた気がする。
何回聴いてもベースの音にはあこがれる。
(3年生女子生徒)
・2人の女性の声がとてもよい。
・三線が入った演奏がよかった。
・3曲目「羽越大災害」は激しいロックでかっこよかった。
・4曲目「悲歌」は文字通り悲しい曲だけど、その悲しさがすごく伝わってきた。
・5曲目で一気に明るくなり、楽しさが伝わる曲だった。
(3年生男子生徒)
1.「阿賀の里」
楽しそうな合唱の雰囲気が残っていました。
合唱はゆっくりだけど、けっこう早いリズムでした。
2.「ふるさとの将軍杉」
三線やオカリナが入っていて、明るく楽しそうな感じが伝わってきました。
3.「羽越大災害」
最初の雨の音が大災害の雨もようで、合唱の授業のときに教わったようなイメージでした。
4.「悲歌」
合唱の雰囲気が少し残っていました。
この歌の悲しさが表現されていました。
悲しいところから明るくなることろがよかったです。
最後のピアノもよかったです。
5.「光にむかって」
二胡の音がとてもよかったです。
歌声が力強く、合唱のときのような楽しさと、「頑張るぞ」という地元の人の感じが出ていてよかったです。
(3年生女子生徒)
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年5月9日水曜日
「松井 正 インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」の詩の世界観を深く読み解くには、まず作詩者山本和夫という人物を知る必要がある。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。
私にとっては好々爺!
――山本和夫先生との出会いについて、お話を聞かせてください。
私は、地元小浜市の若狭高校の卒業生なんです。
その若狭高校の校歌が、「山本和夫作詩、山田耕筰作曲」なんですよ。
当時は山本和夫さんがどんな方なのか、私は全く知らなかった。
生きてる人なのか、存在そのものすら知らないような感じでしたね。
卒業してから、私は若狭高校をはじめとして高校の教員をしとったんですけど。
ある時、定時制の生徒がやってきまして、“「わかさ文学(※)」を作るから、参加してくれないか”ということでした。
昭和47年の頃ですね。
それで私は2号目から若狭文学会に入ったんです。
その後、わかさ文学の精神的支柱である山本和夫先生と出会いました。
――印象に残っていることはありますか?
覚えてるのはね、“結婚は恋愛でないとイカン”と先生がおっしゃるもんでね。
“見合いでもいいんじゃないですか”と反論すると、“いや、やはり恋愛だね!”とおっしゃる。
「恋愛至上主義」という言葉がありますが、まさにそんなお人でしたね(笑)。
山本先生は、この小浜市近辺と県外なども入れて、30近い学校の校歌を作詩してはりますね。
小、中、高校と。
校歌の作詩ではたくさん残されてますね~。
あと、「阿賀野川」もありますが、基本的に童話作家なんですよね。
だから非常にロマンチックな人でしたね。
――松井さんにとって、山本先生はどのような存在でしたか?
私にとっては好々爺!
とても感じのいい、高ぶらない、優しいおっちゃんだね。
これで私も76歳になりますが、今までたくさん会うてきた人の中で、あんないい人は滅多にいないと言えますね。
もう指折り5人以内に入るかな。
3人でもいいかな(笑)。
本当にそれぐらい優しい人柄でした。
――ご協力どうもありがとうございました。
松井 正
1935年生まれ
福井県小浜市清滝出身
NPO法人ティームス評議員、元高校の校長
※「わかさ文学」
福井県若狭地方の文学界を40余年もの間牽引してきた、若狭文学会による同人誌。
1970年創刊以来、年1~2回発行。
1980年から「若狭文学」と題字を変える。
故山本和夫氏の生誕100周年を記念した特集を組んだり、県内小中学生を対象とした詩のコンクールを創設したりと、幅広く活動。
2011年に発行された49号をもって、惜しまれながらの終刊となった。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。
私にとっては好々爺!
――山本和夫先生との出会いについて、お話を聞かせてください。
私は、地元小浜市の若狭高校の卒業生なんです。
その若狭高校の校歌が、「山本和夫作詩、山田耕筰作曲」なんですよ。
当時は山本和夫さんがどんな方なのか、私は全く知らなかった。
生きてる人なのか、存在そのものすら知らないような感じでしたね。
卒業してから、私は若狭高校をはじめとして高校の教員をしとったんですけど。
ある時、定時制の生徒がやってきまして、“「わかさ文学(※)」を作るから、参加してくれないか”ということでした。
昭和47年の頃ですね。
それで私は2号目から若狭文学会に入ったんです。
その後、わかさ文学の精神的支柱である山本和夫先生と出会いました。
――印象に残っていることはありますか?
覚えてるのはね、“結婚は恋愛でないとイカン”と先生がおっしゃるもんでね。
“見合いでもいいんじゃないですか”と反論すると、“いや、やはり恋愛だね!”とおっしゃる。
「恋愛至上主義」という言葉がありますが、まさにそんなお人でしたね(笑)。
山本先生は、この小浜市近辺と県外なども入れて、30近い学校の校歌を作詩してはりますね。
小、中、高校と。
校歌の作詩ではたくさん残されてますね~。
あと、「阿賀野川」もありますが、基本的に童話作家なんですよね。
だから非常にロマンチックな人でしたね。
――松井さんにとって、山本先生はどのような存在でしたか?
私にとっては好々爺!
とても感じのいい、高ぶらない、優しいおっちゃんだね。
これで私も76歳になりますが、今までたくさん会うてきた人の中で、あんないい人は滅多にいないと言えますね。
もう指折り5人以内に入るかな。
3人でもいいかな(笑)。
本当にそれぐらい優しい人柄でした。
――ご協力どうもありがとうございました。
松井 正
1935年生まれ
福井県小浜市清滝出身
NPO法人ティームス評議員、元高校の校長
※「わかさ文学」
福井県若狭地方の文学界を40余年もの間牽引してきた、若狭文学会による同人誌。
1970年創刊以来、年1~2回発行。
1980年から「若狭文学」と題字を変える。
故山本和夫氏の生誕100周年を記念した特集を組んだり、県内小中学生を対象とした詩のコンクールを創設したりと、幅広く活動。
2011年に発行された49号をもって、惜しまれながらの終刊となった。
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年5月6日日曜日
「酒井 楢一 インタビュー」
昭和42年の羽越水害――。
村で最も多くの犠牲者を出したのは、石間(いしま)地区である。
今回、被災直後の大変貴重な写真を入手することができた。
その写真とともに、当時の様子を伺った。
とにかく逃げるので精一杯という感じだった
――羽越水害を体験した時の事を教えてください。
雨は(8月)26日からずっと降っていたね。
私は26歳の頃だったかなぁ。
三重県での仕事を辞めて帰ってきてから、ほんの1週間後の出来事でした。
この辺りでは、「土石流」なんて言葉を聞いたことがなかったんですよ。
山の方から土砂が襲ってくるなんて、想像もできなかった。
阿賀野川本流の氾濫だったら、年寄りの人は経験していましたからね。
水がどのくらいまで来たら避難するとか、そういうのはだいたいわかっていたんです。
だから私も阿賀野川の水位に気を配りながら、家の片付けをしていました。
その頃、部落内を流れている沢川の上流では、木々が倒れて川の水をせき止めていた。
だから、沢川の水が流れてこないってことで、みんな不思議がっていましたね。
でも、上の方でダムができて水が溜まっているなんて、その時は誰一人考えもしなかった。
――予想できなかった、というのが今となっては悔やまれますね。
そうだね。
みんな阿賀野川の水位しか気にしていなかったからね。
一度でも「土石流」というものを経験していれば対策も考えられたのかもしれませんね。
――そして、そのダムが決壊してしまったんですね。
あれは明け方前だね。
家では、祖母と父、母、そして私の4人が住んでいました。
1階で片付け作業をしていたら、いきなり“ドーン!”と大きな音がして。
土砂がぶつかり、縁側の扉が破壊されてました。
母親を連れて逃げよう、と思った時にはもう腰くらいの高さまで水が入ってきていました。
まだ夜明け前なので外は真っ暗ですよ。
出たら、母親が流されてしまったんですよね。
私は慌てて手を掴みました。
もしその手を掴めなかったら…。
父親は、祖母と2階に上がって避難できました。
その時は自分の家のことしか考えていなくて、他所がどうなっているかなんてわからなかったね。
ほとんどの人が、高台へ避難した先で、土石流に飲み込まれてしまった。
悲劇だよねぇ…。
酒井氏自宅(左)と、隣の家(右)
――避難する時や被災後は、どんなお気持ちでしたか?
とにかく逃げるので精一杯という感じだね。
「ドーン!」ときてから、あっという間でした。
頭の中は真っ白。
夜が明けてくると、行方不明者がいるとか、だんだん状況がわかってきました。
土砂で49号線は遮断されているから、石間そのものは孤立した状態でした。
丸一日くらいは連絡がまったく取れなかったんじゃないだろうか。
怪我人は戸板に乗せて隣町まで運んでね。
その後はようやく自衛隊も来てくれて、村の消防団と遺体の捜索にあたりました。
重機で土を掘るわけだから首や足が取れたりして…。
どこに埋まってるのかもわからないし。
大変なんてもんじゃなかったね、あれは。
村民消防団・自衛隊必死の遺体捜索
――この水害の体験を、三川小学校の児童にも語る機会があったそうですが。
はい。
私が区長をやっていた時に、小学校の先生がいらっしゃって。
是非、水害の事を子供たちに伝えたいと、依頼を受けました。
6年生になると、「羽越大災害」を勉強して文集を作ってたみたいでしたね。
それからも3年間くらい、年に1回、小学校へ行ってお話をさせてもらいました。
みんな真剣に聞いてくれてましたよ。
落ち着きを取り戻した上の沢川(左)、山から土砂となって運ばれた大きな石(右)
8.28水害殉難者告別式
――この悲劇を風化させないために、子供たちにもしっかりと伝えていかなければいけせんね。
貴重なお写真のご提供、インタビューのご協力、どうもありがとうございました。
酒井 楢一
1941年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
26歳の時、羽越水害を体験
1999年から2010年まで石間地区の区長を務める
村で最も多くの犠牲者を出したのは、石間(いしま)地区である。
今回、被災直後の大変貴重な写真を入手することができた。
その写真とともに、当時の様子を伺った。
とにかく逃げるので精一杯という感じだった
――羽越水害を体験した時の事を教えてください。
雨は(8月)26日からずっと降っていたね。
私は26歳の頃だったかなぁ。
三重県での仕事を辞めて帰ってきてから、ほんの1週間後の出来事でした。
この辺りでは、「土石流」なんて言葉を聞いたことがなかったんですよ。
山の方から土砂が襲ってくるなんて、想像もできなかった。
阿賀野川本流の氾濫だったら、年寄りの人は経験していましたからね。
水がどのくらいまで来たら避難するとか、そういうのはだいたいわかっていたんです。
だから私も阿賀野川の水位に気を配りながら、家の片付けをしていました。
その頃、部落内を流れている沢川の上流では、木々が倒れて川の水をせき止めていた。
だから、沢川の水が流れてこないってことで、みんな不思議がっていましたね。
でも、上の方でダムができて水が溜まっているなんて、その時は誰一人考えもしなかった。
――予想できなかった、というのが今となっては悔やまれますね。
そうだね。
みんな阿賀野川の水位しか気にしていなかったからね。
一度でも「土石流」というものを経験していれば対策も考えられたのかもしれませんね。
――そして、そのダムが決壊してしまったんですね。
あれは明け方前だね。
家では、祖母と父、母、そして私の4人が住んでいました。
1階で片付け作業をしていたら、いきなり“ドーン!”と大きな音がして。
土砂がぶつかり、縁側の扉が破壊されてました。
母親を連れて逃げよう、と思った時にはもう腰くらいの高さまで水が入ってきていました。
まだ夜明け前なので外は真っ暗ですよ。
出たら、母親が流されてしまったんですよね。
私は慌てて手を掴みました。
もしその手を掴めなかったら…。
父親は、祖母と2階に上がって避難できました。
その時は自分の家のことしか考えていなくて、他所がどうなっているかなんてわからなかったね。
ほとんどの人が、高台へ避難した先で、土石流に飲み込まれてしまった。
悲劇だよねぇ…。
酒井氏自宅(左)と、隣の家(右)
――避難する時や被災後は、どんなお気持ちでしたか?
とにかく逃げるので精一杯という感じだね。
「ドーン!」ときてから、あっという間でした。
頭の中は真っ白。
夜が明けてくると、行方不明者がいるとか、だんだん状況がわかってきました。
土砂で49号線は遮断されているから、石間そのものは孤立した状態でした。
丸一日くらいは連絡がまったく取れなかったんじゃないだろうか。
怪我人は戸板に乗せて隣町まで運んでね。
その後はようやく自衛隊も来てくれて、村の消防団と遺体の捜索にあたりました。
重機で土を掘るわけだから首や足が取れたりして…。
どこに埋まってるのかもわからないし。
大変なんてもんじゃなかったね、あれは。
村民消防団・自衛隊必死の遺体捜索
――この水害の体験を、三川小学校の児童にも語る機会があったそうですが。
はい。
私が区長をやっていた時に、小学校の先生がいらっしゃって。
是非、水害の事を子供たちに伝えたいと、依頼を受けました。
6年生になると、「羽越大災害」を勉強して文集を作ってたみたいでしたね。
それからも3年間くらい、年に1回、小学校へ行ってお話をさせてもらいました。
みんな真剣に聞いてくれてましたよ。
落ち着きを取り戻した上の沢川(左)、山から土砂となって運ばれた大きな石(右)
8.28水害殉難者告別式
――この悲劇を風化させないために、子供たちにもしっかりと伝えていかなければいけせんね。
貴重なお写真のご提供、インタビューのご協力、どうもありがとうございました。
酒井 楢一
1941年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
26歳の時、羽越水害を体験
1999年から2010年まで石間地区の区長を務める
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年4月30日月曜日
「江辺 玲子 インタビュー」
合唱×ROCK「阿賀野川」を編曲するにあたり、リーダーミナガワトオルには当初からどうしても譲れないこだわりがあった。
第五曲「光にむかって」に、中国の伝統楽器「二胡」の音色を入れることだ。
新潟県内では、二胡奏者は大変希少である。
レコーディングを終えたばかりの彼女に、誘われた経緯から「阿賀野川」について伺う。
短い8小節だけに自分のテンションを全部詰め込みました。
——このプロジェクトに参加することになった経緯を教えてください。
ある時、燕市内で二胡の演奏をしていました。
その様子が会報に掲載され、それをご覧になったある方が、私にお電話をくださったんです。
“町興しで、合唱組曲「阿賀野川」をロック調にカヴァーしているバンドがいる”ということ。
そして“そのCDに二胡の音を入れたいので、いかがですか?”というお話でした。
その方の紹介で後日Saeさんと直接お会いし、詳しい内容を聞きました。
——なるほど、そういった繋がりがあったんですね。
Saeさんとはどのようなお話をされたのですか?
そうですね、合唱組曲「阿賀野川」や、今回のプロジェクトの詳しい内容について。
そして、レコーディングの日程などについてですね。
二胡は出せる音域が限られているので、楽譜を見ながら実際に演奏できるものか確認もしました。
私とSaeさん、それぞれの音楽活動についてもいろいろお話しましたね〜。
——今日レコーディングを終えてみて、いかがでしたか?
はい。
私はレコーディングというものがが初めてで…。
昨日までちょっと…眠れなかったというか…(笑)。
“どうなるかなぁ”って少し不安もありました。
二胡は、正しい音程をピンポイントで押さえる事が難しくって…。
私は未熟でまだ上手くできないので、ちょっと心配でした。
あと、ヘッドホンで音を聴きながら弾くことが一番不安でしたね、普段ではしないことなので。
でも実際レコーディングしてみると、ヘッドホンから聴こえてくる音がボリュームも大きくて、クリアでした。
なので演奏する手元の方は、力を入れなくても楽に音を出せたような気がしました。
——なにやら、演奏する箇所が突然増えたとかお聞きしましたが(笑)。
はい、そうですね(笑)。
ビックリしました(笑)。
当初、Saeさんから“ココを弾いてください”と、デモ音源と楽譜を渡されたんです。
それが、第五曲「光にむかって」のイントロの8小節だけだったんですけど。
今日来てみたら“ココも弾いてもらえますか”って(笑)。
新しく追加になったところは、“こんな感じのフレージングで”って言われたんですけど、イメージを持っていくのが大変でした(笑)。
でも、あまりこう…他の楽器の音の邪魔をしないように、かつキレイなメロディーでできたと思います。
ミナガワさんにも助けてもらいながら(笑)。
——イントロの方はいかがでしたか?
イントロは8小節という短いものでした。
普段弾いてる曲はもっと長いから、だんだんノリが出てくるんですけど。
8小節だとノッてくる前に、“ここで終わり”っていう(笑)。
なので、その短い8小節だけに自分のテンションを全部詰め込みました。
——合唱組曲「阿賀野川」については?
今回プロジェクトに参加させていただくにあたって、初演のCDをお借りして聴いてみました。
ものすごい感動と、何て言うか…胸が絞めつけられる想いもして、当時の水害の悲惨さが一目瞭然という感じで伝わってきました。
でも最後には「光にむかって」っていう曲で締めくくられていて…。
ものすごい楽曲だと感じました。
この歌が20年も歌い継がれているということにも驚きました。
町の取り組みとしてもすごい頑張っていらっしゃるんだろうなぁ、と。
これだけでも十分町興しになっているのに、更に歌い継ぐ新しいカタチとして「合唱×ROCK」を提案するプロジェクトに、大変感動しました。
中学生や合唱団の方たちが、ずーっとこれからも絶やさず歌い継ぐっていう熱意も伝わってきました。
ぜひ、燕市にも来て歌っていただきたいです。
特に中学生の子供たちに聴いてもらいたいですね〜。
私も、今度演奏会があったら聴きに行きたいと思いますので(ミナガワさん、)情報待ってます(笑)。
——読者に向けて一言お願いします。
阿賀町にこういう素晴らしい歌があり、しかも組曲になっていて、20年もの間歌い継がれていることは、たくさんの人に知ってもらいたいです。
そして、一人でも多くの方たちにこのプロジェクトのことも知ってもらえたらいいですね。
CDが完成したらぜひ手に取って聴いてもらい、歌の内容やいろんな感情の表現を感じ取っていただきたいですね。
江辺 玲子
1968年生まれ
燕市(旧吉田町)出身
音楽教室、二胡教室を開く傍ら、コンサートなど演奏活動や、カルチャースクールの指導にあたる
第五曲「光にむかって」に、中国の伝統楽器「二胡」の音色を入れることだ。
新潟県内では、二胡奏者は大変希少である。
レコーディングを終えたばかりの彼女に、誘われた経緯から「阿賀野川」について伺う。
短い8小節だけに自分のテンションを全部詰め込みました。
——このプロジェクトに参加することになった経緯を教えてください。
ある時、燕市内で二胡の演奏をしていました。
その様子が会報に掲載され、それをご覧になったある方が、私にお電話をくださったんです。
“町興しで、合唱組曲「阿賀野川」をロック調にカヴァーしているバンドがいる”ということ。
そして“そのCDに二胡の音を入れたいので、いかがですか?”というお話でした。
その方の紹介で後日Saeさんと直接お会いし、詳しい内容を聞きました。
——なるほど、そういった繋がりがあったんですね。
Saeさんとはどのようなお話をされたのですか?
そうですね、合唱組曲「阿賀野川」や、今回のプロジェクトの詳しい内容について。
そして、レコーディングの日程などについてですね。
二胡は出せる音域が限られているので、楽譜を見ながら実際に演奏できるものか確認もしました。
私とSaeさん、それぞれの音楽活動についてもいろいろお話しましたね〜。
——今日レコーディングを終えてみて、いかがでしたか?
はい。
私はレコーディングというものがが初めてで…。
昨日までちょっと…眠れなかったというか…(笑)。
“どうなるかなぁ”って少し不安もありました。
二胡は、正しい音程をピンポイントで押さえる事が難しくって…。
私は未熟でまだ上手くできないので、ちょっと心配でした。
あと、ヘッドホンで音を聴きながら弾くことが一番不安でしたね、普段ではしないことなので。
でも実際レコーディングしてみると、ヘッドホンから聴こえてくる音がボリュームも大きくて、クリアでした。
なので演奏する手元の方は、力を入れなくても楽に音を出せたような気がしました。
——なにやら、演奏する箇所が突然増えたとかお聞きしましたが(笑)。
はい、そうですね(笑)。
ビックリしました(笑)。
当初、Saeさんから“ココを弾いてください”と、デモ音源と楽譜を渡されたんです。
それが、第五曲「光にむかって」のイントロの8小節だけだったんですけど。
今日来てみたら“ココも弾いてもらえますか”って(笑)。
新しく追加になったところは、“こんな感じのフレージングで”って言われたんですけど、イメージを持っていくのが大変でした(笑)。
でも、あまりこう…他の楽器の音の邪魔をしないように、かつキレイなメロディーでできたと思います。
ミナガワさんにも助けてもらいながら(笑)。
——イントロの方はいかがでしたか?
イントロは8小節という短いものでした。
普段弾いてる曲はもっと長いから、だんだんノリが出てくるんですけど。
8小節だとノッてくる前に、“ここで終わり”っていう(笑)。
なので、その短い8小節だけに自分のテンションを全部詰め込みました。
——合唱組曲「阿賀野川」については?
今回プロジェクトに参加させていただくにあたって、初演のCDをお借りして聴いてみました。
ものすごい感動と、何て言うか…胸が絞めつけられる想いもして、当時の水害の悲惨さが一目瞭然という感じで伝わってきました。
でも最後には「光にむかって」っていう曲で締めくくられていて…。
ものすごい楽曲だと感じました。
この歌が20年も歌い継がれているということにも驚きました。
町の取り組みとしてもすごい頑張っていらっしゃるんだろうなぁ、と。
これだけでも十分町興しになっているのに、更に歌い継ぐ新しいカタチとして「合唱×ROCK」を提案するプロジェクトに、大変感動しました。
中学生や合唱団の方たちが、ずーっとこれからも絶やさず歌い継ぐっていう熱意も伝わってきました。
ぜひ、燕市にも来て歌っていただきたいです。
特に中学生の子供たちに聴いてもらいたいですね〜。
私も、今度演奏会があったら聴きに行きたいと思いますので(ミナガワさん、)情報待ってます(笑)。
——読者に向けて一言お願いします。
阿賀町にこういう素晴らしい歌があり、しかも組曲になっていて、20年もの間歌い継がれていることは、たくさんの人に知ってもらいたいです。
そして、一人でも多くの方たちにこのプロジェクトのことも知ってもらえたらいいですね。
CDが完成したらぜひ手に取って聴いてもらい、歌の内容やいろんな感情の表現を感じ取っていただきたいですね。
江辺 玲子
1968年生まれ
燕市(旧吉田町)出身
音楽教室、二胡教室を開く傍ら、コンサートなど演奏活動や、カルチャースクールの指導にあたる
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年4月28日土曜日
2012年4月23日月曜日
「合唱×ROCK『阿賀野川』中間発表視試聴感想 Part2」
平成24年2月29日、阿賀町立三川中学校にて、「合唱×ROCK『阿賀野川』中間発表試聴会」が開かれ、卒業を間近に控えていた3年生にできたてホヤホヤの音源を届けることができた。
原曲「合唱組曲『阿賀野川』」を20周年目に歌い継いだ彼らには、どう感じたのだろうか。
当日書いてくれた感想文をシリーズで紹介する。
・阿賀野川の雄大さや、住んでいる人たちの幸せな気持ちなどが伝わってきた。
・ロックでこれだけ「阿賀野川」を表現できることろがすごいと思った。
・歌に込める想いや強さが伝わってきた。
・第三曲「羽越大災害」で本当の雨の音を使っていることろが、情景が変わった感じがよく伝わってくる。
・ロックだけど、ボーカルの人が心を込めて歌っているので気持ちが伝わってくる。
(3年生女子生徒)
自分たちが合唱で歌った「阿賀野川」がロックになって不思議な感じだけど、こんな風に変わるんだと思いました。
私がイメージしていたロックはもっとうるさいものでしたが、聴いてみて、聴きやすく楽しかったです。
私たちはもう「阿賀野川」の発表会が終わってしまったので、みんなで一緒に歌うことはなくなったけど、卒業して大人になっても、「阿賀野川」をみんなで一生懸命に歌ったことを、忘れないでいようと思いました。
(3年生女子生徒)
1.「阿賀の里」
すごくロックと融合していて、合唱とは違う表現が出されていてすごいと思いました。
2.「ふるさとの将軍杉」
合唱で口笛をやっている部分がオカリナになっていて、すごく合っていました。
3.「羽越大災害」
合唱ではピアノひとつで表現しているところを、ギターやドラムなどで表現していて、より細かな表現がされていてすごいと思いました。
とてもマッチしています。
4.「悲歌」
ロックと演歌調と「悲歌」がとてもマッチしています。
合唱では表現できないところを全て表現していて、イメージが浮かび上がってきました。
5.「光にむかって」
二胡がマッチしていてとてもよかったです。
(3年生男子生徒)
原曲「合唱組曲『阿賀野川』」を20周年目に歌い継いだ彼らには、どう感じたのだろうか。
当日書いてくれた感想文をシリーズで紹介する。
・阿賀野川の雄大さや、住んでいる人たちの幸せな気持ちなどが伝わってきた。
・ロックでこれだけ「阿賀野川」を表現できることろがすごいと思った。
・歌に込める想いや強さが伝わってきた。
・第三曲「羽越大災害」で本当の雨の音を使っていることろが、情景が変わった感じがよく伝わってくる。
・ロックだけど、ボーカルの人が心を込めて歌っているので気持ちが伝わってくる。
(3年生女子生徒)
自分たちが合唱で歌った「阿賀野川」がロックになって不思議な感じだけど、こんな風に変わるんだと思いました。
私がイメージしていたロックはもっとうるさいものでしたが、聴いてみて、聴きやすく楽しかったです。
私たちはもう「阿賀野川」の発表会が終わってしまったので、みんなで一緒に歌うことはなくなったけど、卒業して大人になっても、「阿賀野川」をみんなで一生懸命に歌ったことを、忘れないでいようと思いました。
(3年生女子生徒)
1.「阿賀の里」
すごくロックと融合していて、合唱とは違う表現が出されていてすごいと思いました。
2.「ふるさとの将軍杉」
合唱で口笛をやっている部分がオカリナになっていて、すごく合っていました。
3.「羽越大災害」
合唱ではピアノひとつで表現しているところを、ギターやドラムなどで表現していて、より細かな表現がされていてすごいと思いました。
とてもマッチしています。
4.「悲歌」
ロックと演歌調と「悲歌」がとてもマッチしています。
合唱では表現できないところを全て表現していて、イメージが浮かび上がってきました。
5.「光にむかって」
二胡がマッチしていてとてもよかったです。
(3年生男子生徒)
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2012年4月21日土曜日
「明通寺・山本和夫碑」
詩人・山本和夫氏(明治40年~平成8年)は、美しい自然に恵まれた福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれた。
作家、評論家として幅広く活躍した彼は、数々の合唱曲の作詩も多く手掛けた。
地元小中学校、高等学校の校歌にも、ふるさとを愛する詩が用いられている。
生家が在る小浜市門前には、征夷大将軍の坂上田村麻呂が806年に創建したとされる「明通寺」がある。
幼少期は専らの遊び場であり、死後はここに葬られ、優しくふるさとを見守ってる。
《 山本和夫 詩碑 》
故郷の原風景が詠まれた作品「青の村」が刻まれている。
設計/谷口吉郎
建立者/文化運動メンバー一同
建立年/昭和50年
《 山本和夫 墓 》
墓石に掘られた文字は山本和夫本人の文字である。
家族の希望で、山本氏自らが作成した仏様の陶板が埋め込まれた。
「明通寺」
大同元年(806年)、北陸地方を巡行中の坂上田村麻呂が創建したとされる。
地方寺院の例に漏れず、中世以前の沿革はあまり判然としていない。
現存する本堂、三重塔は鎌倉時代中期、13世紀のもので、中興の祖である僧・頼禅によって復興されたものである。
境内の本堂と三重塔は昭和28年国宝に指定された。
《 国宝 明通寺本堂 》
《 国宝 三重塔 》
《 春の訪れを待ち望む、松永川 》
山本和夫氏の原風景がひろがっていた。
「明通寺」所在地
福井県小浜市門前5-21 Google マップ
作家、評論家として幅広く活躍した彼は、数々の合唱曲の作詩も多く手掛けた。
地元小中学校、高等学校の校歌にも、ふるさとを愛する詩が用いられている。
生家が在る小浜市門前には、征夷大将軍の坂上田村麻呂が806年に創建したとされる「明通寺」がある。
幼少期は専らの遊び場であり、死後はここに葬られ、優しくふるさとを見守ってる。
《 山本和夫 詩碑 》
故郷の原風景が詠まれた作品「青の村」が刻まれている。
設計/谷口吉郎
建立者/文化運動メンバー一同
建立年/昭和50年
《 山本和夫 墓 》
墓石に掘られた文字は山本和夫本人の文字である。
家族の希望で、山本氏自らが作成した仏様の陶板が埋め込まれた。
「明通寺」
大同元年(806年)、北陸地方を巡行中の坂上田村麻呂が創建したとされる。
地方寺院の例に漏れず、中世以前の沿革はあまり判然としていない。
現存する本堂、三重塔は鎌倉時代中期、13世紀のもので、中興の祖である僧・頼禅によって復興されたものである。
境内の本堂と三重塔は昭和28年国宝に指定された。
《 国宝 明通寺本堂 》
《 国宝 三重塔 》
《 春の訪れを待ち望む、松永川 》
山本和夫氏の原風景がひろがっていた。
「明通寺」所在地
福井県小浜市門前5-21 Google マップ
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会