突如としてSwallowtail*Queenbeeの後任ドラマーとして選ばれた和徳。
混声三部合唱組曲「阿賀野川」20周年プロジェクトに対し、バンドの心臓部分とも言える「ドラマー」としての役割をどう担っているのだろうか?
常に虎視眈眈と何かを狙うような表情から、時折穏やかな笑顔も見せてくれた。(後編)
<前編を読む>
「ROCK」の定義って何を以って「ROCK」と呼ぶのか、かなりグレーゾーンだと思います。
――合唱×ROCK「阿賀野川」のスタジオリハーサルはどのように進められたのですか?
原曲、つまり初演のCDと同時に、バンド用のデモ音源も渡されたんです。
これらはひたすら聴いて、まず構成を覚えることから始めました。
普通の楽曲とは違い、テンポも変わるし、雰囲気もガラッと変わるし…。
それはもう大変でしたね。
ましてや、原曲すら知らなかったわけだし。
感覚的に1曲の中に2~3曲が入っている感じで(笑)。
――「ROCK」ということで、人によっては結構激しいイメージを持たれる方もいるのではないでしょうか?
僕もそう思います。
でも「ROCK」の定義って何を以って「ROCK」と呼ぶのか、かなりグレーゾーンだと僕は思います。
ポップスだって「ROCK」と言えるだろうし、ヘヴィメタルだって「ROCK」と言う人もいるだろうし。
ただ、今回の合唱×ROCK「阿賀野川」に関しては、そんなに「ROCK」という定義を以って演奏はしなかったですね。
そうすると、アレンジが全然できなくなってしまう恐れが個人的にありましたから。
――ドラムはどのようにアレンジが行われたのですか?
基本的にバンド用のデモ音源を基盤に、忠実に叩いたり、自分が持っているドラマーとしてのネタを試行錯誤しましたよ。
例えば第一曲「阿賀の里」の3/8拍子になるところは、デモ音源だとかなりガチガチなノリだったのですが。
個人的にスウィングしている方が断然オシャレだと感じたので、スウィングのパターンを入れました。
でも、矛盾しているかもしれないけど、一応「ROCK」と言われている以上、一貫してファンクのノリだとか、ジャジーな感じにするとかはしないようにしました。
これについては、トオルさんといろいろ衝突する時もありましたけど(笑)。
元が合唱曲だということで、聴きやすい仕上がりにはなったかなと思います。
第二曲「ふるさとの将軍杉」は、ボサ・ノバ調にしたかったのですが…。
…ダメでした(笑)。
――いろいろ大変だったんですねぇ。先日のレコーディングはいかがでしたか?
時間との兼ね合いもあり、ドラムとベースは一発録りだったのですが…。
さすがにテンポが1曲のうちに何回も変わる楽曲は初めてだったので、うまくいくか多少不安でしたね。
でもまぁ、何とか無事に録り終えたので良かったですよ。
うまくいかないときは、休憩ですね。
コーヒー飲んだり、煙草を吸ったり。
とにかく練習通りのプレイを心掛けます。
そもそも、僕はレコーディングってライブと同じで、メンタルが問われるものだと思っているので。
その点は…、トオルさんはメンタルやられてたかなぁ(笑)。
あ、これインタビューに載せますか?
…トオルさん、すいません。
――無事に終えることができて、とにかくお疲れ様でした。(笑)
では、和徳さんが思う「ドラマー」とは、バンドではどのようなポジションなのでしょうか?
間違いなくバンドの核ですよね。
“和徳はドラマーっぽくないね”とよく言われますが(苦笑)。
僕は「縁の下の力持ち」のポジションが好きなのかな。
ドラムが良いバンドは「良いバンド」と言われているけど、その分自分にかかるプレッシャーはいつも大きいですよね。
だけど、今でも自分をうまいとは全然思わないですし、自分よりうまいドラマーは年齢関係なく、星の数ほどいますからね。
ただ高速に叩けたり、超絶なテクニックがあれば「うまいドラマー」という訳ではないし。
僕が凄いと思うのはもちろん、超絶テクニックのドラマーとかだけど…。
ん~…、最低限の技術は持つべきだけど、やはり自分ならではの「グルーヴ」だったり「叩き方」、それにともない「音」であったり…。
まぁ「強い個性」なんでしょうかね。
僕は全然まだまだ未熟なので日々精進です。
自分で「うまい」と思ったら終わりですよ。
…ただ自信を持つのは別ですよ!
――結構ストイックですねぇ。
まだまだ合唱×ROCK「阿賀野川」のプロジェクトは続きますが、現段階で何を感じていますか?
ん~~~…。
(10秒沈黙)
とにかく、自分の音楽人生の中において、間違いなく強い印象を残すプロジェクトになりますねぇ。
音楽って本当に素晴らしいもので、音だけでも人を魅了して…。
それに言葉が乗っかるとさらに人を感動させることができる。
それを与える立場でもある僕たち演奏者って、何気に凄い位置にいるんだなって思いました。
CDのリリースとともに、皆さんの前で演奏できる日が待ち遠しいですね。
――では最後に、読者へ向けてメッセージをお願いします。
はい。
音楽って万国共通です。
原曲の合唱曲も万国共通、バンドアレンジされた合唱曲も万国共通。
この作品は地元の方々の恥にならないような作品になると思っています。
「ROCK」だから「うるさい」というナンセンスな考えは持たないでいただいて、この合唱×ROCK「阿賀野川」を聴いてもらえたら嬉しいです。
少しでも、町が活発になればと、心からそう思っています。
皆さんの前で演奏できる日を心待ちにしています。
和徳
1981年生まれ
新潟県新潟市中央区出身
Swallowtail*Queenbee ドラム担当
その他、サポートドラマーとして活動中
影響を受けた音楽はQueen、Red Hot Chili Peppers、Jamiroquai等と多彩
2011年12月30日金曜日
2011年12月27日火曜日
「大屋(旧姓 斎藤) 美智子 インタビュー(後編)」
昭和42年8月――。三川村を集中豪雨が襲い、死者、行方不明者合わせて18名を出した。
この羽越災害の体験をもとにして書かれた中学3年生の作文は、のちに合唱組曲「阿賀野川」誕生のきっかけとなる。
あれから40年以上もの月日が流れたが、当時のことは今でも“思い出したくない”と彼女は語る。
“それでも何かのお役に立てれば…”と、合唱組曲「阿賀野川」を歌うすべての人達へ伝えたいメッセージとは。
(後編)
<前編を読む>
命あることや、元気で生活することに感謝の気持ちを感じたら、何でもできそうな気がする。
――合唱組曲「阿賀野川」が三川中学校を中心として20年間歌い継がれてきたわけですが。
私はこの合唱曲を、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館(2004年8月)で初めて聴きました。
…なんて言ったらいかなぁ…、不思議な感覚…。
特に第三曲「羽越大災害」を聴いた瞬間、すぐ記憶が戻ってきて。
普段は水害のことなんて、全然忘れて暮らしているんですが。
“ああ、いい歌だな”というのとは違うんですね。
その時、歌ってる方々と実際体験した私の感覚とにはズレがある、と感じました。
他の曲はとても気持ちよく聴けますよ。
将軍杉の歌とか、子供達が口笛を吹いて歌う、ああいうのを聴くと“ああ嬉しいな、いいな”って思いますけど。
水害のストーリーに入ると、なんかこう、ハマってしまうと言うかね…。
この感情だけは勝手に沸いてくる。
三川中学校の体育館(2007年9月)で聴いた時も、妙な気持ちで聴いていましたね。
涙がボロボロ出てね。
でも生徒達が歌ってるのは本当に素敵でしたね。
あのカタチになるまでって、すごい練習をされたんでしょうね。
舞台から声を掛けられているような、優しい感じを受けました。
ふるさとが一緒ですけど、それだけで繋がっているような意識はありますね。
――今日は貴重な卒業アルバムも持ってきてくださったんですよね。
はい。こちらに写ってるのが…、私が作文で書いている板屋越 文子さんです。
三川中学校は、当時三つの中学が統合したもので、私達が実質第一回目の卒業生なんです。
彼女とは、統合してから1年も一緒にいれなかったけど…。
とても小柄で、髪がサラサラしてかわいい人でした。
こうして彼女のことを折に触れて話すのは、たった15年しか生きれなかった彼女のことを知ってもらいたい、思い出してもらいたい…。
そんなふうに思って時々話しはします。
私は彼女とクラスも違いましたし、親友だったわけではないんですが、同じ学校で学んだ友達としてね。
――「羽越大災害」や「悲歌」は、ぜひ文子さんのことを思って歌ってほしいですね。
そうですね。
命あることや、元気で生活することに感謝の気持ちを感じたら、何でもできそうな気がすると思ってもらえたらいいですね。
それで中学生に宛てた手紙に、亡くなった友達のことを書いていいのかどうかは迷ったんですけど。
15歳で彼女の人生は終わってしまいましたが、でも私は運よくそのまま生かしてもらってるから。
今の中学生にも、健康で命があれば素晴らしいことだ、と感じてもらえたら嬉しいなって。
この水害で亡くなった人も大勢いたんだよ、ってことを歌ってる時だけでも実感してもらいたいです。
そしたら、“僕達、こうやって元気で学校行けることってすごいんだ”って分かってもらえると思います。
軽い形でね。
重く受け止めなくてもいいかなーとは思いますね。
私が伝えたいのは水害の大変さよりも、こっちの方かな。
――今回、大屋さんの後輩にあたるミナガワトオルさんが、新しい「歌い継ぐカタチ」を企画されてますが。
今回のインタビューをお願いされたのもそうですけど、私は何かにつけてこの合唱組曲「阿賀野川」に関わるような感じになっています。
水害のことはいつも記憶の片隅にあるんだけど、どちらかと言えばこう…生々しく思い出さないように生きてきました。
ああいう体験をしたことは、忘れないけど…、やっぱり思い出したくないですね。
でもミナガワさんのように、羽越水害を風化させないようにとか、合唱曲の20周年を盛り上げたいとか思って活動されてて。
この「合唱×ROCK」が更に何年か経って、次にまた誰かが同じように感じて、次の時代にいろんなカタチで繋がれていくと思うと…。
とてもいいことなんじゃないでしょうかね。
この全部の歌(5曲)をCDにされるんでしょ?
まったく違う音楽になるんですね、凄いですね~。
過去に歌われてきた方々も、みんなまた気持ちがひとつになったりね。
CDが出来上がるのをみなさん楽しみにしてらっしゃるんでしょうね。
大屋(旧姓:斎藤) 美智子
1952年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
昭和42年度三川中学校卒業生
現在は新潟市中央区にて寿司屋を夫婦で営んでいる
この羽越災害の体験をもとにして書かれた中学3年生の作文は、のちに合唱組曲「阿賀野川」誕生のきっかけとなる。
あれから40年以上もの月日が流れたが、当時のことは今でも“思い出したくない”と彼女は語る。
“それでも何かのお役に立てれば…”と、合唱組曲「阿賀野川」を歌うすべての人達へ伝えたいメッセージとは。
(後編)
<前編を読む>
命あることや、元気で生活することに感謝の気持ちを感じたら、何でもできそうな気がする。
――合唱組曲「阿賀野川」が三川中学校を中心として20年間歌い継がれてきたわけですが。
私はこの合唱曲を、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館(2004年8月)で初めて聴きました。
…なんて言ったらいかなぁ…、不思議な感覚…。
特に第三曲「羽越大災害」を聴いた瞬間、すぐ記憶が戻ってきて。
普段は水害のことなんて、全然忘れて暮らしているんですが。
“ああ、いい歌だな”というのとは違うんですね。
その時、歌ってる方々と実際体験した私の感覚とにはズレがある、と感じました。
他の曲はとても気持ちよく聴けますよ。
将軍杉の歌とか、子供達が口笛を吹いて歌う、ああいうのを聴くと“ああ嬉しいな、いいな”って思いますけど。
水害のストーリーに入ると、なんかこう、ハマってしまうと言うかね…。
この感情だけは勝手に沸いてくる。
三川中学校の体育館(2007年9月)で聴いた時も、妙な気持ちで聴いていましたね。
涙がボロボロ出てね。
でも生徒達が歌ってるのは本当に素敵でしたね。
あのカタチになるまでって、すごい練習をされたんでしょうね。
舞台から声を掛けられているような、優しい感じを受けました。
ふるさとが一緒ですけど、それだけで繋がっているような意識はありますね。
――今日は貴重な卒業アルバムも持ってきてくださったんですよね。
はい。こちらに写ってるのが…、私が作文で書いている板屋越 文子さんです。
三川中学校は、当時三つの中学が統合したもので、私達が実質第一回目の卒業生なんです。
彼女とは、統合してから1年も一緒にいれなかったけど…。
とても小柄で、髪がサラサラしてかわいい人でした。
こうして彼女のことを折に触れて話すのは、たった15年しか生きれなかった彼女のことを知ってもらいたい、思い出してもらいたい…。
そんなふうに思って時々話しはします。
私は彼女とクラスも違いましたし、親友だったわけではないんですが、同じ学校で学んだ友達としてね。
――「羽越大災害」や「悲歌」は、ぜひ文子さんのことを思って歌ってほしいですね。
そうですね。
命あることや、元気で生活することに感謝の気持ちを感じたら、何でもできそうな気がすると思ってもらえたらいいですね。
それで中学生に宛てた手紙に、亡くなった友達のことを書いていいのかどうかは迷ったんですけど。
15歳で彼女の人生は終わってしまいましたが、でも私は運よくそのまま生かしてもらってるから。
今の中学生にも、健康で命があれば素晴らしいことだ、と感じてもらえたら嬉しいなって。
この水害で亡くなった人も大勢いたんだよ、ってことを歌ってる時だけでも実感してもらいたいです。
そしたら、“僕達、こうやって元気で学校行けることってすごいんだ”って分かってもらえると思います。
軽い形でね。
重く受け止めなくてもいいかなーとは思いますね。
私が伝えたいのは水害の大変さよりも、こっちの方かな。
――今回、大屋さんの後輩にあたるミナガワトオルさんが、新しい「歌い継ぐカタチ」を企画されてますが。
今回のインタビューをお願いされたのもそうですけど、私は何かにつけてこの合唱組曲「阿賀野川」に関わるような感じになっています。
水害のことはいつも記憶の片隅にあるんだけど、どちらかと言えばこう…生々しく思い出さないように生きてきました。
ああいう体験をしたことは、忘れないけど…、やっぱり思い出したくないですね。
でもミナガワさんのように、羽越水害を風化させないようにとか、合唱曲の20周年を盛り上げたいとか思って活動されてて。
この「合唱×ROCK」が更に何年か経って、次にまた誰かが同じように感じて、次の時代にいろんなカタチで繋がれていくと思うと…。
とてもいいことなんじゃないでしょうかね。
この全部の歌(5曲)をCDにされるんでしょ?
まったく違う音楽になるんですね、凄いですね~。
過去に歌われてきた方々も、みんなまた気持ちがひとつになったりね。
CDが出来上がるのをみなさん楽しみにしてらっしゃるんでしょうね。
大屋(旧姓:斎藤) 美智子
1952年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
昭和42年度三川中学校卒業生
現在は新潟市中央区にて寿司屋を夫婦で営んでいる
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2011年12月24日土曜日
「本間 茂子 インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」が初演された翌年に三川村混声合唱団(現阿賀野川混声合唱団)は結成された。
母なる阿賀野川のふもと、四季折々に変わるその姿に大自然の偉大さを感じながら、大切に歌い継いできたという。
去る12月4日、阿賀町みかわ会館で行われた演奏会の終了後に、団員からお話を伺うことができた。
音楽の輪が広がっていくのが合唱のいいところですね。
――阿賀野川混声合唱団に入るきっかけは何だったのですか?
「阿賀野川」を初めて聴いた時に、“この曲は私も歌うべきだ!”と思ったんですよね。
それぐらいの気持ちが直感的にありました。
あれは、“娘たちが歌うから聴きに来て”と妹に誘われて、一緒に行ったんですよ。
もうね、滂沱の涙…。
ほんっとに震えるぐらい感動しましたね。
中学生の声って、澄んだいい声でしょ。
それもあってなおさら曲の情景がスーッと入ってきました。
その後で妹が“私たちも合唱団を作ったのよ”と言ってて、それで存在を知りました。
羨ましくってね~。“いいなー、いいなー”って(笑)。
最初は、三川の人じゃないと入れないのかなー、と思ってたんですよ。
でも“いいんて、(住所なんか)どこでも!規約には書いてないんだから”と言ってくれて。
見学に行った初日にはすぐ楽譜を手渡されて、「紺碧の~♪」と歌ってましたね(笑)。
私は、徹くん(ミナガワトオル氏)が歌ってるのも聴いてるのよ。
あれはまだ徹くんが合唱団にいた頃か中学生の頃。
“すっごい楽しそうに歌ってる子がいるなぁ”と思って…。
後で聞いたんですけど、私の同級生の甥だったのねぇ。
――合唱団に入られて、印象に残ってる出来事などありますか?
そうねぇ、印象に残ってると言えば…。
当時指導してくださってた、小林先生の指揮!
なんかみんなを包み込むような…「さぁ、歌うよ、歌うよ」っていう、あの指揮ね。
あれにまたすごい感動して(笑)。
なので転勤される時はとても残念でした。
――楽しい合唱練習が目に浮かんできます。発表演奏での思い出はいかがですか?
2004年にりゅーとぴあで開催された「【阿賀野川】サミット」の時ですね。
この前の年に、私は大病をして…。
手術して生き返った(笑)その翌年だったんですよ!
なので、なおさら「歌える」ってことの幸せをものすごく感じて歌ってました。
病院のベッドで寝てる時、「阿賀野川」初演のCDを持っていったんですよ。
それで、大竹先生(当時の三川中学校長)の声を聴いて、“あぁ~(りゅーとぴあで)大竹先生に会える~”とか(笑)。
中学生の歌声を聴いて、“あぁ、この歌をまたみんなで歌える~”って思って。
ベッドの上ですっごい励まされました。
だから病院ではずっと「阿賀野川」のCDを聴いてましたね。
屋上行って歌ったりもしてましたよ(笑)
《 発表演奏会の様子(12月4日 阿賀町みかわ会館) 》
――羽越水害のことは覚えていらっしゃいますか?
私は高校3年生だったんですよ。
とにかく8月28日から雨がすごくって、明治生まれの祖母が“この雨はただ事じゃない!”と言って。
ご飯を釜にとっつら(たくさん)炊いて、荷物は全部高い所に運びました。
叔母の家が高台にあったので、小さい子はみんなそこへ避難してました。
地鳴りの音が聞こえてくるし、(夜だから)暗くて見えないでしょ。
不気味でした…。
あの時、住人は阿賀野川の本流から水が上がってくると思って警戒してたんですよね。
だから避難するのは低い土地に住んでる人ばかりで、沢沿いや山に近い家の人は何も準備なんかしていなかった。
まさか山から土砂が雪崩のように襲ってくるなんてねぇ…。
こういった恐ろしい水害をテーマにした第三曲の「羽越大災害」なんかは、とても軽い気持ちでは歌えませんね。
――重いテーマですねぇ。
さて、本日(12月4日)の発表会では、合唱組曲「阿賀野川」以外にもたくさんの曲を聴かせていただきました。
終わってみて、いかがでしたか?
楽しかったぁ!
今日は演出係だったんです。
さらに衣裳係も兼任でって言われましたけど、さすがに手が回らないので、別の人にお願いして(笑)。
今回のステージの流れとか、アナウンスの原稿書いたりとか。
演奏曲の曲順も(指導者の)和久井先生と相談しながら考えました。
和久井先生が“今回はどんな感じ(コンセプト)でいきますか?”っておっしゃるので、“私はいつも「鄙(ひな)には稀(まれ)な」って言われるような合唱をやりたいんです!”って。
私たちの合唱団は特に協会などに入ってるわけでもないし、ほとんど阿賀町だけで活動してますでしょ。
でも、「学芸会」として観られたくないし(笑)、「オバサン」にも観られたくないし(笑)。
やっぱり、「鄙には稀な」って言われるような、スッと立ち姿のいいような合唱を、サラッとやりたいなっていうのがありましたね~。
――とっても素敵でした。みなさんキラキラ輝いてましたよ!
先生がいつも、目の前にニンジンをぶら下げてくださって(笑)。
ちょっとニンジンに近づいたかなって思うと、また遠くに持ってくので(笑)、練習が楽しいですね。
ひとつ課題をクリアすると、すぐ次の課題を与えてくださるから、すごい嬉しい。
この歳になってね、教えていただいて何かをやるってことは、幸せですよ。
仲間もいっぱいできるしね。
音楽の輪が広がっていくのが合唱のいいところですね。
――本間さんにとって、阿賀野川とは何でしょう?
阿賀野川は「母なる川」です。
河原で遊んで石拾いして(笑)、泳いで、魚も捕まえたしね。
阿賀野川に育てられたようなものです。
――本日はお疲れのところ、ご協力ありがとうございました。
本間 茂子
1949年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
高校3年生のときに羽越水害を体験
1996年三川村混声合唱団(現阿賀野川混声合唱団)に加入
パート:アルト
母なる阿賀野川のふもと、四季折々に変わるその姿に大自然の偉大さを感じながら、大切に歌い継いできたという。
去る12月4日、阿賀町みかわ会館で行われた演奏会の終了後に、団員からお話を伺うことができた。
音楽の輪が広がっていくのが合唱のいいところですね。
――阿賀野川混声合唱団に入るきっかけは何だったのですか?
「阿賀野川」を初めて聴いた時に、“この曲は私も歌うべきだ!”と思ったんですよね。
それぐらいの気持ちが直感的にありました。
あれは、“娘たちが歌うから聴きに来て”と妹に誘われて、一緒に行ったんですよ。
もうね、滂沱の涙…。
ほんっとに震えるぐらい感動しましたね。
中学生の声って、澄んだいい声でしょ。
それもあってなおさら曲の情景がスーッと入ってきました。
その後で妹が“私たちも合唱団を作ったのよ”と言ってて、それで存在を知りました。
羨ましくってね~。“いいなー、いいなー”って(笑)。
最初は、三川の人じゃないと入れないのかなー、と思ってたんですよ。
でも“いいんて、(住所なんか)どこでも!規約には書いてないんだから”と言ってくれて。
見学に行った初日にはすぐ楽譜を手渡されて、「紺碧の~♪」と歌ってましたね(笑)。
私は、徹くん(ミナガワトオル氏)が歌ってるのも聴いてるのよ。
あれはまだ徹くんが合唱団にいた頃か中学生の頃。
“すっごい楽しそうに歌ってる子がいるなぁ”と思って…。
後で聞いたんですけど、私の同級生の甥だったのねぇ。
――合唱団に入られて、印象に残ってる出来事などありますか?
そうねぇ、印象に残ってると言えば…。
当時指導してくださってた、小林先生の指揮!
なんかみんなを包み込むような…「さぁ、歌うよ、歌うよ」っていう、あの指揮ね。
あれにまたすごい感動して(笑)。
なので転勤される時はとても残念でした。
――楽しい合唱練習が目に浮かんできます。発表演奏での思い出はいかがですか?
2004年にりゅーとぴあで開催された「【阿賀野川】サミット」の時ですね。
この前の年に、私は大病をして…。
手術して生き返った(笑)その翌年だったんですよ!
なので、なおさら「歌える」ってことの幸せをものすごく感じて歌ってました。
病院のベッドで寝てる時、「阿賀野川」初演のCDを持っていったんですよ。
それで、大竹先生(当時の三川中学校長)の声を聴いて、“あぁ~(りゅーとぴあで)大竹先生に会える~”とか(笑)。
中学生の歌声を聴いて、“あぁ、この歌をまたみんなで歌える~”って思って。
ベッドの上ですっごい励まされました。
だから病院ではずっと「阿賀野川」のCDを聴いてましたね。
屋上行って歌ったりもしてましたよ(笑)
《 発表演奏会の様子(12月4日 阿賀町みかわ会館) 》
――羽越水害のことは覚えていらっしゃいますか?
私は高校3年生だったんですよ。
とにかく8月28日から雨がすごくって、明治生まれの祖母が“この雨はただ事じゃない!”と言って。
ご飯を釜にとっつら(たくさん)炊いて、荷物は全部高い所に運びました。
叔母の家が高台にあったので、小さい子はみんなそこへ避難してました。
地鳴りの音が聞こえてくるし、(夜だから)暗くて見えないでしょ。
不気味でした…。
あの時、住人は阿賀野川の本流から水が上がってくると思って警戒してたんですよね。
だから避難するのは低い土地に住んでる人ばかりで、沢沿いや山に近い家の人は何も準備なんかしていなかった。
まさか山から土砂が雪崩のように襲ってくるなんてねぇ…。
こういった恐ろしい水害をテーマにした第三曲の「羽越大災害」なんかは、とても軽い気持ちでは歌えませんね。
――重いテーマですねぇ。
さて、本日(12月4日)の発表会では、合唱組曲「阿賀野川」以外にもたくさんの曲を聴かせていただきました。
終わってみて、いかがでしたか?
楽しかったぁ!
今日は演出係だったんです。
さらに衣裳係も兼任でって言われましたけど、さすがに手が回らないので、別の人にお願いして(笑)。
今回のステージの流れとか、アナウンスの原稿書いたりとか。
演奏曲の曲順も(指導者の)和久井先生と相談しながら考えました。
和久井先生が“今回はどんな感じ(コンセプト)でいきますか?”っておっしゃるので、“私はいつも「鄙(ひな)には稀(まれ)な」って言われるような合唱をやりたいんです!”って。
私たちの合唱団は特に協会などに入ってるわけでもないし、ほとんど阿賀町だけで活動してますでしょ。
でも、「学芸会」として観られたくないし(笑)、「オバサン」にも観られたくないし(笑)。
やっぱり、「鄙には稀な」って言われるような、スッと立ち姿のいいような合唱を、サラッとやりたいなっていうのがありましたね~。
――とっても素敵でした。みなさんキラキラ輝いてましたよ!
先生がいつも、目の前にニンジンをぶら下げてくださって(笑)。
ちょっとニンジンに近づいたかなって思うと、また遠くに持ってくので(笑)、練習が楽しいですね。
ひとつ課題をクリアすると、すぐ次の課題を与えてくださるから、すごい嬉しい。
この歳になってね、教えていただいて何かをやるってことは、幸せですよ。
仲間もいっぱいできるしね。
音楽の輪が広がっていくのが合唱のいいところですね。
――本間さんにとって、阿賀野川とは何でしょう?
阿賀野川は「母なる川」です。
河原で遊んで石拾いして(笑)、泳いで、魚も捕まえたしね。
阿賀野川に育てられたようなものです。
――本日はお疲れのところ、ご協力ありがとうございました。
本間 茂子
1949年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
高校3年生のときに羽越水害を体験
1996年三川村混声合唱団(現阿賀野川混声合唱団)に加入
パート:アルト
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2011年12月20日火曜日
「第20回 合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会 メッセージボードより Part3」
平成23年10月22日、阿賀町文化福祉会館にて「合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会」が開かれた。
記念すべき第20回目となる今年のスローガンは、「届けよう 希望の歌 ~20年分の思いとともに~」。
三川中学校の生徒達は、昭和42年三川村に甚大な被害をもたらした羽越水害の悲しみや復興への希望を、今年7月の新潟・福島豪雨と重ね合わせていた。
当日、会場入り口に設置された生徒達直筆によるメッセージボードから、その言葉の一部を紹介する。
今年の合唱組曲阿賀野川を歌い継ぐ会は、第20回をむかえました。
しかも、今年は夏にあった「新潟・福島豪雨」があり、この三川も大きな被害を受けました。
でもこの被害を乗り越えて行けると思います。
心をこめて一生懸命に歌いたいと思います。
(3年生男子生徒)
今年の歌いつぐ会は、第20回という記念の会です。
今まで私達の先輩方が本気になって歌いついできた5曲の歌を全員で、心をこめて聴いてくださるすべての皆様に感動していただけるよう歌います!!
ぜひ聴いてください。
(3年生女子生徒)
記念すべき第20回目となる今年のスローガンは、「届けよう 希望の歌 ~20年分の思いとともに~」。
三川中学校の生徒達は、昭和42年三川村に甚大な被害をもたらした羽越水害の悲しみや復興への希望を、今年7月の新潟・福島豪雨と重ね合わせていた。
当日、会場入り口に設置された生徒達直筆によるメッセージボードから、その言葉の一部を紹介する。
今年の合唱組曲阿賀野川を歌い継ぐ会は、第20回をむかえました。
しかも、今年は夏にあった「新潟・福島豪雨」があり、この三川も大きな被害を受けました。
でもこの被害を乗り越えて行けると思います。
心をこめて一生懸命に歌いたいと思います。
(3年生男子生徒)
今年の歌いつぐ会は、第20回という記念の会です。
今まで私達の先輩方が本気になって歌いついできた5曲の歌を全員で、心をこめて聴いてくださるすべての皆様に感動していただけるよう歌います!!
ぜひ聴いてください。
(3年生女子生徒)
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2011年12月16日金曜日
「清野 和也 インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――まず、「阿賀野川」との出会いを教えてください。
はい。中学1年生になるとすぐに合唱曲の存在を知りました。
音楽の授業の時に、あの緑の分厚い楽譜が配られたのを覚えてます。
“これからどんな曲を歌っていくのだろう…。”という不安があったかな、最初は。
――なるほど不安ですか。でも清野さんの出身小学校では、合唱が盛んだったとお聞きしたのですが。
そうですね。
確かに郡の合唱コンクールでも、アカペラで歌う小学校なんてのは珍しかったですね。
僕らの頃は、「君をのせて」という「天空の城 ラピュタ」の曲を歌いました。
宮崎アニメが好きだったので、一生懸命練習しましたね。
だから、小学校でそこまでやってた分、熱心な気持ちもあったのかもしれませんが、やっぱり不安の方が大きかったですね。
“ホントにこの楽譜で5曲もやるの?”っていう。
やっと1曲歌えるようになるまでも、苦労しましたからね~。
――授業ではどんな思い出がありますか?
先生の怒鳴り声!(笑)
1年生の頃は先生が厳しかった、という記憶しかないですね。
2、3年生になると先生も変わって、また教え方も違ったわけですけど。
とにかく1年生の時の印象が強いです。
“怒られないように…”ってみんな頑張ってるんだけど、なかなか上手く歌えなかったりして。
先生が怖かったですね。
――20年間歌い継がれてきたことについては、どのように感じますか?
三川村は新潟の中でも小さい村でしたけど…。
その中で20年間も、同じ歌が後輩たちに受け継がれているっていうのは、やっぱり僕たちにとっても誇りに思うし、嬉しく思っています。
僕は中学生の頃、合唱団に在籍していたこともあるんです。
でも高校へ通うとなかなか続けられなくて、一時期遠ざかるんですが。
2004年、新潟市のりゅーとぴあで開催された「【阿賀野川】コーラスサミット2004」に、仕事で関わる事になって。
約10年ぶりぐらいに「阿賀野川」を聴いて、とても懐かしい気持ちになりました。
りゅーとぴあのような大きな会場で、三川村の合唱団が歌ってることには、当時感激しましたよ。
――思い入れが特に強い曲はありますか?
第三曲の「羽越大災害」です。
昭和42年の水害の様子を、歌で表現するのは非常に難しいことでした。
また、曲のテンポ(速さ)も極端に速くなったり、遅くなったりして、なかなか上手に表現ができなかった。
曲自体も決して明るい歌ではないんだけれど、僕は「水害のことを風化させたくない」という気持ちで歌ってましたね~。
――阿賀町の魅力を教えてください。
春は山菜がおいしいですし、夏は川遊び。魚獲ったりね。
そして秋は美味しいお米やきのこ、冬は三川スキー場ですね!
このように四季の楽しみが一年中味わえる町ってことです。
――清野さんにとって阿賀野川とは何でしょう?
組曲の最後は「光にむかって」という明るい歌で締めくくっています。
水害の後でも村人が一致団結して、苦難を乗り越えてきたわけですよね。
阿賀野川は、その当時の人々の強い気持ちを感じさせてくれる川ですね、僕にとっては。
一言で言えば「希望」でしょうかねぇ。
――合唱×ROCK「阿賀野川」のプロジェクトについてはいかがですか?
ホントに合唱とROCKってまったくかけ離れていますよね。
合唱と言えば、結構固い歌ってイメージですけど、それがどんなふうにROCKと混ざるのか。
果たしてどんな曲になるのか、好奇心でいっぱいです。
ぜひ早く聴いてみたいと思っています。
大変でしょうけど、頑張ってください。
清野 和也
1979年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成6年度三川中学校卒業生
パート:バス
阿賀町役場 三川支所 三川地域振興課
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――まず、「阿賀野川」との出会いを教えてください。
はい。中学1年生になるとすぐに合唱曲の存在を知りました。
音楽の授業の時に、あの緑の分厚い楽譜が配られたのを覚えてます。
“これからどんな曲を歌っていくのだろう…。”という不安があったかな、最初は。
――なるほど不安ですか。でも清野さんの出身小学校では、合唱が盛んだったとお聞きしたのですが。
そうですね。
確かに郡の合唱コンクールでも、アカペラで歌う小学校なんてのは珍しかったですね。
僕らの頃は、「君をのせて」という「天空の城 ラピュタ」の曲を歌いました。
宮崎アニメが好きだったので、一生懸命練習しましたね。
だから、小学校でそこまでやってた分、熱心な気持ちもあったのかもしれませんが、やっぱり不安の方が大きかったですね。
“ホントにこの楽譜で5曲もやるの?”っていう。
やっと1曲歌えるようになるまでも、苦労しましたからね~。
――授業ではどんな思い出がありますか?
先生の怒鳴り声!(笑)
1年生の頃は先生が厳しかった、という記憶しかないですね。
2、3年生になると先生も変わって、また教え方も違ったわけですけど。
とにかく1年生の時の印象が強いです。
“怒られないように…”ってみんな頑張ってるんだけど、なかなか上手く歌えなかったりして。
先生が怖かったですね。
――20年間歌い継がれてきたことについては、どのように感じますか?
三川村は新潟の中でも小さい村でしたけど…。
その中で20年間も、同じ歌が後輩たちに受け継がれているっていうのは、やっぱり僕たちにとっても誇りに思うし、嬉しく思っています。
僕は中学生の頃、合唱団に在籍していたこともあるんです。
でも高校へ通うとなかなか続けられなくて、一時期遠ざかるんですが。
2004年、新潟市のりゅーとぴあで開催された「【阿賀野川】コーラスサミット2004」に、仕事で関わる事になって。
約10年ぶりぐらいに「阿賀野川」を聴いて、とても懐かしい気持ちになりました。
りゅーとぴあのような大きな会場で、三川村の合唱団が歌ってることには、当時感激しましたよ。
――思い入れが特に強い曲はありますか?
第三曲の「羽越大災害」です。
昭和42年の水害の様子を、歌で表現するのは非常に難しいことでした。
また、曲のテンポ(速さ)も極端に速くなったり、遅くなったりして、なかなか上手に表現ができなかった。
曲自体も決して明るい歌ではないんだけれど、僕は「水害のことを風化させたくない」という気持ちで歌ってましたね~。
――阿賀町の魅力を教えてください。
春は山菜がおいしいですし、夏は川遊び。魚獲ったりね。
そして秋は美味しいお米やきのこ、冬は三川スキー場ですね!
このように四季の楽しみが一年中味わえる町ってことです。
――清野さんにとって阿賀野川とは何でしょう?
組曲の最後は「光にむかって」という明るい歌で締めくくっています。
水害の後でも村人が一致団結して、苦難を乗り越えてきたわけですよね。
阿賀野川は、その当時の人々の強い気持ちを感じさせてくれる川ですね、僕にとっては。
一言で言えば「希望」でしょうかねぇ。
――合唱×ROCK「阿賀野川」のプロジェクトについてはいかがですか?
ホントに合唱とROCKってまったくかけ離れていますよね。
合唱と言えば、結構固い歌ってイメージですけど、それがどんなふうにROCKと混ざるのか。
果たしてどんな曲になるのか、好奇心でいっぱいです。
ぜひ早く聴いてみたいと思っています。
大変でしょうけど、頑張ってください。
清野 和也
1979年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成6年度三川中学校卒業生
パート:バス
阿賀町役場 三川支所 三川地域振興課
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2011年12月14日水曜日
「復興記念碑・慰霊碑」
「羽越水害復興記念碑」
昭和42年8月28日夜半から29日未明にかけて、日本海中部の低気圧からのびる前線が北陸を通り、関東北部で活発に活動した。
新潟県東蒲原郡三川村(現阿賀町)では400ミリを超える記録的な集中豪雨によって未曾有の大災害となり、死者、行方不明者18名、家屋の流出全半壊82戸、農地の流失埋没1は17ヘクタールに及んだ。
災害後全村民は一丸となって復興に立ち上がり、国、県をはじめとする力添えを得ながら、昭和42年10月に災害復旧事業を開始。
以来3年5ヶ月の歳月と41億9千万円の巨費を投じて復旧事業は完成した。
三川村綱木地区では災害復旧を記念して、昭和46年8月に復興記念碑を建立した。
《 復興記念碑 》
所在地:新潟県東蒲原郡阿賀町綱木 Google マップ
建立者/三川村綱木部落民一同
建立年/昭和46年8月
[表面]
羽越水害復興記念碑
三川村長 徳田 君三郎 書
[裏面]
昭和四十二年八月二十八日夜半来の集中豪雨は翌二十九日未明四百ミリを超える雨量となり綱木川は山腹崩壊による土石流が鉄砲水となって部落を襲った山くづれによる倒壊家屋三戸全壊流出七戸半壊十一戸床上浸水四十二戸を数え耕地の殆どが冠水し流失埋没二十町歩に達し道路の欠壊橋梁の流出により交通通信は全く途絶する大災害となった村を拳げて復興にあたること四ヶ年余の歳月を費し道路河川 農地農業用施設等の災害復旧工事が完成されたことを記念し部落民一同の浄財により昭和四十六年八月この碑を建立した
「羽越水害慰霊碑」
最も犠牲者の多かった石間地区では、上の沢川と下の沢川に護岸工事が行われた。
また、上流には砂防ダム2基も設けられた。
これを機に、羽越水害で亡くなった18名の霊を弔う慰霊碑を建立。
《 慰霊碑 》
所在地:新潟県東蒲原郡阿賀町石間 Google マップ
建立者/三川村
建立年/昭和46年9月
[表面]
慰霊碑
新潟県知事 亘 四郎
[裏面]
昭和四十二年八月二十八日県北部に発生した集中豪雨による羽越水害は、翌二十九日未明山地に大崩壊を起こし渓流は暗黒の土石流となり次の十八名の人命を奪い村政史上かつてない大災害となった
石間
板屋越 一男
一美
文子
一子
静江
さとみ
山口 赤松
ハツ工
藤子
潔
石井 政美
益江
久美子
神田 和喜知
細越
長谷川 政夫
シュン
上島
神田 与太郎
神田 レン
災害復旧事業の完成を機に、ここに亡き霊を弔い大自然の与えた戒しめを永く後世に伝えるため水害の際に押し出された自然石を用いこの碑を建立する
昭和四十六年九月
三川村長 徳田 君三郎
昭和42年8月28日夜半から29日未明にかけて、日本海中部の低気圧からのびる前線が北陸を通り、関東北部で活発に活動した。
新潟県東蒲原郡三川村(現阿賀町)では400ミリを超える記録的な集中豪雨によって未曾有の大災害となり、死者、行方不明者18名、家屋の流出全半壊82戸、農地の流失埋没1は17ヘクタールに及んだ。
災害後全村民は一丸となって復興に立ち上がり、国、県をはじめとする力添えを得ながら、昭和42年10月に災害復旧事業を開始。
以来3年5ヶ月の歳月と41億9千万円の巨費を投じて復旧事業は完成した。
三川村綱木地区では災害復旧を記念して、昭和46年8月に復興記念碑を建立した。
《 復興記念碑 》
所在地:新潟県東蒲原郡阿賀町綱木 Google マップ
建立者/三川村綱木部落民一同
建立年/昭和46年8月
[表面]
羽越水害復興記念碑
三川村長 徳田 君三郎 書
[裏面]
昭和四十二年八月二十八日夜半来の集中豪雨は翌二十九日未明四百ミリを超える雨量となり綱木川は山腹崩壊による土石流が鉄砲水となって部落を襲った山くづれによる倒壊家屋三戸全壊流出七戸半壊十一戸床上浸水四十二戸を数え耕地の殆どが冠水し流失埋没二十町歩に達し道路の欠壊橋梁の流出により交通通信は全く途絶する大災害となった村を拳げて復興にあたること四ヶ年余の歳月を費し道路河川 農地農業用施設等の災害復旧工事が完成されたことを記念し部落民一同の浄財により昭和四十六年八月この碑を建立した
「羽越水害慰霊碑」
最も犠牲者の多かった石間地区では、上の沢川と下の沢川に護岸工事が行われた。
また、上流には砂防ダム2基も設けられた。
これを機に、羽越水害で亡くなった18名の霊を弔う慰霊碑を建立。
《 慰霊碑 》
所在地:新潟県東蒲原郡阿賀町石間 Google マップ
建立者/三川村
建立年/昭和46年9月
[表面]
慰霊碑
新潟県知事 亘 四郎
[裏面]
昭和四十二年八月二十八日県北部に発生した集中豪雨による羽越水害は、翌二十九日未明山地に大崩壊を起こし渓流は暗黒の土石流となり次の十八名の人命を奪い村政史上かつてない大災害となった
石間
板屋越 一男
一美
文子
一子
静江
さとみ
山口 赤松
ハツ工
藤子
潔
石井 政美
益江
久美子
神田 和喜知
細越
長谷川 政夫
シュン
上島
神田 与太郎
神田 レン
災害復旧事業の完成を機に、ここに亡き霊を弔い大自然の与えた戒しめを永く後世に伝えるため水害の際に押し出された自然石を用いこの碑を建立する
昭和四十六年九月
三川村長 徳田 君三郎
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2011年12月11日日曜日
「大屋(旧姓:斎藤) 美智子 インタビュー(前編)」
昭和42年8月――。三川村を集中豪雨が襲い、死者、行方不明者合わせて18名を出した。
この羽越災害の体験をもとにして書かれた中学3年生の作文は、のちに合唱組曲「阿賀野川」誕生のきっかけとなる。
あれから40年以上もの月日が流れたが、当時のことは今でも“思い出したくない”と彼女は語る。
“それでも何かのお役に立てれば…”と、合唱組曲「阿賀野川」を歌うすべての人達へ伝えたいメッセージとは。
(前編)
まったく人間の力が及ばない自然災害に対しては、人は何も反撃もできないし、受け入れるしかないんですね。
――大屋さんが中学3年生の頃に書かれた作文「思い出したくない」が、合唱組曲「阿賀野川」誕生のきっかけになったそうですが。
そうなんですってね。
2004年にこの曲を初めて聴くまで、そのことは知りませんでした(笑)。
でも、新聞か何かでその詩を読んだことはありましたよ。
一度紹介されてるんですよね。
初演発表会の頃じゃなかったでしょうか。
“なんで、私と似たような体験した人がいるんだろう、同じ言葉がここにあるんだろう”って思ってました。
その時、作文を書いたことなんて忘れてましたからね。
まだ水害から何ヶ月も経ってなかったけど、授業が始まってすぐ書かせられたんです。
他のみんなは違うことを書いてたみたいでしたね。
水害後、学校が休みになってた間のこととか。
私は、水害の日のことを書けと言われたと思ったんでしょうね。
“こんな辛いことを書かせる先生はおかしい!”って思いながらも書いたんです。
そしたら、“あの夜のことを作文に書いたのは斎藤だけだから、みんなの前で読んでくれ”って担任の先生が言うんです。
何とか読もうと思って、立ったんだけど読めませんでした。
“先生なんか信じらんない!!”みたいな暴言吐きながら、泣いて教室を飛び出しました(笑)。
でも、その作文が文集として今も三川中学校にずっと残ってるなんて、驚きましたね。
――2008年には、合唱組曲を歌い継いでいる三川中学校の生徒さんに宛ててお手紙も書かれていますよね。
はい。私が田舎へ帰った時に、従兄弟の子供達がちょうど中学生で。
“歌ってるんだけど、ちっともわからない”って話してたんですよ。
実体験があるわけでもないし、詩の捉え方や感覚が難しくって歌いづらいと。
私が15歳の時書いた作文を、生徒みんなが読んでるわけでもないしね。
だから掻い摘んででもいいから、水害の状況と、“生きてるだけで幸せなんだ”ってこと。
それをわかってくれたらなぁと思ったら、手紙を書かずにはいられなくて…。
後でまとめようとも思ったんですけど、今歌ってる中学生達に、早く読んでもらいたいという気持ちで書きました。
――水害を体験したことのない世代にしてみれば、第三曲「羽越大災害」の詩はショックですよね。
8月の28日から29日の明け方でしたね。
夏休みの終わりが近付いて、もうすぐ学校だっていう頃。
ただあまりにも強い雨が、毎日毎日降り続いてました。
私の家のすぐ裏を流れている新谷川は、現在と違って昔はもっと狭い川でしたが、橋の上を越えて流れていました。
消防団が川を挟んで二手に分かれ、避難誘導をしてました。
火の見やぐらに上って半鐘を鳴らしてたのは、私の叔父です。
一番高いところだから、川に流されてる人が見え隠れしてたそうです。
“凄まじかった”って言ってましたね。
火の見やぐらに上ったっきり、水流がものすごくて揺れるから降りれなくなって。
今度こっち側に揺れたら竹やぶに飛び移ろう、今度こっち側に揺れたら落ちるかもしれない、と必死だったそうです。
ただもう半鐘は鳴らし続けたって言ってました。
私の記憶でも、その半鐘が鳴って鳴って…。
ずっと鳴ってたことが焼き付いてますね。
もう村中が川でした…。
――水害の後はどのように暮らしてたのですか?
当時は毎日ただ暮らすのに夢中でね。
復旧作業をしている時の方が、気は紛れていました。
ひと月くらい経って落ち着いてくると、自分の家に戻ったり、親戚の家に寄せてもらったりする人が徐々にそこを離れていくんです。
なんだか急に寂しくなりましたね。
私は友達とみんなで、小学校のグラウンドにできたプレハブに住みたかった。
学校が終わっても隣に住んでる友達と会えて気も紛れると思ってたんです。
でも、父親が“そこには行かない”と言った時は、残念だったように覚えてます。
今思えば、個人のプライバシーはなかなか守れないし、大変なストレスになったかもしれませんね。
私の家族は、村のはずれにある物置き小屋に住みました。
外にトタンを貼って、中にお風呂を作って…。
夏は星が見えて、冬は雪が入ってきて…。
そんな生活でした。
屋根の隙間から蜂が入ってきて刺されたりしたこともありましたよ。
冬は寒くて、布団の縁なんか凍みてね。
不思議な経験ですね…。
――中学生にはとても辛い生活だったでしょうね。
こういう話は、もう40年も経って話すから“凄かったなぁ”って思うけど、その時は全部受け入れてたんでしょうね。
辛いとか感じませんでしたからね。
まったく人間の力が及ばない自然災害に対しては、人は何も反撃もできないし、受け入れるしかないんですね。
テレビなんか観てても、3月の地震、津波で皆さん大変な思いをされてますけど、船に乗ってた方は“また船に乗る”って言うし、“海を恨めない”って言ってた方もいましたね。
私、その意味がとてもよくわかります。
人ってなんて優しいんだろうなぁって…。
自然に対しては何も恨みや辛みを言わないですよね。
この自然の猛威を、受け入れて前へ進むって言うか…。
凄いことなんでね、何も無くなっちゃうって…。
ああまで何も無くなっちゃうと、あまりにも凄過ぎて普段の愚痴すら出なくなるんです。
ずっと住んでたところが、朝行ったら河原になってた…。
そうなると、もう欲なんて何も出ないですね。
“ああ、こうやって手足あって生きてるだけでありがたい”と…。
<後編を読む>
大屋(旧姓:斎藤) 美智子
1952年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
昭和42年度三川中学校卒業生
現在は新潟市中央区にて寿司屋を夫婦で営んでいる
この羽越災害の体験をもとにして書かれた中学3年生の作文は、のちに合唱組曲「阿賀野川」誕生のきっかけとなる。
あれから40年以上もの月日が流れたが、当時のことは今でも“思い出したくない”と彼女は語る。
“それでも何かのお役に立てれば…”と、合唱組曲「阿賀野川」を歌うすべての人達へ伝えたいメッセージとは。
(前編)
まったく人間の力が及ばない自然災害に対しては、人は何も反撃もできないし、受け入れるしかないんですね。
――大屋さんが中学3年生の頃に書かれた作文「思い出したくない」が、合唱組曲「阿賀野川」誕生のきっかけになったそうですが。
そうなんですってね。
2004年にこの曲を初めて聴くまで、そのことは知りませんでした(笑)。
でも、新聞か何かでその詩を読んだことはありましたよ。
一度紹介されてるんですよね。
初演発表会の頃じゃなかったでしょうか。
“なんで、私と似たような体験した人がいるんだろう、同じ言葉がここにあるんだろう”って思ってました。
その時、作文を書いたことなんて忘れてましたからね。
まだ水害から何ヶ月も経ってなかったけど、授業が始まってすぐ書かせられたんです。
他のみんなは違うことを書いてたみたいでしたね。
水害後、学校が休みになってた間のこととか。
私は、水害の日のことを書けと言われたと思ったんでしょうね。
“こんな辛いことを書かせる先生はおかしい!”って思いながらも書いたんです。
そしたら、“あの夜のことを作文に書いたのは斎藤だけだから、みんなの前で読んでくれ”って担任の先生が言うんです。
何とか読もうと思って、立ったんだけど読めませんでした。
“先生なんか信じらんない!!”みたいな暴言吐きながら、泣いて教室を飛び出しました(笑)。
でも、その作文が文集として今も三川中学校にずっと残ってるなんて、驚きましたね。
――2008年には、合唱組曲を歌い継いでいる三川中学校の生徒さんに宛ててお手紙も書かれていますよね。
はい。私が田舎へ帰った時に、従兄弟の子供達がちょうど中学生で。
“歌ってるんだけど、ちっともわからない”って話してたんですよ。
実体験があるわけでもないし、詩の捉え方や感覚が難しくって歌いづらいと。
私が15歳の時書いた作文を、生徒みんなが読んでるわけでもないしね。
だから掻い摘んででもいいから、水害の状況と、“生きてるだけで幸せなんだ”ってこと。
それをわかってくれたらなぁと思ったら、手紙を書かずにはいられなくて…。
後でまとめようとも思ったんですけど、今歌ってる中学生達に、早く読んでもらいたいという気持ちで書きました。
――水害を体験したことのない世代にしてみれば、第三曲「羽越大災害」の詩はショックですよね。
8月の28日から29日の明け方でしたね。
夏休みの終わりが近付いて、もうすぐ学校だっていう頃。
ただあまりにも強い雨が、毎日毎日降り続いてました。
私の家のすぐ裏を流れている新谷川は、現在と違って昔はもっと狭い川でしたが、橋の上を越えて流れていました。
消防団が川を挟んで二手に分かれ、避難誘導をしてました。
火の見やぐらに上って半鐘を鳴らしてたのは、私の叔父です。
一番高いところだから、川に流されてる人が見え隠れしてたそうです。
“凄まじかった”って言ってましたね。
火の見やぐらに上ったっきり、水流がものすごくて揺れるから降りれなくなって。
今度こっち側に揺れたら竹やぶに飛び移ろう、今度こっち側に揺れたら落ちるかもしれない、と必死だったそうです。
ただもう半鐘は鳴らし続けたって言ってました。
私の記憶でも、その半鐘が鳴って鳴って…。
ずっと鳴ってたことが焼き付いてますね。
もう村中が川でした…。
――水害の後はどのように暮らしてたのですか?
当時は毎日ただ暮らすのに夢中でね。
復旧作業をしている時の方が、気は紛れていました。
ひと月くらい経って落ち着いてくると、自分の家に戻ったり、親戚の家に寄せてもらったりする人が徐々にそこを離れていくんです。
なんだか急に寂しくなりましたね。
私は友達とみんなで、小学校のグラウンドにできたプレハブに住みたかった。
学校が終わっても隣に住んでる友達と会えて気も紛れると思ってたんです。
でも、父親が“そこには行かない”と言った時は、残念だったように覚えてます。
今思えば、個人のプライバシーはなかなか守れないし、大変なストレスになったかもしれませんね。
私の家族は、村のはずれにある物置き小屋に住みました。
外にトタンを貼って、中にお風呂を作って…。
夏は星が見えて、冬は雪が入ってきて…。
そんな生活でした。
屋根の隙間から蜂が入ってきて刺されたりしたこともありましたよ。
冬は寒くて、布団の縁なんか凍みてね。
不思議な経験ですね…。
――中学生にはとても辛い生活だったでしょうね。
こういう話は、もう40年も経って話すから“凄かったなぁ”って思うけど、その時は全部受け入れてたんでしょうね。
辛いとか感じませんでしたからね。
まったく人間の力が及ばない自然災害に対しては、人は何も反撃もできないし、受け入れるしかないんですね。
テレビなんか観てても、3月の地震、津波で皆さん大変な思いをされてますけど、船に乗ってた方は“また船に乗る”って言うし、“海を恨めない”って言ってた方もいましたね。
私、その意味がとてもよくわかります。
人ってなんて優しいんだろうなぁって…。
自然に対しては何も恨みや辛みを言わないですよね。
この自然の猛威を、受け入れて前へ進むって言うか…。
凄いことなんでね、何も無くなっちゃうって…。
ああまで何も無くなっちゃうと、あまりにも凄過ぎて普段の愚痴すら出なくなるんです。
ずっと住んでたところが、朝行ったら河原になってた…。
そうなると、もう欲なんて何も出ないですね。
“ああ、こうやって手足あって生きてるだけでありがたい”と…。
<後編を読む>
大屋(旧姓:斎藤) 美智子
1952年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
昭和42年度三川中学校卒業生
現在は新潟市中央区にて寿司屋を夫婦で営んでいる
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2011年12月8日木曜日
「和徳 インタビュー(前編)」
突如、Swallowtail*Queenbeeの後任ドラマーに選ばれた和徳。
混声三部合唱組曲「阿賀野川」20周年プロジェクトに対し、バンドの心臓部分とも言える「ドラマー」としての役割をどう担っているのだろうか?
常に虎視眈眈と何かを狙うような表情から、時折穏やかな笑顔も見せてくれた。(前編)
「魅力」をバンド・サウンドでアレンジして世に知れ渡ろうとするのは、新しいと思いましたね。
――まず最初に、今回の合唱×ROCK「阿賀野川」のプロジェクトに参加することになった経緯を教えてください。
まだこのプロジェクトが動き出す前のことから話さなくてはいけませんね。
ちょうど、1年半くらい前だったと思います。
もともと仲間だった、Swallowtail*Queenbee(以下S*Qb)ギタリストのLEONから電話があって。
“うちのドラマーが活動できないからドラム叩いてくれないか”って誘われたんです。
僕はその時期、コンスタントに活動しているバンドがなくて、いろいろなバンドのヘルプをしていたんですよ。
だから、とりあえず最初はサポートという感じでS*Qbに参加することになったんです。
でも、数ヶ月間…いや、そんなにないですね。
2ヶ月くらいの間だと思います。
最初はS*Qbの既存のオリジナル曲を覚えて…。
それから新曲の制作をしていたんですが、途中から各メンバーの諸々の事情で、いつの間にかスタジオに入る回数も減っていったんです(笑)。
――では、その後どのようにして再度参加したのですか?
今でもはっきりその時の状況は覚えてますね。
2010年の大晦日。
仕事が終わってから店でラーメン食べて…。
帰ろうと車に乗った瞬間、LEONから電話がありましてね。
“ちょっと後ろ向いてくれない?”なんて言われたから振り向いたけど、LEONの姿はなく…。
…結局、嘘で(笑)。
彼なりのいつものジョークでした(笑)。
――よくあるいたずらですね(笑)。
まあまあ(笑)。
で、その電話が…。
“S*Qbで合唱曲をカヴァーする”という内容で。
でも個人的に合唱曲のカヴァーって前代未聞だし、正直意味不明でした。
それで、“何の合唱曲をやるんだ?”って聞いたら、“トオルさんの地元で歌い継がれている合唱組曲「阿賀野川」をバンドでカヴァー演奏する”ということらしくて。
再度、また僕に声を掛けてくれたというわけです。
――バンドのリーダーであるミナガワトオルさんからは、どのようなお話しがあったのですか?
LEONの電話の後、すぐにトオルさんからも連絡が来ました。
そして、直接会って長~い時間ミーティングをしましたね。
地元愛だったり、合唱組曲「阿賀野川」への想いだったりを延々聞かされました(笑)。
それに伴って、この合唱曲をバンドアレンジでカヴァーするということ、しかもトオルさんはこれを9年間も考えていたということ。
いろいろ話しました。
いかんせん大きなプロジェクトで不安も少しありましたが、自分への挑戦も踏まえ、正式に参加することに決めたんです。
――なるほど~。和徳さんはご出身はどちらですか?
僕は生まれも育ちも新潟市中央区です。
――地元ではないけど、阿賀町や合唱組曲「阿賀野川」に対する和徳さんの想いをお聞きしたいのですが。
阿賀町といえば、山があり、景色も綺麗で、ライン下りもありますよね。
だから「観光地」としての認識があるくらいでしたね~。
もちろん合唱組曲「阿賀野川」たるものが存在しているなんて全然知りませんでした。
プロジェクトが始動して、トオルさんから「阿賀野川」の初演CDを渡されたんです。
“擦り切れるまで聴いて欲しい”と言われ…。
車中でヘヴィ・ローテーションして聴いてました。
原曲知らずして、カヴァーは出来ないですからね。
――実際に聴いてみてどうでしたか?
率直に言うと、普通の合唱曲ですね。
ただ…、阿賀町、旧三川村の過去を振り返り、どのようにしてこの合唱曲が作り上げられ、歌い継がれているかという、歴史っていうのかなぁ…。
そういうのは、今でも歌っている中学生をはじめ地元の方々、あるいは合唱曲の存在を知っている方々にしかわからないのだと思います。
それは当然のことですよね。
だから僕みたいに、地元以外の人間がどのようにして知るかは、当然知っている人から聞き入れるしかないわけで…。
このプロジェクトを通して、僕は阿賀町の「過去」を知り「現在」を知り、そしてこの「合唱曲」を知りました。
その「魅力」をバンド・サウンドでアレンジして世に知れ渡ろうとするのは、新しいと思いましたね。
<後編を読む>
和徳
1981年生まれ
新潟県新潟市中央区出身
Swallowtail*Queenbee ドラム担当
その他、サポートドラマーとして活動中
影響を受けた音楽はQueen、Red Hot Chili Peppers、Jamiroquai等と多彩
混声三部合唱組曲「阿賀野川」20周年プロジェクトに対し、バンドの心臓部分とも言える「ドラマー」としての役割をどう担っているのだろうか?
常に虎視眈眈と何かを狙うような表情から、時折穏やかな笑顔も見せてくれた。(前編)
「魅力」をバンド・サウンドでアレンジして世に知れ渡ろうとするのは、新しいと思いましたね。
――まず最初に、今回の合唱×ROCK「阿賀野川」のプロジェクトに参加することになった経緯を教えてください。
まだこのプロジェクトが動き出す前のことから話さなくてはいけませんね。
ちょうど、1年半くらい前だったと思います。
もともと仲間だった、Swallowtail*Queenbee(以下S*Qb)ギタリストのLEONから電話があって。
“うちのドラマーが活動できないからドラム叩いてくれないか”って誘われたんです。
僕はその時期、コンスタントに活動しているバンドがなくて、いろいろなバンドのヘルプをしていたんですよ。
だから、とりあえず最初はサポートという感じでS*Qbに参加することになったんです。
でも、数ヶ月間…いや、そんなにないですね。
2ヶ月くらいの間だと思います。
最初はS*Qbの既存のオリジナル曲を覚えて…。
それから新曲の制作をしていたんですが、途中から各メンバーの諸々の事情で、いつの間にかスタジオに入る回数も減っていったんです(笑)。
――では、その後どのようにして再度参加したのですか?
今でもはっきりその時の状況は覚えてますね。
2010年の大晦日。
仕事が終わってから店でラーメン食べて…。
帰ろうと車に乗った瞬間、LEONから電話がありましてね。
“ちょっと後ろ向いてくれない?”なんて言われたから振り向いたけど、LEONの姿はなく…。
…結局、嘘で(笑)。
彼なりのいつものジョークでした(笑)。
――よくあるいたずらですね(笑)。
まあまあ(笑)。
で、その電話が…。
“S*Qbで合唱曲をカヴァーする”という内容で。
でも個人的に合唱曲のカヴァーって前代未聞だし、正直意味不明でした。
それで、“何の合唱曲をやるんだ?”って聞いたら、“トオルさんの地元で歌い継がれている合唱組曲「阿賀野川」をバンドでカヴァー演奏する”ということらしくて。
再度、また僕に声を掛けてくれたというわけです。
――バンドのリーダーであるミナガワトオルさんからは、どのようなお話しがあったのですか?
LEONの電話の後、すぐにトオルさんからも連絡が来ました。
そして、直接会って長~い時間ミーティングをしましたね。
地元愛だったり、合唱組曲「阿賀野川」への想いだったりを延々聞かされました(笑)。
それに伴って、この合唱曲をバンドアレンジでカヴァーするということ、しかもトオルさんはこれを9年間も考えていたということ。
いろいろ話しました。
いかんせん大きなプロジェクトで不安も少しありましたが、自分への挑戦も踏まえ、正式に参加することに決めたんです。
――なるほど~。和徳さんはご出身はどちらですか?
僕は生まれも育ちも新潟市中央区です。
――地元ではないけど、阿賀町や合唱組曲「阿賀野川」に対する和徳さんの想いをお聞きしたいのですが。
阿賀町といえば、山があり、景色も綺麗で、ライン下りもありますよね。
だから「観光地」としての認識があるくらいでしたね~。
もちろん合唱組曲「阿賀野川」たるものが存在しているなんて全然知りませんでした。
プロジェクトが始動して、トオルさんから「阿賀野川」の初演CDを渡されたんです。
“擦り切れるまで聴いて欲しい”と言われ…。
車中でヘヴィ・ローテーションして聴いてました。
原曲知らずして、カヴァーは出来ないですからね。
――実際に聴いてみてどうでしたか?
率直に言うと、普通の合唱曲ですね。
ただ…、阿賀町、旧三川村の過去を振り返り、どのようにしてこの合唱曲が作り上げられ、歌い継がれているかという、歴史っていうのかなぁ…。
そういうのは、今でも歌っている中学生をはじめ地元の方々、あるいは合唱曲の存在を知っている方々にしかわからないのだと思います。
それは当然のことですよね。
だから僕みたいに、地元以外の人間がどのようにして知るかは、当然知っている人から聞き入れるしかないわけで…。
このプロジェクトを通して、僕は阿賀町の「過去」を知り「現在」を知り、そしてこの「合唱曲」を知りました。
その「魅力」をバンド・サウンドでアレンジして世に知れ渡ろうとするのは、新しいと思いましたね。
<後編を読む>
和徳
1981年生まれ
新潟県新潟市中央区出身
Swallowtail*Queenbee ドラム担当
その他、サポートドラマーとして活動中
影響を受けた音楽はQueen、Red Hot Chili Peppers、Jamiroquai等と多彩
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
「第20回 合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会 メッセージボードより Part2」
平成23年10月22日、阿賀町文化福祉会館にて「合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会」が開かれた。
記念すべき第20回目となる今年のスローガンは、「届けよう 希望の歌 ~20年分の思いとともに~」。
三川中学校の生徒達は、昭和42年三川村に甚大な被害をもたらした羽越水害の悲しみや復興への希望を、今年7月の新潟・福島豪雨と重ね合わせていた。
当日、会場入り口に設置された生徒達直筆によるメッセージボードから、その言葉の一部を紹介する。
今年は20周年という大事な年です。
そして、自然災害に見舞われた年でした。
また、新潟・福島豪雨もあり、私たちは実際に経験をしました。
この経験を合唱組曲「阿賀野川」に生かせるようがんばります。
聴きに来てくださった方々にスローガンでもある「希望の歌」を届けられるよう、心を1つにして歌います。
(3年生女子生徒)
今年度は20周年という節目の年なので、見に来てくれた人に感動してもらえるような合唱にしたいです。
そして、阿賀野川を成功させたいです。
みんなで心を1つにして、みなさんが笑顔になってもらえるように歌います。
ぜひ最後まで聞いてください。
(3年生女子生徒)
記念すべき第20回目となる今年のスローガンは、「届けよう 希望の歌 ~20年分の思いとともに~」。
三川中学校の生徒達は、昭和42年三川村に甚大な被害をもたらした羽越水害の悲しみや復興への希望を、今年7月の新潟・福島豪雨と重ね合わせていた。
当日、会場入り口に設置された生徒達直筆によるメッセージボードから、その言葉の一部を紹介する。
今年は20周年という大事な年です。
そして、自然災害に見舞われた年でした。
また、新潟・福島豪雨もあり、私たちは実際に経験をしました。
この経験を合唱組曲「阿賀野川」に生かせるようがんばります。
聴きに来てくださった方々にスローガンでもある「希望の歌」を届けられるよう、心を1つにして歌います。
(3年生女子生徒)
今年度は20周年という節目の年なので、見に来てくれた人に感動してもらえるような合唱にしたいです。
そして、阿賀野川を成功させたいです。
みんなで心を1つにして、みなさんが笑顔になってもらえるように歌います。
ぜひ最後まで聞いてください。
(3年生女子生徒)
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2011年12月7日水曜日
「熊倉 明帆 インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――合唱組曲「阿賀野川」との出会いを教えてください。
小学生の時に、当時中学生のお姉ちゃんが歌っている「阿賀野川」を聴きに行ったのがきっかけでした。
お母さんと一緒に行ったんですけど、初めて聴いた時は、“わぁー!”ってすごく感動しました。
お母さんも隣で泣いてて。
こんな風に、人の心に感動を与えられる「阿賀野川って曲は、すごい!って思いました。
それから中学生になって実際歌ってみると、最初は“難しい曲だなぁ”と感じました。
特に、やっぱり歌詞の意味が難しかったです。
初めて聴くような言葉もたくさんあったので。
――中学校での思い出はありますか?
思い出と言えば、3年生最後の「合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会」の練習です。
本番の日が近づくにつれて、私たちも焦ってきて。
パート内で“このままじゃいけない!”みたいな感じになったんです。
“もっとひとりひとり、大きく声出そうよ!”とか、みんなで言い合いながら「阿賀野川」に対して熱くなれたことが、一番の思い出として心に残っています。
青春ですね。
中学生日記みたい(笑)。
――合唱組曲「阿賀野川」の全5曲の中で、どれが一番好きですか?
私は、第5曲の「光にむかって」が好きです。
光が出てくる感じ(笑)?
歌い始めの、「桃の花が~♪」ってあたりから、“水害を乗り越えて幸せになったんだなぁ”って伝わってくる。
希望に満ちてる感じがしますよね、あの曲。
歌ってるとテンションも上がります(笑)。
――熊倉さんにとって、「阿賀野川」とは何ですか?
まず、阿賀町は空気が澄んでいて、いい町です。
薬師堂や将軍杉など、歴史を感じさせるものもちゃんと残ってるし。
自然豊かで、すごい素敵なところだと思います。
私の家のすぐ近くを阿賀野川が流れているんですが、この川は私たちにとって大切な宝物なんです。
そんな環境の中、20年間歌われてきた合唱組曲「阿賀野川」も町の宝物だと思います。
これからも「阿賀野川」は歌い続けていきたいです。
100年後も(笑)。
熊倉 明帆
1993年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成20年度三川中学校卒業生
パート:アルト
新潟県立五泉高等学校3年生
春から上京し、体育大学へ進学
スポーツ指導員を目指す
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――合唱組曲「阿賀野川」との出会いを教えてください。
小学生の時に、当時中学生のお姉ちゃんが歌っている「阿賀野川」を聴きに行ったのがきっかけでした。
お母さんと一緒に行ったんですけど、初めて聴いた時は、“わぁー!”ってすごく感動しました。
お母さんも隣で泣いてて。
こんな風に、人の心に感動を与えられる「阿賀野川って曲は、すごい!って思いました。
それから中学生になって実際歌ってみると、最初は“難しい曲だなぁ”と感じました。
特に、やっぱり歌詞の意味が難しかったです。
初めて聴くような言葉もたくさんあったので。
――中学校での思い出はありますか?
思い出と言えば、3年生最後の「合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会」の練習です。
本番の日が近づくにつれて、私たちも焦ってきて。
パート内で“このままじゃいけない!”みたいな感じになったんです。
“もっとひとりひとり、大きく声出そうよ!”とか、みんなで言い合いながら「阿賀野川」に対して熱くなれたことが、一番の思い出として心に残っています。
青春ですね。
中学生日記みたい(笑)。
――合唱組曲「阿賀野川」の全5曲の中で、どれが一番好きですか?
私は、第5曲の「光にむかって」が好きです。
光が出てくる感じ(笑)?
歌い始めの、「桃の花が~♪」ってあたりから、“水害を乗り越えて幸せになったんだなぁ”って伝わってくる。
希望に満ちてる感じがしますよね、あの曲。
歌ってるとテンションも上がります(笑)。
――熊倉さんにとって、「阿賀野川」とは何ですか?
まず、阿賀町は空気が澄んでいて、いい町です。
薬師堂や将軍杉など、歴史を感じさせるものもちゃんと残ってるし。
自然豊かで、すごい素敵なところだと思います。
私の家のすぐ近くを阿賀野川が流れているんですが、この川は私たちにとって大切な宝物なんです。
そんな環境の中、20年間歌われてきた合唱組曲「阿賀野川」も町の宝物だと思います。
これからも「阿賀野川」は歌い続けていきたいです。
100年後も(笑)。
熊倉 明帆
1993年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成20年度三川中学校卒業生
パート:アルト
新潟県立五泉高等学校3年生
春から上京し、体育大学へ進学
スポーツ指導員を目指す
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会
2011年12月4日日曜日
「K.S インタビュー」
合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――まず、「阿賀野川」との出会いを教えてください。
一番最初は、正直何が何だかわからないまま始まったという印象ですね。
音楽の授業の時に、先生が“はい、これを歌ってください”という感じで…。
私達も“あぁ、これを歌うのかぁ”って(笑)。
もう当然の流れのような始まり方でした。
――授業のことは覚えてますか?
「音楽の授業」というよりは、「合唱」っていう感じでした。
2年生の時にパート分けがあったと思います。
ピアノを弾く先生の横に一人ずつ呼ばれるんですよ。
それで、曲の一部分だけを歌ったら、先生が“はい、ソプラノ―”とか“はい、アルトー”とか決めていく(笑)
一人ずつ歌わせられるのが緊張してイヤでした。
そして先生は厳しかったですね。
歌い方や、声の出し方、表現の仕方など、すごい細かく指導を受けました。
私達が一番最初に歌う生徒だったということで、基礎からとことん鍛えられたというふうに覚えてますね~。
――「阿賀野川」を歌ってきた中での思い出は何ですか?
やっぱり、合宿です。
2年生の夏休み中に、3年生と合同で。
みかわ会館に岩河三郎先生もいらっしゃって、一泊二日の合唱合宿。
もう、ずぅーーーーっと、合唱の練習をしてた記憶があります。
朝からずっと歌って、お昼ご飯食べてからまた歌って…(笑)。
夕飯食べた後もまた歌って…。
――想像すると、ゾッとしますね(笑)岩河先生の指導はいかがでした?
あぁ、すごい怒られました。
――えっ、怒られた?どうしてですか?
居眠りして(笑)。
だいたいみんなが。
ご飯食べた後、みんなこうウトウトしてて…。
それで岩河先生が怒って、“中止ー!”とかになっちゃって(笑)。
――今だから笑えますが、それは大変なことですよ!でもK.Sさんは居眠りしてなかったんですよね?
ううん、寝た(爆笑)。
――つ…、次の質問です(笑)。20年間歌われ続けてきたことについて、どのように感じますか?
そうですね~。
やっぱり一番最初に歌った私達にしてみれば、嬉しいことですね。
でも中学校を卒業してからは、なかなか聴きに行く機会がありませんでした。
去年、うちの子供の文化祭で三川小中学校へ行った時、午後から中学生による発表会があって。
そこで、ほんっとに久しぶりに聴きました。
うちの子、まだ小学1年生なんですけど、いずれ「阿賀野川」を歌うことになるじゃないですか。
“この曲、一番最初に歌ったのってお母さん達なんだよぉ”ってちょっと自慢しました(笑)。
――親子二代で歌うのが楽しみですね。それでは、あなたにとって阿賀野川とは何ですか。
何でしょうね~。
ごく当たり前にそこにあるもの、風景の一部ですかねぇ。
それは、何も感じないってことではないんですよ。
私は阿賀町から出たことがないから、阿賀町の魅力とかも案外自分では気付いてないのかもしれません。
でも、そこに山があって、川があって…。
みんな人がいいし、自然がいっぱいあることはいいですね。
親になって気付くこともありますね。
子供達が毎日伸び伸びと暮らせるのは、いいなぁって思います。
K.S
1977年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成4年度三川中学校卒業生
パート:ソプラノ
現在二児の母として子育てに奮闘中
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。
――まず、「阿賀野川」との出会いを教えてください。
一番最初は、正直何が何だかわからないまま始まったという印象ですね。
音楽の授業の時に、先生が“はい、これを歌ってください”という感じで…。
私達も“あぁ、これを歌うのかぁ”って(笑)。
もう当然の流れのような始まり方でした。
――授業のことは覚えてますか?
「音楽の授業」というよりは、「合唱」っていう感じでした。
2年生の時にパート分けがあったと思います。
ピアノを弾く先生の横に一人ずつ呼ばれるんですよ。
それで、曲の一部分だけを歌ったら、先生が“はい、ソプラノ―”とか“はい、アルトー”とか決めていく(笑)
一人ずつ歌わせられるのが緊張してイヤでした。
そして先生は厳しかったですね。
歌い方や、声の出し方、表現の仕方など、すごい細かく指導を受けました。
私達が一番最初に歌う生徒だったということで、基礎からとことん鍛えられたというふうに覚えてますね~。
――「阿賀野川」を歌ってきた中での思い出は何ですか?
やっぱり、合宿です。
2年生の夏休み中に、3年生と合同で。
みかわ会館に岩河三郎先生もいらっしゃって、一泊二日の合唱合宿。
もう、ずぅーーーーっと、合唱の練習をしてた記憶があります。
朝からずっと歌って、お昼ご飯食べてからまた歌って…(笑)。
夕飯食べた後もまた歌って…。
――想像すると、ゾッとしますね(笑)岩河先生の指導はいかがでした?
あぁ、すごい怒られました。
――えっ、怒られた?どうしてですか?
居眠りして(笑)。
だいたいみんなが。
ご飯食べた後、みんなこうウトウトしてて…。
それで岩河先生が怒って、“中止ー!”とかになっちゃって(笑)。
――今だから笑えますが、それは大変なことですよ!でもK.Sさんは居眠りしてなかったんですよね?
ううん、寝た(爆笑)。
――つ…、次の質問です(笑)。20年間歌われ続けてきたことについて、どのように感じますか?
そうですね~。
やっぱり一番最初に歌った私達にしてみれば、嬉しいことですね。
でも中学校を卒業してからは、なかなか聴きに行く機会がありませんでした。
去年、うちの子供の文化祭で三川小中学校へ行った時、午後から中学生による発表会があって。
そこで、ほんっとに久しぶりに聴きました。
うちの子、まだ小学1年生なんですけど、いずれ「阿賀野川」を歌うことになるじゃないですか。
“この曲、一番最初に歌ったのってお母さん達なんだよぉ”ってちょっと自慢しました(笑)。
――親子二代で歌うのが楽しみですね。それでは、あなたにとって阿賀野川とは何ですか。
何でしょうね~。
ごく当たり前にそこにあるもの、風景の一部ですかねぇ。
それは、何も感じないってことではないんですよ。
私は阿賀町から出たことがないから、阿賀町の魅力とかも案外自分では気付いてないのかもしれません。
でも、そこに山があって、川があって…。
みんな人がいいし、自然がいっぱいあることはいいですね。
親になって気付くこともありますね。
子供達が毎日伸び伸びと暮らせるのは、いいなぁって思います。
K.S
1977年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成4年度三川中学校卒業生
パート:ソプラノ
現在二児の母として子育てに奮闘中
合唱×ROCK「阿賀野川」制作実行委員会