2011年11月29日火曜日

「清野 博貴 インタビュー」

合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。




――清野さんは合唱組曲「阿賀野川」の初演メンバーの学年だったということですが、どのようにして歌い始めたんですか?

確か中学2年の1月頃だったかなぁ。
まず岩河先生ご本人の前で「親しらず子しらず」(※1)を歌いました。
その時は、何でご本人を前にして歌っているのかがよくわかりませんでしたけどね。
今思えば、あの時すでに「阿賀野川」の企画・制作が始まっていて、実際に完成した曲を歌うことになる私達を、事前に見に来られてたのかもしれませんね。
それから3年生になってすぐに、1曲目「阿賀の里」の楽譜をもらって、練習が本格的に始まりました。
楽譜と同時に、ピアノの伴奏だけが入ったカセットテープを渡されたかなぁ。
“これをダビングして、個人で練習してくるように”とか言われて。
それからは地獄のような日々だったね(笑)。


――地獄ですか(笑)。どのような授業だったんですか?

うーん、授業ねぇ…。
音楽の教科書を開いたことがない!
音楽が「阿賀野川」でした(笑)。
授業だけでは足りなかったから、放課後もだいたいやってました。
3年生はもう部活も引退してましたしね。
そして家に帰っても、ひとりでパート練習っていう…。
中学校3年生の思い出と言えばもう…、ほぼ毎日のように組曲を練習してましたね。


――凄いですね…。特に印象に残ってることはありますか?

初演発表会で歌い終わった後、拍手が鳴り止まなかったのは覚えてますね。
凄い拍手だったなぁ、という印象です。
あと、“アンコールで三川中学校の校歌を歌ってください!”ってリクエストがあってね(笑)。
みんなで“えーーーっ!”って言ったのは覚えてます(笑)。
ステージの上でざわめきが起こったね(笑)
結局、岩河先生の指揮で「羽越大災害」を歌ったんだけれども。
まぁ、アンコールなんてあると思ってませんでしたね。
また、私達は初演の後、BSNこども音楽コンクールにも出演してるんです。
そこで優秀賞をもらったことも印象深いです。。
他の中学校に負けて悔しい想いもしましたけどね。
まぁ「負けた」って表現も違うんだろうけど、最優秀賞に届かなかったのが悔しかったですね。
この時歌ったのが、第5曲「光にむかって」だったんです。
だから「光にむかって」は一番思い入れがあります。





――今日まで20年間歌われ続けていることに関してはいかがですか?

凄いですよね、よく続いてると思います。
でも卒業してからは、後輩達が歌う「阿賀野川」を聴く機会がなかったんですよね。
高校生の時に合唱団のメンバーとして、文化祭で一回歌ったことがあるくらいで。
でも長い間こうやって歌われていることは、初演メンバーとしても嬉しいですね。
合唱組曲「阿賀野川」は、地元三川の魅力のひとつなのかなと思います。
歌っている生徒も素晴らしいですが、指導している歴代の先生方も頑張っていらっしゃいますね。
今じゃ先生方も生徒と一緒に発表会で歌うっていうから凄いですね。
私達の時代では考えられない(笑)。


――最後の質問です。清野さんにとって阿賀野川とは何ですか?

組曲「阿賀野川」を最初に歌ったのは私達でしたし、初演以外にもBSNコンクールも出たし…。
卒業式でも歌いましたしね。
ほぼ1年間通して練習したわけだから、私にとっては「思い出」ですね。
ホントに「阿賀野川漬け」みたいな感じだね(笑)。



清野 博貴
1976年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成3年度三川中学校卒業生
パート:バス
農林業関係


(※1)「親しらず子しらず」
合唱組曲「阿賀野川」と同じく、山本和夫作詩・岩河三郎作曲による最もポピュラーな合唱曲のひとつ。

2011年11月28日月曜日

「第20回 合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会 メッセージボードより Part1」

平成23年10月22日、阿賀町文化福祉会館にて「合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会」が開かれた。
記念すべき第20回目となる今年のスローガンは、「届けよう 希望の歌 ~20年分の思いとともに~」。
三川中学校の生徒達は、昭和42年三川村に甚大な被害をもたらした羽越水害の悲しみや復興への希望を、今年7月の新潟・福島豪雨と重ね合わせていた。
当日、会場入り口に設置された生徒達直筆によるメッセージボードから、その言葉の一部を紹介する。




今年は20周年という、節目の大切な日です。
今まで以上に、精一杯がんばり、1番いい歌にしたいと思います。
そして、今まで歌いつがれてきたこの阿賀野川を、羽越大災害と東北の地震の被災者、福島・新潟豪雨の被災者の皆さんに届ける気持ちで歌います。
この歌で感動していただけるように、精一杯歌いたいです。
どうぞ、ごゆっくりお聴きください。
(3年生女子生徒)


今年は20周年という記念すべき年です。
みんなで心を一つにして歌い、来てくださったお客様に感動をしていただけるように歌います。
今までの練習で指導していただいたことや、顔の表情なども気をつけたいです。
今日は最高の歌にできるように頑張って歌います。
ぜひ聞いてください。
(3年生男子生徒)


2011年11月26日土曜日

「手紙」

羽越水害を体験した少女の作文をきっかけに合唱組曲「阿賀野川」は誕生した。
当時まだ中学3年生だった彼女はやがて大人となり、この合唱曲を聴くこととなる。
平成20年、彼女は合唱組曲「阿賀野川」を歌い継いでいる三川中学校の生徒に宛て、手紙を送った。
羽越水害が決して風化されないようにと願い、自身の生々しい体験も綴っている。




拝啓

あれから四十年の月日が流れていますが、八月二十八日の夜から八月二十九日の朝までのことは私の心に恐怖となって住み着いたままです。
二〇〇四年八月、新潟市民芸術文化会館にて初めてこの組曲を聴きました。
当時の三川村教育長様よりお電話をいただき、私の中学校卒業文集「文の丘」の作文「思い出したくない」が、その歌が作られるきっかけにもなっているので、是非お越しくださいと声をかけていただきました。
当日、歌を聴いているうちに、遠い十四歳の一日を新たに体験しているような息苦しい、そして悲しい時間でした。
そしてコンサートのすべてが終わって会場の外に出たとき、新たに涙があふれてきましたが、それは先程の涙と違い、生きてずっと人生があるという感謝の涙でした。
大勢の方々がこの歌に心を動かされ、活動をなさっていると聞きました。
今でも、その時の事を言葉にしようとすると全く声が詰まって無理なのですが、書くことであれば何とかと思い、歌う方の何か参考になればとペンを走らせています。


あの夏の日、ただただ強い雨が何日も続き、学校も早上がりとなった。
バスの中から見た新谷川(あらやがわ)は、いつものやさしさは、どこを探しても見当たらず、激しく大きな川に見えました。
家に帰ると、消防団長だった父を囲み、役員、団員の人達が見回りに行ったり、話し合ったりといつもと違う表情だったことを覚えています。
「いままでになかった事だぞ」
「堤防が危ないぞ」、
誰ひとり自分の家のことを口にすることもなく、ぎりぎりまで出来る限り走り回っていました。
「いいか、ここを動くなよ」
父は私達にそう言い残すと皆と一緒に飛び出して行きました。
その後、村中にいつまでもいつまでも半鐘が鳴り続けました。
まるでブランコのように揺れるやぐらの上で、「逃げろ!逃げてくれ!」との思いでたたき続けたと、後になってその人は話してくれました。
残った私達は、身の回りの物を二階に運んだりウロウロしていましたが、現実に起きている事がまるで実感として受け入れられずにいました。
疲れて蒲団に身体を横たえてうとうとしたと思ったら首の後ろ、足の先までピチャピチャと水が入り込んで飛び起きて茶の間を見ると、かまどの灰が水圧で突き上げられ、天井まで吹き上がりました。
「ああ…死ぬ?」
その時、歯がガタガタと鳴り出し、目は開いたまま、目の前の様子を見ていた気がします。
階段は水に濡れ始め、二階から向かいの家を見ると、押し寄せる水を必死で止めようとする人達が戦っています。
どれくらい時間が経ったでしょう。
「おーい、百合、美、修二!」
ゴーゴーとうなる川の向こうから私達を呼ぶ父の太い声が聞こえて来ました。
「早く早く降りて来い!」
茶の間は腰まで水が流れ、玄関に行くと、ずぶずぶと胸まで水が上がりました。
父の差し出す竹竿に夢中でつかまり「何があっても離すなよ!」という父の背中だけ
を見て、前へ前へと…水圧で浮き上がる身体を腰に力を入れて「負けるもんか」 「負けるもんか」
「逃げろ、おーい」
父は叫びながら石垣の上にある家に私達を連れて行きました。
外に飛び出した父を見て、「まさか!」最後の最後に私達を迎えに来たのに
「父ちゃん、もういいろ、行くな、死んでしまうよ」
私は泣き叫びながら、父の法被(はっぴ)にしがみつきました。
「何言ってんだ、行がんばねんだ!」
ものすごい顔でそう言うと真っ暗な中にずぶずぶと埋まっていくように見えた。
二階から下を見ると、自分達のいる家が渦の中にいるような錯覚を覚え、気持ちが悪くなった。
その家のお父さんが
「あの柿の木のあの枝が見えなくなったらこの家は浮いてしまう。そうしたら屋根に登れ!何かにつかまって」
その後の言葉は消えてしまった。
恐ろしく長い闇が続いた。
急に目の前が明るくなり、人々の声が耳に飛び込んで来た。
「ひどいもんだ、みんな流れていく」
「そんな!」私は、はだしのまま自分の家の前に立った。
というか家のあったはずの場所、そこには根こそぎ土がえぐれ、建てたばかりの家は、父の目の前でくずれ、流れていった。
夜中から川原の方の家から次々と飲み込まれ、私の家は最後の最後に何一つ出すこともできずに…。

ここまではまるで焼き印を押したように、はっきりと記憶にある。
ただ、その後どんな風に月日を過ごしたのか?
毎日、ヘリコプターが頭の上を回っていた事、小学校のグラウンドが岩の山だった事、炊き出しのおにぎりものどを通らなかった事、写真の一枚のように浮かぶだけ…。
学校が始まり最初の授業があの日の事を作文に書くことだった。
先生が具体的に書いてある私の作文を読んでみなさいと…。
私は最初の一言を口にしただけで泣き出してしまい教室を飛び出してしまった。
四十年前のその日から、そのまま閉じ込めてあるだけ?
私にもよく分からないのです。
昨年の九月三十日、三川中学校でこの歌を聴く機会がありました。
子ども達と合唱団の人達の声は、そのまま四十年前のその日に私を連れて行きました。
ボロボロただ涙が流れてきます。
歌声はやさしく私を包み、舞台の上から
「もう大丈夫ですよ」 「応援していますよ」
そんなふうに言ってもらっているような不思議な一体感でした。
水害を経験したことで、人生は変わってしまったかも知れませんが、私が言いたいのは、こんなに苦労したとか、大変だったということではないのです。
“それでも私は生きている”
あの日、濁流に呑み込まれ命を落とした中学三年生の同級生板屋越文子さんを想えば、とてもそんなふうには言えない。
激しい川の流れに遠い遠い所まで連れていかれ発見されたのは、一年の後のことだったのです。
私の集落でも家の後方が崩れ、亡くなられた方がおられました。
三川村全体では十八人の方が亡くなられました。
辛い出来事でしたが
“それでも私は生きている”
妻となり母となり祖母となり、今有り難く毎日を感じて暮らしています。
その方々の無念を思うと苦しくなります。
毎日、それを考えているわけではありませんが、苦しい時、悩んで立ち止まった時、悩むことすら出来ずに逝ってしまった文子さんや村の人を思います。
「私は生きているじゃない」と…。
水害の話が出たときは必ず文子さんたちとの言葉にしたい。
想い出すことが彼女に届くような気がするから…。


私は今こうしてその日のことを文字にしていますが、場所や時間は多少違ってもあの日、皆、あの水害を身体に体験しているのです。
今まで家族で、あの日のことを語り合うことは全くなかったのですが、今回、父に私たちを高台の家に託してからどうしていたのか初めて聞きました。
「夢中だった。とにかく残っている人はいないか?年寄りは大丈夫か?」
学校の方に向かって一軒一軒声を掛けながら、流されながら必死だったと…。
父はやはり多くは語りませんでした。
「あの日から、皆頑張った。すごい団結力だった。皆に感謝している。団長としての重圧と責任感は言葉には…」。
大勢の人たちの助けを借りて、今ここにいる気がします。
ふる里、村の人たちは今もやさしい、三川の大らかな山、川、どうか、いつまでも穏やかでいて欲しい。
このときの水害の歌を歌い継いでゆく皆様、この手紙が歌うときの何かのお手伝いになれば幸いです。
読みづらい所も多々あるかと思いますが…。
皆様のご健康を願い、ますますのご活躍をお祈り申し上げます。

敬具


二〇〇八年二月九日
三川中学校 昭和四十二年度卒業生
大屋 美智子(旧姓 斎藤)


※当記事の内容は、大屋様と三川中学校の許可を得てここに掲載させて頂いております。

2011年11月24日木曜日

「羽越水害(8.28水害)」

混声三部合唱組曲「阿賀野川」は、昭和42年に発生した羽越水害(8.28水害)をテーマとしたエレジーであり、その犠牲者にささげるレクイエムである。
この水害を忘れてはならないと、初演から20年もの間歌い継がれてきた。
では、当時の被害はどのようなものだったのだろうか――。


羽越水害(8.28水害)は、1967年(昭和42年)の8月29日、まだ夜が明けない時間帯に、2日前から降り続いていた集中豪雨が原因で起こった大災害である。
羽越という名称が付けられたとおり、主に山形県と新潟県下越地方を中心に被害が発生。
死者104名を出す大きな被害をもたらした。
旧三川村でも400mmを超す強烈な大豪雨だったと言われている。
8月27日から降り続いていた豪雨は、28日の午後になってもまったく降り止まず、未曾有の集中豪雨となった。
そのために、綱木川をはじめとする7つの中小河川の水位が異常な増水となり、全ての河川で破堤また溢水をみたほか、山間地では土砂崩れ、山崩れ、鉄砲水などにより多くの被害が発生したのである。


《 当時の写真:細越地区 》


《 現在の五十沢地区 新谷川 》


被害は、村内全域にわたる大規模なものであり、死者、行方不明者合わせて18名、重軽傷者26名、家屋の流失、全壊52棟、半壊30棟、床上浸水267棟、農地の流失117haに及んだ。
被害の大半はまだ夜の明けぬ頃であり、消防団と住民の必死の警戒、避難誘導もかなわず、尊い生命や財産を奪われたことは誠に残念ではあったが、再起の意欲を持ち、長い間村民一丸となって村の復興に努めた。
(初演プログラムより一部引用)


《 当時の写真:石戸地区 》


《 当時の写真:古岐地区 》


《 当時の写真:石間地区 作業の様子 》



石間地区には「上の沢川」と「下の沢川」と呼ばれる2つの沢川がある。
集落の裏山から阿賀野川へと合流する普段は穏やかな小川だが、この日は違った。
予期せぬ事態が、住民の命運を分けることとなる…。


28日の夜、2日間降り続いていた雨は少し弱まってきた。
大雨になったら決壊するかもしれないと言われていた「上の沢川」の様子も、もう大丈夫そうだということで、石間地区の人々はほっとして眠りについたという。
しかし翌29日、早朝まだ暗い中のことである。
石間地区の人々がまったく心配していなかった「下の沢川」が大きく決壊した。
まだ眠っている人々を土石流が襲い、逃げることもできないまま巻き込まれてしまった。


《 当時の写真:石間地区 》


《 当時の写真:石間地区 》


《 当時の写真:石間地区 》


石間地区は、三川村の中でも犠牲者が最も多い地区である。
地区を流れている川が大きく決壊してしまったこともあるが、何よりも決壊するとは思っていなかった「下の沢川」が決壊してしまったことが大きな要因と思われる。

石間地区の犠牲者(羽越水害で亡くなった方)
大人8名
中学生1名
小学生1名
幼児4名
計14名


《 現在の石間地区 「上の沢川」 》


《 現在の石間地区 「下の沢川」 》

2011年11月19日土曜日

「将軍杉・落書庵」

日本一の巨木「将軍杉」

将軍杉は、環境省自然環境局生物多様性センターが平成13年10月に12年ぶりにまとめた「巨樹・巨木林フォローアップ調査」の結果、鹿児島県屋久島の「縄文杉」を抜いて日本一となった杉の木です。
樹齢(推定)1,400年、高さ38メートル、幹周19.31メートル、国指定の天然記念物に指定されており、人々が尊敬と親しみを込めて「将軍さま」と呼んできた木です。
その名は、この地で晩年を過ごした平安時代の鎮守府将軍・平維茂(たいらのこれもち)の墓碑がかたわらに建てられた事に由来しています。
「祖先が守り通してきた将軍様を我々の代で無くしてはならない。」村人の将軍杉への信仰は“その昔、この杉を切り船を造ろうと計画したところ、一夜にして地面に沈み込んでしまった”という伝説からも感じ取ることができます。
代々にわたり巨木をご神木として奉り、自然をうやまってきた村人の温かい想いが、今もなお“巨木の里”を守り育てています。

平成14年7月吉日 三川村長 神田 敏郎


《 巨木の里入り口 》


《 将軍杉 》



「落書庵」

薬師堂内には戦国から江戸時代の落書が多数残されている。
信仰のために参籠した人々の落書きのほか、上杉謙信の死後戦いに敗れた会津の武士が追手を逃れてしばしの安息を得る為、ここに身を寄せて書き残したものなどである。
これらの落書きは当時の世相、事件を生々しく伝えている。
また、武士の鑑とされた将軍維茂の墓を含むこの境内は、薬師の霊場として戦争でも敵味方ともに手出しのできないこの地方随一の聖域であった。
国指定の天然記念物で、日本一の巨木「将軍杉」も「余吾将軍維茂墓」を優しく見守っている。
阿賀町(旧三川村)ではこれらの文化財保護と「ゆとりとうるおいのある観光」を目指し、参詣者が古(いにしえ)の時代を偲び、落書きを楽しみながら一時のやすらぎを得る憩いの場として「落書庵」を建てた。
落書庵には、合唱組曲「阿賀野川」の作詩・山本和夫氏、作曲・岩河三郎氏、初演当時三川中学校の教諭であった岩崎正法氏の“落書き”も残されている。


《 落書庵 》


《 落書コンクール入選作品 》


《 山本 和夫 作 》


《 岩河 三郎 作 》


《 岩崎 正法 作 》


「巨木の里」所在地
新潟県東蒲原郡阿賀町岩谷 Google マップ

2011年11月17日木曜日

「伊藤 真由子 インタビュー」

合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。




――伊藤さんが初めて合唱組曲「阿賀野川」を聴いたのはいつでしたか?

小学校の低学年の時に、親と「合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会」を観に行ったのが最初です。
そこでは私の姉や兄が歌っていました。
まだ歌の内容や意味はよく分からなかったけど、とても感動したのを覚えてます。
早く私も歌いたいと、その時思いました。


――やはりご兄弟がいらっしゃるとそれを見て育つんですね。
それから中学生になって、どうでしたか?


はい。三川中学校では授業で3年間みっちり「阿賀野川」を習って歌うんです。
でも3年生になった時、音楽の先生が代わって…。
やっぱりそれまでの先生との指導の仕方も違うし、実はちょっと戸惑いもありました。
今だから言えますね(笑)。
でも、最後の年だったし、3年間の集大成ということで、一生懸命頑張りました。


――思い入れの深い曲はありますか?

私は「悲歌」が思い出深いです。
「悲歌」は、「合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会」では3年生のみが歌う曲だったんです。
だから特別な想いがあったし、5曲の中でも歌詞の意味とか一番勉強しました。
そのおかげで、本番では特に感情を込めて歌うことができました。
懐かしいですね~。


――伊藤さんが思う地元三川、阿賀町の魅力ってどんなところですか?

三川は山に囲まれて自然がいっぱいだし、何よりおじいちゃんやおばあちゃんが元気!(笑)
そんな地元が私は好きです。
大人になって、将来三川を離れることがあるかもしれないけど、阿賀野川が悠々と流れるこの自然は守り続けていきたいですね~。
合唱組曲「阿賀野川」はこれからもずっと歌い継がれていけばいいなぁと思います。





伊藤 真由子
1992年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成18年度三川中学校卒業生
パート:アルト
磐越自動車道阿賀野川サービスエリア売店の看板娘として活躍中

2011年11月14日月曜日

「作文『思い出したくない』」

三川中学校の生徒会誌第1号「三中(現「文の丘」)」(昭和43年発行)に掲載されていた作文。
そこには羽越水害を経験した少女の不安や悲しみがリアルに記されていた。
――約20年の時を経て、三川中学校に赴任したばかりの一人の音楽教諭がこの作文を目にする。
「村に爪跡を残した災害を題材に、自然豊な三川村を音楽で表現できないか…。」
この作文がきっかけで混声三部合唱組曲「阿賀野川」は誕生した。
ここに原文のまま掲載する。




「思い出したくない」

三ノ一   斎藤 美智子


私は思い出したくない。だから。この作文を書けといった時、とてもいやだった。

なぜ、こんなことを書かなければいけないのか?私はわかりません。……

先生がにくくなるみたいです。あれは、何時ごろだったかわすれましたが。

私は台所でいた時でした。一段下っている風呂場が水でいっぱいになっていました。

でもその時刻はかなりおそいと思います。ねむれなくて、おきて台所に行きました。

母はいろいろかたずけていました。まさか家が流されるとは思っていませんでした。

ですから半分、不安よりおもしろいと言った気持ちがあったみたいです。

それは今までこんなめにあったことがないんが、あんな気持になるんだと思います。

私も今まではそうでした。それからいつのまにか電気が消えていきました。

それでも、電池を照らし、二階にいろんなものをあげました。

電気機具類、重いものを下においた他は全部あげた。

どの位たったでしょうか。

雨の中に気味の悪い半鐘の音が耳を通りぬけました。

それを聞いたとたん、私は立つともなくすわるともなく震えてきました。

母、弟とともに、二階にあがりました。

でも二階にあがったとたん死ということが浮かびました。

前の家の玄関の戸の所へ、海の高波が押し寄せるように、泥水がどっとぶつかってきました。

そうなると人と水の戦いです。なかにあかりをもった人が一生懸命戸をささえていました。

でもそのころだったと思います。父が最後の最後になってさけびながらむかえにきました。

その時は川原の方の人は全部、学校に避難したあとだそうです。

茶の間までおりた時、ずずっとむねまでうまりました。

その時の家の中は、ゴーゴーと茶色の水が座敷の方から、風呂場の方へ流れて行きました。

胸までつかった私は、足の自由がききませんでした。

やっと玄関までくると父の腕につかまりました。それから外へ出ました。

そんな時まで父は隣の家ごとに叫んで歩きました。

うしろから明夫君達がついてきたように覚えています。

前からくる水、いいえ、川をくいっと押し進んできました。

ショートパンツしかはいていない。それにはだし。

しだいにしびれてきました。曲りかどなどは、そのまま足がとられてしまいそうになりました。

気をとりなおして、ぐっと父の手を強くにぎりしめて進む。

水の少ない家までつれていってくれたあと、又、外にとびだして行きました。

今とび出していったら死んでしまう。堤防は切れている。

こんな時、消防団長も何もないと思った。それっきり父は朝まで帰って来ませんでした。

あっさり朝までと書きましたが、その長かったこと…

昼近くなってからだろうか。やっと道路が見えて来ました。

避難した家は泥がひざのあたり、カエルがいっぱいいた。

高い家でした。そんな家でもそうだったのですから、他はどうだったろうか。

それから毎日毎日にぎり飯です。ねばった米飯もありました。

でもそれを食べなければ他に食べるものがない。

ふだんそっぽをむくにぎりめし、あんな時とてもおいしく、たいせつだ。

今でも川原などで自分の洋服があると、「悲しいね」と思いました。

雨の降るたびに震えるこの頃の私達です。



《 当時の写真:細越地区 旧三川小学校(現ふるさと学習館) 》


《 当時の写真:新谷地区 》


※当記事の内容は、大屋様と三川中学校の許可を得てここに掲載させて頂いております。

2011年11月8日火曜日

「山口 銀次 インタビュー」

平成2年11月、山々に囲まれた小さな村で大きなプロジェクトが動いていた。
それは、のちに20年間愛され、今日まで歌い継がれてきた合唱組曲「阿賀野川」だ。
山口銀次元三川村長が当時のことを振り返る。




水害をテーマとした鎮魂歌ですから、ひと際感慨深いものがありましたね。


――合唱組曲「阿賀野川」が今年で20周年を迎えましたが、今のお気持ちは?

制作する段階から、永く後世に伝えたいというのがひとつの願望としてあったものですから。
それがこうして、本当に今まで歌い継いでこられた。
みなさんにはとても感謝し、敬意を表して、感心しております。


――20年前、三川中学校から「合唱曲を作りたい」と聞いたときのことを教えてください。

そもそもこのきっかけというのが、当時の三川中学校の音楽の先生が発案されたものです。
それから校長先生が役場へおいでになって、そのお話を聞かせてくれました。
私は120%賛成して取り掛かった仕事です。
個人的にも、私の両親と兄、兄嫁、その子供の5人が8.28水害(羽越水害)で亡くなっています。
この水害をテーマとした鎮魂歌ですから、ひと際感慨深いものがありましたね。


――初演までの道のりで、思い出のエピソードなどはありますか?

作詩された山本和夫先生が、すこぶる何にでも感激する方でね~。
平成3年、山本先生が来村されたとき、私との会話の中で数え切れないほど足をパタパタさせ、テーブルを叩きながら共感の仕草をするんです。
詩人とはこんなに感性が豊なものかと感服しました。
また、合唱の指導をされた小林光雄先生も素晴らしい方でね。
音楽があまり得意ではない私でも非常に楽しくやれそうな気分にしてくれる、そんな指導をしてくださる先生でしたね。


――初演発表会の時の生徒さんはいかがでしたか?

実は当時、一部父兄の方から、“こんなに音楽ばかり練習していて、3年生の受験は大丈夫か”という声がありました。
ところがね、その当時の3年生は学力テストのデータを見ましても、非常に成績が良かったんですよ。
ひとつのこと(音楽)だけ集中して他が疎かになるのでは意味がないが、何事も集中してやると、正比例して他も結果が付いてくるようですね。
この3年生は、全員が高校入試に合格しました。
練習はというと、生徒はとても熱心でしたね。
これがまたね、顔を真っ赤にして歌うんだ。
初演の日、会場には47都道府県のほとんどから学校関係者が勉強に来られていました。
友好盟約町村 山形県三川町の中学生や、以前三川中に勤務しておられた先生なんかもいらっしゃって。
そのくらい注目を浴びていたんです。
そして歌い終わった後、アンコール前の拍手が止まなくってね、本当に長かった。
一度鳴り止むかと思うと、また大きな拍手が湧き起こる、まるで津波みたいだったね。





阿賀野川とともに歩んできた一生。


――この度、三川中学校卒業生の企画で「阿賀野川」のCDを制作することについてはいかがですか?

はい、満腔の賛意を表しています。
これをきっかけにして、合唱組曲「阿賀野川」が全国に歌い継がれるようになればいいと思います。
この方(葉月みなみ)は演歌歌手なんですってね。
いいね、演歌(笑)。


――最後のご質問です。山口さんにとって阿賀野川とは何ですか?

うーん…。そうですねぇ。私にとっては「運命の川」でしょうかね。
昔は橋がなかった。
つまり、川がそこにあったために、橋が必要だったんです。
そういった意味で阿賀野川を捉えれば、橋があったらまた人生も違っていたのかなと思います。
例えば、私が17歳の時かな。
九死に一生を得ました。
昭和23年12月、11名を乗せた船が沈没して、その内6名が亡くなりました。
生き残った5名も、今では私ひとりになってしまったけどね。
そういった暗い話もありますが、一方で明るい話をすると、我が家は川船運送で生活を営んでいました。
蟹も獲ったし、地引き網もやった。
それは阿賀野川の恵みということになりますよね。
川によって生活をさせてもらった。
阿賀野川とともに歩んできた一生みたいなもんです。



――ご協力、どうもありがとうございました。



山口 銀次
1931年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
1977年から1997年まで5期20年間の長きに渡り三川村長として村政の発展に寄与する一方、
1987年からは郡町村会長として地方自治の振興に尽力
現在書道結社太空会同人、社会福祉法人豊潤舎理事
著書に「橋のない村から」(東京図書出版会)がある

2011年11月5日土曜日

「第20回合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会(番外編)」

10月22日(土)、阿賀町文化福祉会館にて開催された第20回合唱組曲「阿賀野川」を歌いつぐ会。
アトラクションとして地元の阿賀野川混声合唱団による演奏発表が行われた。
阿賀野川混声合唱団は、合唱組曲「阿賀野川」が初演された翌年の平成4年に結成された。
それから20年間、合唱組曲「阿賀野川」を三川中学校や近隣の合唱団とともに歌い継いできた。
代表の柾木ゆり子合唱団長は、アトラクションの中で次のように語った。

今年も三川中学校の皆さんと一緒に「阿賀野川」を歌うとができて、とても幸せに思います。
今年は、3月11日の東日本大震災をはじめ、日本中に次々と災害が起こりました。
7月末の新潟・福島豪雨では、かつて経験したことのないような被害に遭われた方も多く、阿賀町の皆さんも大変にご苦労されました。
私も不安になったり、毎日の生活が落ち着かない時もありました。
でも、久しぶりに合唱練習を再開してからは、少しずつ気持ちにゆとりを持てるようになりました。
一緒に歌える友達がいることや、毎年中学生の皆さんと一緒に歌い継いできた「阿賀野川」の存在は、心の支えです。
 
 
《 リハーサルの様子 》

アトラクションでは、「川はだれのもの?」をはじめ全5曲を歌い上げ、熟練されたハーモニーを響かせた。
その深い歌声に観客は聴き入り、会場は優しい空気に包まれていた。


演奏曲

1. 川はだれのもの?
(作詩・作曲/みなみらんぼう)

2. 赤とんぼ
(作詩/三木露風 作曲/山田耕筰)

3. 県民の曲《新潟の賛歌》より 朱鷺のうた
(作詩/中村千栄子 作曲/岩河三郎)

4. 県民の曲《新潟の賛歌》より 秋の祈り
(作詩/中村千栄子 作曲/岩河三郎)

5. ほほえみ
(作詩/小田切清光 作曲/鈴木憲夫)


 阿賀野川混声合唱団の年内演奏発表会出演予定
11月20日(日) 阿賀町文化福祉会館
12月4日(日) 阿賀町みかわ会館