2011年11月14日月曜日

「作文『思い出したくない』」

三川中学校の生徒会誌第1号「三中(現「文の丘」)」(昭和43年発行)に掲載されていた作文。
そこには羽越水害を経験した少女の不安や悲しみがリアルに記されていた。
――約20年の時を経て、三川中学校に赴任したばかりの一人の音楽教諭がこの作文を目にする。
「村に爪跡を残した災害を題材に、自然豊な三川村を音楽で表現できないか…。」
この作文がきっかけで混声三部合唱組曲「阿賀野川」は誕生した。
ここに原文のまま掲載する。




「思い出したくない」

三ノ一   斎藤 美智子


私は思い出したくない。だから。この作文を書けといった時、とてもいやだった。

なぜ、こんなことを書かなければいけないのか?私はわかりません。……

先生がにくくなるみたいです。あれは、何時ごろだったかわすれましたが。

私は台所でいた時でした。一段下っている風呂場が水でいっぱいになっていました。

でもその時刻はかなりおそいと思います。ねむれなくて、おきて台所に行きました。

母はいろいろかたずけていました。まさか家が流されるとは思っていませんでした。

ですから半分、不安よりおもしろいと言った気持ちがあったみたいです。

それは今までこんなめにあったことがないんが、あんな気持になるんだと思います。

私も今まではそうでした。それからいつのまにか電気が消えていきました。

それでも、電池を照らし、二階にいろんなものをあげました。

電気機具類、重いものを下においた他は全部あげた。

どの位たったでしょうか。

雨の中に気味の悪い半鐘の音が耳を通りぬけました。

それを聞いたとたん、私は立つともなくすわるともなく震えてきました。

母、弟とともに、二階にあがりました。

でも二階にあがったとたん死ということが浮かびました。

前の家の玄関の戸の所へ、海の高波が押し寄せるように、泥水がどっとぶつかってきました。

そうなると人と水の戦いです。なかにあかりをもった人が一生懸命戸をささえていました。

でもそのころだったと思います。父が最後の最後になってさけびながらむかえにきました。

その時は川原の方の人は全部、学校に避難したあとだそうです。

茶の間までおりた時、ずずっとむねまでうまりました。

その時の家の中は、ゴーゴーと茶色の水が座敷の方から、風呂場の方へ流れて行きました。

胸までつかった私は、足の自由がききませんでした。

やっと玄関までくると父の腕につかまりました。それから外へ出ました。

そんな時まで父は隣の家ごとに叫んで歩きました。

うしろから明夫君達がついてきたように覚えています。

前からくる水、いいえ、川をくいっと押し進んできました。

ショートパンツしかはいていない。それにはだし。

しだいにしびれてきました。曲りかどなどは、そのまま足がとられてしまいそうになりました。

気をとりなおして、ぐっと父の手を強くにぎりしめて進む。

水の少ない家までつれていってくれたあと、又、外にとびだして行きました。

今とび出していったら死んでしまう。堤防は切れている。

こんな時、消防団長も何もないと思った。それっきり父は朝まで帰って来ませんでした。

あっさり朝までと書きましたが、その長かったこと…

昼近くなってからだろうか。やっと道路が見えて来ました。

避難した家は泥がひざのあたり、カエルがいっぱいいた。

高い家でした。そんな家でもそうだったのですから、他はどうだったろうか。

それから毎日毎日にぎり飯です。ねばった米飯もありました。

でもそれを食べなければ他に食べるものがない。

ふだんそっぽをむくにぎりめし、あんな時とてもおいしく、たいせつだ。

今でも川原などで自分の洋服があると、「悲しいね」と思いました。

雨の降るたびに震えるこの頃の私達です。



《 当時の写真:細越地区 旧三川小学校(現ふるさと学習館) 》


《 当時の写真:新谷地区 》


※当記事の内容は、大屋様と三川中学校の許可を得てここに掲載させて頂いております。