2011年11月8日火曜日

「山口 銀次 インタビュー」

平成2年11月、山々に囲まれた小さな村で大きなプロジェクトが動いていた。
それは、のちに20年間愛され、今日まで歌い継がれてきた合唱組曲「阿賀野川」だ。
山口銀次元三川村長が当時のことを振り返る。




水害をテーマとした鎮魂歌ですから、ひと際感慨深いものがありましたね。


――合唱組曲「阿賀野川」が今年で20周年を迎えましたが、今のお気持ちは?

制作する段階から、永く後世に伝えたいというのがひとつの願望としてあったものですから。
それがこうして、本当に今まで歌い継いでこられた。
みなさんにはとても感謝し、敬意を表して、感心しております。


――20年前、三川中学校から「合唱曲を作りたい」と聞いたときのことを教えてください。

そもそもこのきっかけというのが、当時の三川中学校の音楽の先生が発案されたものです。
それから校長先生が役場へおいでになって、そのお話を聞かせてくれました。
私は120%賛成して取り掛かった仕事です。
個人的にも、私の両親と兄、兄嫁、その子供の5人が8.28水害(羽越水害)で亡くなっています。
この水害をテーマとした鎮魂歌ですから、ひと際感慨深いものがありましたね。


――初演までの道のりで、思い出のエピソードなどはありますか?

作詩された山本和夫先生が、すこぶる何にでも感激する方でね~。
平成3年、山本先生が来村されたとき、私との会話の中で数え切れないほど足をパタパタさせ、テーブルを叩きながら共感の仕草をするんです。
詩人とはこんなに感性が豊なものかと感服しました。
また、合唱の指導をされた小林光雄先生も素晴らしい方でね。
音楽があまり得意ではない私でも非常に楽しくやれそうな気分にしてくれる、そんな指導をしてくださる先生でしたね。


――初演発表会の時の生徒さんはいかがでしたか?

実は当時、一部父兄の方から、“こんなに音楽ばかり練習していて、3年生の受験は大丈夫か”という声がありました。
ところがね、その当時の3年生は学力テストのデータを見ましても、非常に成績が良かったんですよ。
ひとつのこと(音楽)だけ集中して他が疎かになるのでは意味がないが、何事も集中してやると、正比例して他も結果が付いてくるようですね。
この3年生は、全員が高校入試に合格しました。
練習はというと、生徒はとても熱心でしたね。
これがまたね、顔を真っ赤にして歌うんだ。
初演の日、会場には47都道府県のほとんどから学校関係者が勉強に来られていました。
友好盟約町村 山形県三川町の中学生や、以前三川中に勤務しておられた先生なんかもいらっしゃって。
そのくらい注目を浴びていたんです。
そして歌い終わった後、アンコール前の拍手が止まなくってね、本当に長かった。
一度鳴り止むかと思うと、また大きな拍手が湧き起こる、まるで津波みたいだったね。





阿賀野川とともに歩んできた一生。


――この度、三川中学校卒業生の企画で「阿賀野川」のCDを制作することについてはいかがですか?

はい、満腔の賛意を表しています。
これをきっかけにして、合唱組曲「阿賀野川」が全国に歌い継がれるようになればいいと思います。
この方(葉月みなみ)は演歌歌手なんですってね。
いいね、演歌(笑)。


――最後のご質問です。山口さんにとって阿賀野川とは何ですか?

うーん…。そうですねぇ。私にとっては「運命の川」でしょうかね。
昔は橋がなかった。
つまり、川がそこにあったために、橋が必要だったんです。
そういった意味で阿賀野川を捉えれば、橋があったらまた人生も違っていたのかなと思います。
例えば、私が17歳の時かな。
九死に一生を得ました。
昭和23年12月、11名を乗せた船が沈没して、その内6名が亡くなりました。
生き残った5名も、今では私ひとりになってしまったけどね。
そういった暗い話もありますが、一方で明るい話をすると、我が家は川船運送で生活を営んでいました。
蟹も獲ったし、地引き網もやった。
それは阿賀野川の恵みということになりますよね。
川によって生活をさせてもらった。
阿賀野川とともに歩んできた一生みたいなもんです。



――ご協力、どうもありがとうございました。



山口 銀次
1931年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
1977年から1997年まで5期20年間の長きに渡り三川村長として村政の発展に寄与する一方、
1987年からは郡町村会長として地方自治の振興に尽力
現在書道結社太空会同人、社会福祉法人豊潤舎理事
著書に「橋のない村から」(東京図書出版会)がある