2012年5月19日土曜日

「小畑 昭八郎 インタビュー」

合唱組曲「阿賀野川」の詩の世界観を深く読み解くには、まず作詩者山本和夫という人物を知る必要がある。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。




先生は、僕の事を滅多に褒めないんだけど、その時だけだね。


――山本和夫先生についていろいろとお聞かせください。

僕は、山本和夫先生の実家とは近所に生まれ育ちました。
だから小さい時から先生のことは知っていたんですよ。
昭和28~9年頃、僕は高校を卒業すると東京の山本先生の家へ行くようになります。
当時先生は小平市にある都営住宅に住んでいらっしゃいました。
アルバイトを紹介してほしくって先生を訪ねて行ったんですが、だんだん仲が深まりましてね(笑)。
もう、日曜日になると、先生のところへ行ってたんです。


――思い出は何かありますか?

それがいっぱいあってねぇ(笑)。
僕は、腰巾着のように山本先生にくっついてた。
特にね、飲み屋はね…(笑)。
先生は小浜に帰ってくると、駅からすぐ僕のところへ電話をかけてくるんです。
“今、東京から帰ったきた。ちょっと出てこい!”と、仕事中にも関わらずよく呼び出されたね(笑)。


――結構お酒が好きな方だったんですか?

すごいですよ(笑)!
そんなわけでね、僕の酒好きも山本先生から教授されたようなもんです(笑)。
東京でもいろんなところへ連れてってもらいました。


――山本先生の作品で、印象に残ってるものはありますか?

「町をかついできた子」という童話があるんですが。
そのお話は、ここ若狭地方一帯が舞台となってるんです。
主人公は、明通寺の小僧で、敦賀からもらわれてくるんです。
敦賀はこの村より都会ですから、それで「町をかついできた…」というわけです。
でも、なかなか古い因習には染まらない。
そしていろんな事件が起こる…という物語。
山本先生の作品としては戦後の早い時期に作られた作品です。
教育映画にもなりましたね。


――面白そうなお話ですね!

ところで、小畑さんは小浜市立図書館で館長をされていたとお聞きしましたが。
そうです。
当時小浜市では、酒井家から寄贈された本がほったらかしにされていた。
山本先生は“アレをどないかしなさい”と市長に言うてね。
その時僕はちょうど図書館の司書の資格を持ってたもんですから、声がかかった。
僕は図書館を定年で辞める3年前くらいに、「酒井家文庫総合目録」というものをまとめ上げました。
約700ページものぶ厚いものなんです。
これを山本先生に送ったらね、“こういうのを紙碑(しひ)と言うのだ”と、長ーい手紙をくれたんですよ。
あの時はもう涙が出たね。
先生は、僕の事を滅多に褒めないんだけど、その時だけだね~。
“お前は、ふるさとの「百科事典」になりなさい”と。
まぁそんなことがありましたね。




――それでは最後の質問になりますが、小畑さんにとって「山本和夫」とは?

僕にとっては、近すぎて…。
「親父」しかないなあぁ。
僕が詩を書くようになったのも、山本先生の影響を受けてなんですよ。
会うと、“(詩を)書いとるか?書いとるか?”と言ってねぇ。
それが口ぐせだったね。



小畑 昭八郎
1933年生まれ
福井県小浜市池河内出身
元小浜市立図書館館長

2012年5月15日火曜日

「合唱×ROCK『阿賀野川』中間発表試聴会感想 Part3」

平成24年2月29日、阿賀町立三川中学校にて、「合唱×ROCK『阿賀野川』中間発表試聴会」が開かれ、卒業を間近に控えていた3年生にできたてホヤホヤの音源を届けることができた。
原曲「合唱組曲『阿賀野川』」を20周年目に歌い継いだ彼らには、どう感じたのだろうか。
当日書いてくれた感想文をシリーズで紹介する。



すごくきれいだったし、合唱の「阿賀野川」とはまた違う雰囲気で聴けました。
歌のリズムなどに迫力があって、大災害の情景が浮かんできました。
災害から立ち上がっていくところが、うまく表現されていて良かったです。
(3年生女子生徒)


1.「阿賀の里」
 声がとてもきれい!!
 ベースを教えてもらいたい(`・ω・)
 アレンジがかっこいい。
2.「ふるさとの将軍杉」
 オカリナいいーー(´ω`)♪
3.「羽越大災害」
 これ好き!!ヤバイ!!
 やろうと思えばヘドバンできるw
 めっちゃかっこいい(*´艸`)
4.「悲歌」
 演歌!?
 最後のところ、ギターならもっと好きです!!
5.「光にむかって」
 POPですねぇ♪
 「退けばふさがり、進めばひらく」のところから「~たくましくなる」のところがカッコよかった。
総合的
 ROCKだけじゃなく、いろんなジャンルの音を聴けた気がする。
 何回聴いてもベースの音にはあこがれる。
(3年生女子生徒)


・2人の女性の声がとてもよい。
・三線が入った演奏がよかった。
・3曲目「羽越大災害」は激しいロックでかっこよかった。
・4曲目「悲歌」は文字通り悲しい曲だけど、その悲しさがすごく伝わってきた。
・5曲目で一気に明るくなり、楽しさが伝わる曲だった。
(3年生男子生徒)


1.「阿賀の里」
 楽しそうな合唱の雰囲気が残っていました。
 合唱はゆっくりだけど、けっこう早いリズムでした。
2.「ふるさとの将軍杉」
 三線やオカリナが入っていて、明るく楽しそうな感じが伝わってきました。
3.「羽越大災害」
 最初の雨の音が大災害の雨もようで、合唱の授業のときに教わったようなイメージでした。
4.「悲歌」
 合唱の雰囲気が少し残っていました。
 この歌の悲しさが表現されていました。
 悲しいところから明るくなることろがよかったです。
 最後のピアノもよかったです。
5.「光にむかって」
 二胡の音がとてもよかったです。
 歌声が力強く、合唱のときのような楽しさと、「頑張るぞ」という地元の人の感じが出ていてよかったです。
(3年生女子生徒)

2012年5月9日水曜日

「松井 正 インタビュー」

合唱組曲「阿賀野川」の詩の世界観を深く読み解くには、まず作詩者山本和夫という人物を知る必要がある。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。




私にとっては好々爺!


――山本和夫先生との出会いについて、お話を聞かせてください。

私は、地元小浜市の若狭高校の卒業生なんです。
その若狭高校の校歌が、「山本和夫作詩、山田耕筰作曲」なんですよ。
当時は山本和夫さんがどんな方なのか、私は全く知らなかった。
生きてる人なのか、存在そのものすら知らないような感じでしたね。
卒業してから、私は若狭高校をはじめとして高校の教員をしとったんですけど。
ある時、定時制の生徒がやってきまして、“「わかさ文学(※)」を作るから、参加してくれないか”ということでした。
昭和47年の頃ですね。
それで私は2号目から若狭文学会に入ったんです。
その後、わかさ文学の精神的支柱である山本和夫先生と出会いました。


――印象に残っていることはありますか?

覚えてるのはね、“結婚は恋愛でないとイカン”と先生がおっしゃるもんでね。
“見合いでもいいんじゃないですか”と反論すると、“いや、やはり恋愛だね!”とおっしゃる。
「恋愛至上主義」という言葉がありますが、まさにそんなお人でしたね(笑)。
山本先生は、この小浜市近辺と県外なども入れて、30近い学校の校歌を作詩してはりますね。
小、中、高校と。
校歌の作詩ではたくさん残されてますね~。
あと、「阿賀野川」もありますが、基本的に童話作家なんですよね。
だから非常にロマンチックな人でしたね。


――松井さんにとって、山本先生はどのような存在でしたか?

私にとっては好々爺!
とても感じのいい、高ぶらない、優しいおっちゃんだね。
これで私も76歳になりますが、今までたくさん会うてきた人の中で、あんないい人は滅多にいないと言えますね。
もう指折り5人以内に入るかな。
3人でもいいかな(笑)。
本当にそれぐらい優しい人柄でした。


――ご協力どうもありがとうございました。





松井 正
1935年生まれ
福井県小浜市清滝出身
NPO法人ティームス評議員、元高校の校長


※「わかさ文学」
福井県若狭地方の文学界を40余年もの間牽引してきた、若狭文学会による同人誌。
1970年創刊以来、年1~2回発行。
1980年から「若狭文学」と題字を変える。
故山本和夫氏の生誕100周年を記念した特集を組んだり、県内小中学生を対象とした詩のコンクールを創設したりと、幅広く活動。
2011年に発行された49号をもって、惜しまれながらの終刊となった。

2012年5月6日日曜日

「酒井 楢一 インタビュー」

昭和42年の羽越水害――。
村で最も多くの犠牲者を出したのは、石間(いしま)地区である。
今回、被災直後の大変貴重な写真を入手することができた。
その写真とともに、当時の様子を伺った。



とにかく逃げるので精一杯という感じだった


――羽越水害を体験した時の事を教えてください。

雨は(8月)26日からずっと降っていたね。
私は26歳の頃だったかなぁ。
三重県での仕事を辞めて帰ってきてから、ほんの1週間後の出来事でした。
この辺りでは、「土石流」なんて言葉を聞いたことがなかったんですよ。
山の方から土砂が襲ってくるなんて、想像もできなかった。
阿賀野川本流の氾濫だったら、年寄りの人は経験していましたからね。
水がどのくらいまで来たら避難するとか、そういうのはだいたいわかっていたんです。
だから私も阿賀野川の水位に気を配りながら、家の片付けをしていました。

その頃、部落内を流れている沢川の上流では、木々が倒れて川の水をせき止めていた。
だから、沢川の水が流れてこないってことで、みんな不思議がっていましたね。
でも、上の方でダムができて水が溜まっているなんて、その時は誰一人考えもしなかった。


――予想できなかった、というのが今となっては悔やまれますね。

そうだね。
みんな阿賀野川の水位しか気にしていなかったからね。
一度でも「土石流」というものを経験していれば対策も考えられたのかもしれませんね。


――そして、そのダムが決壊してしまったんですね。

あれは明け方前だね。
家では、祖母と父、母、そして私の4人が住んでいました。
1階で片付け作業をしていたら、いきなり“ドーン!”と大きな音がして。
土砂がぶつかり、縁側の扉が破壊されてました。
母親を連れて逃げよう、と思った時にはもう腰くらいの高さまで水が入ってきていました。
まだ夜明け前なので外は真っ暗ですよ。
出たら、母親が流されてしまったんですよね。
私は慌てて手を掴みました。
もしその手を掴めなかったら…。

父親は、祖母と2階に上がって避難できました。
その時は自分の家のことしか考えていなくて、他所がどうなっているかなんてわからなかったね。
ほとんどの人が、高台へ避難した先で、土石流に飲み込まれてしまった。
悲劇だよねぇ…。

 
酒井氏自宅(左)と、隣の家(右)


――避難する時や被災後は、どんなお気持ちでしたか?

とにかく逃げるので精一杯という感じだね。
「ドーン!」ときてから、あっという間でした。
頭の中は真っ白。
夜が明けてくると、行方不明者がいるとか、だんだん状況がわかってきました。
土砂で49号線は遮断されているから、石間そのものは孤立した状態でした。
丸一日くらいは連絡がまったく取れなかったんじゃないだろうか。
怪我人は戸板に乗せて隣町まで運んでね。

その後はようやく自衛隊も来てくれて、村の消防団と遺体の捜索にあたりました。
重機で土を掘るわけだから首や足が取れたりして…。
どこに埋まってるのかもわからないし。
大変なんてもんじゃなかったね、あれは。

 
村民消防団・自衛隊必死の遺体捜索

――この水害の体験を、三川小学校の児童にも語る機会があったそうですが。

はい。
私が区長をやっていた時に、小学校の先生がいらっしゃって。
是非、水害の事を子供たちに伝えたいと、依頼を受けました。
6年生になると、「羽越大災害」を勉強して文集を作ってたみたいでしたね。
それからも3年間くらい、年に1回、小学校へ行ってお話をさせてもらいました。
みんな真剣に聞いてくれてましたよ。

 
落ち着きを取り戻した上の沢川(左)、山から土砂となって運ばれた大きな石(右)

 
8.28水害殉難者告別式

――この悲劇を風化させないために、子供たちにもしっかりと伝えていかなければいけせんね。
貴重なお写真のご提供、インタビューのご協力、どうもありがとうございました。




酒井 楢一
1941年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
26歳の時、羽越水害を体験
1999年から2010年まで石間地区の区長を務める