2012年1月25日水曜日

「山岸 青里 インタビュー」

2011年12月――。
街はクリスマスムードが高まる中、三川中学校の音楽室から「遠い日の歌」を練習する3年生の歌声が響いてきた。
その中心でピアノを奏でるのは、今年で7年目の山岸青里先生だ。
三川中学校音楽教諭として、6年間という長きに渡り合唱組曲「阿賀野川」を教えている。
毎年どのように指導にあたっているのか、「阿賀野川」に対するその想いを伺った。



生徒が精一杯歌っていることが、伝わっていけばいいなぁと思います。


――山岸先生が初めて合唱組曲「阿賀野川」と出会った時のことを教えてください。

今から7年前になるんですけど、国語の教師として三川中学校に赴任しました。
もともと専門は音楽なんですけどね。
その時に、当時の音楽の櫻庭先生から“生徒と一緒に「阿賀野川」を歌いませんか?”と何度もお誘いいただいたので、“じゃあ、歌ってみようかな”と思い一緒に歌い始めました。
実際に歌ってみたら、まあ素敵な曲で!
本当にメロディーが綺麗ですね。
「言葉」と「曲の背景」と「音楽」がすごく一体となっている。
スケールが大きくて、ピアノと合唱と言うよりもオーケストラで演奏しているようなイメージがありますね。
歌っていても本当に楽しいです。


――最初は生徒さんと一緒に歌ってたんですね~。
それから授業を受け持つように?

翌年に櫻庭先生は転勤されたので、その後を私が引き継ぐかたちとなりました。
生徒も、当時の3年生を中心にみんな熱心でしたし、私も「その年なりに一番いいものを創り上げられたらいいなぁ」と思って。
生徒たちの熱心さに助けられたって感じですね~。


――記念すべき20周年目の「歌いつぐ会」はいかがでしたか?

今年の3年生は特に“20周年は自分たちが背負うんだ!絶対成功させるんだ!”と、すっごい気合が入ってました。
4月の第1回目の「阿賀野川」練習の時から、本気で歌ってくれて。
逆に心配になりましたね(笑)。
“このテンションが10月の発表会まで持つのか?”って(笑)。


――確かに「歌いつぐ会」本番の時、特に3年生の気合は伝わってきましたね~。
一生懸命でした。

そうですね。
第19回目の「歌いつぐ会」が終わった瞬間から“来年は20周年!自分たちの番だ!”って、気持ちを切り替えていましたね。


――授業での練習はどのようにされているのですか?

「何時間目はこういうふうにやる」というような練習の進め方は、はっきりとは決めていないんです。
その子たちの様子を見ながら組み立てていくようにしています。
リーダータイプの子がしっかりしている学年なら、パート練習をたくさん取り入れて自分たちで解決していけるようにしたり。
毎年進め方は違うんです。
私も生徒も「その年の『阿賀野川』がこれまでで一番良かった。」って思えるように創り上げていきたいなぁと考えています。
聴いてくださる方にとっては、保護者の方にしても、きっと前のお子さんの時のイメージとかがあると思うんですけれども。
どれが本物とか、そういうことじゃなくて、その年その年で、生徒たちが精一杯歌ってるっていうことが伝わっていけばいいなぁと思っています。


――山岸先生にとって、阿賀野川とは?

生徒の素晴らしい面を見せてくれる大事なものだなぁって思います。
「阿賀野川」を歌っていく中で、“この子がこんなに変わってくれるんだ”っていうのが3年間で見られたりするんですよ。
他の学校でもこんな素晴らしい曲はないわけですしね。
確か今、小学1年生か2年生に、初演を歌われた卒業生のお子さんがいらっしゃるとかで。
親子二代で歌える日も遠くないので、楽しみですね。



山岸 青里
1978年生まれ
新潟県西蒲原郡弥彦村出身
音楽教諭 専門はピアノ
2005年より三川中学校に勤務

2012年1月22日日曜日

「清野 一太 インタビュー」

合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。




――最初に「阿賀野川」との出会いを教えてください。

初めて聴いたのは、小学3、4年生の時です。
姉が2人いるんですけど、中学校で歌ってるのを聴きに行きました。
大人数での合唱って、迫力あるなぁって思いました。
それから、6年生になって初めて「ふるさとの将軍杉」を歌ったんですよね。
授業で練習してから歌うという感じだったので、そこで中学の予習ができたみたいで良かったです。


――思い出などはありますか?

思い出は…。
練習中、何人か倒れる人が出たってことですね。


――えっ!?倒れたんですか?

はい…。
中学校の体育館で練習してた時でした。
倒れたって言うか、いきなりしゃがみこんで…。
その後は、ずっと横で休んでましたけどね。
まぁ、夏の暑い中ずっと歌ってましたからね。
僕は全然大丈夫でしたけど。
頑丈なんで(笑)。


――あぁ…。みなさん相当頑張って練習されてたんですね。
合唱組曲「阿賀野川」が、20年間三川で歌われていることについていかがですか?


僕の近所の先輩方が真面目に歌ってたって、さっき聞いたんですけど。
いやー、信じられないです(笑)。
意外です!
まったくそんなふうには見えないので(笑)。
僕は今16歳で、この合唱曲が自分の生まれる前から歌われてたって考えるとすごいことですね。
この先どこまで続いていくのかも楽しみです。


――思い入れの強い曲はどれでしょうか?

第五曲「光にむかって」です。
僕らの学年では特に頑張って練習しました。
なので自信を持って、一番うまく歌えた曲。
「歌いつぐ会」の後に津川で開催された、郡の音楽会でも「光にむかって」を歌いました。
3年生最後の合唱だったので、思い出に残ってますね~。


――「光にむかって」は希望に満ちた素晴らしい曲ですね。特にどのあたりがお気に入りですか?

えーっと、そうですね~。
……か、歌詞カードを…(笑)。
う~ん…、ここです!
「冬将軍が荒れ狂って…」のところ。
この力強い歌詞がなんか好きですね(笑)。


――清野さんは、高校では器楽部に所属しているとお聞きしましたが。

まぁ入ってるって言っても、ほとんど行ってないんですけど(笑)。
でも、飛翔祭っていう高校の文化祭で、友達や先輩がライブしてるの観てると“カッコイイなぁ”って思います。
だから最初、「阿賀野川」をロックで演るって聞いた時はビックリしました。
どんなふうになるんだろうって。
僕もやろうかな、ギター。





清野 一太
1995年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成22年度三川中学校卒業生
パート:テノール
新潟県立新津工業高等学校1年生

2012年1月18日水曜日

「皆川 祐也 インタビュー」

合唱×ROCK「阿賀野川」プロジェクトリーダーであるミナガワトオルの同級生。
中学を卒業後、三川村混声合唱団(現阿賀野川混声合唱団)へ正式に入団し、現在最年少ながらも最も長く「阿賀野川」を歌っている一人。
“当たり前のことを当たり前にやってる感じ”と、気取らない姿勢でインタビューに応えてくれた。



とにかく歌い継ぐことって大事でね。
「継続は力なり」とはこのこと。



――最初に「阿賀野川」を聴いた時、どのように感じましたか?

私が中学1年になる頃には、もうすでに2、3年生らによって歌われていました。
その時は、“これは2、3年生だけが歌うものなんだな”としか思っていませんでしたね。
初演でも私達はステージで「阿賀野川」を歌ってるわけではないんです。
でも確か前座で何か歌ったなぁ、2曲ぐらい。
何を歌ったかまでは、全然覚えてない(笑)。
私達1年生の「阿賀野川」練習がようやく始まったのは、初演の後からだったかなぁ。
そのあたりからですね、“次は自分たちが引き継いで歌うんだ”という意識に変わったのは。
3年生が卒業してしまったら、次は2年生と私達しかいませんからね。


――音楽の授業ではどんな思い出がありますか?

音楽の授業は、合唱しかやってないんですよね~。
他のこと、例えば楽器に触れてみたり、音楽の歴史を学んだりってのがなかった。
普通の学校の授業とは違ってたんだってことを知るのは、だいぶ後になってからですけど(笑)。
当時は、「音楽の授業=(イコール)合唱」だと思ってました。


――「阿賀野川」以外にもどんな合唱曲を歌ったのですか?

そうですね。
「十字架(クルス)の島」、「海に沈んだ馬」など、岩河先生作曲の歌もいろいろ歌いましたけど…。
でも特に印象深いのは、重奏(※1)でやった「いざ起て戦人よ」(※2)かな。
2年の時に同級生の男子4人だけでBSNのコンクールに出たんです。
その中には徹(ミナガワトオル氏)もいたんですよ。
コンクール前夜、先生と4人のメンバーとで集まって、私の家の車庫で練習をしたんですよ。
そして、次の日(本番の日)の早朝も、4人で電車に乗って会場へ向かってね。
途中、先生と合流するってことで、新関駅で降りて…。
そこでも練習が始まりましたね。
そんなふうに一生懸命練習したんだけど、コンクール「重奏の部」にエントリーしてるのが三川中学校だけっていう…(笑)。
忘れられない思い出ですね~(笑)。



――皆川さんは中学校卒業後も合唱団に在籍し、今日まで「阿賀野川」を歌われてきたわけですが。

そうです、長いですね。
入団したての頃は、まだ他にも同級生、それこそ徹とかも合唱団にいたんですが。
高校生になるとなかなか練習に参加できなくなっていって。
一人辞め…二人辞め…、とだんだん人数が減っていきました。
だから私も、いつ辞めても不思議じゃなかったのかもね、今思えば。
それが、気付いたらこれだけ長い期間歌い続けることになってた。
人生の半分以上は合唱団にいることになっちゃってる(笑)。
だから(練習がある)毎週金曜日は「合唱の日」というように、もはや私の生活の一部となってます。


――ベテランですね。合唱団での今後の目標や夢などありますか?

うーん、そんな大そうなこと考えたことなかったからねぇ~。
特に大きな会場で歌いたいとか、そういうんじゃなくって。
ただ、当たり前のことを当たり前にやってる感じだから。
とにかく歌い継ぐことって大事でね。
「継続は力なり」とはこのことですね。


――さて話は変わりますが、今年の夏、新潟・福島豪雨を体験していかがでしたか?

夏の水害はすごかったです。
幸いにも犠牲者は出ませんでしたが、昭和42年の羽越水害よりも酷かったと聞きますね。
自宅の30~40メートル先まで川が増水してましたし、阿賀町役場三川支所なんかも1階が全部冠水しました。
特に被害の大きかったのは、吉津地区と谷沢地区なんですが。
私は吉津地区の復旧作業を手伝いに行きました。
縁の下に詰まった泥をかき出そうにも、水を含んでるから重くって。
そして臭いもきつい…、ホントに大変でした…。
また、谷沢地区にある谷花小学校で私達合唱団は練習をしていましたが、水害があってからは1ヶ月間活動ができませんでした。
…今年は3月に地震があって、津波による水害だったり、とにかく災害の多い年で。
それに加えて、合唱組曲「阿賀野川」が20周年という節目を迎えたってことで。
合唱団もそうですし三川中学校の生徒さん達も、やはり今年は特別な想いがありますね~。



皆川 祐也
1978年生まれ
平成5年度三川中学校卒業生
元三川中学校生徒会長
阿賀野川混声合唱団に所属
パート:バス


(※1)重奏
複数の人が同時に演奏を行うアンサンブルのうち、各パートを一人ずつ演奏するもの。
少なくとも二人以上が同じ演奏をしているならば「合唱」と呼ばれる。

(※2)「いざ起て戦人よ」
作曲:James McGranahan、日本語歌詞の作詞:藤井 奏一郎による合唱曲。
原曲は、1911年に出版された「The Song of the Soldier」作詞:Daniel W Whittle。

2012年1月16日月曜日

「第20回 合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会 メッセージボードより Part5」

平成23年10月22日、阿賀町文化福祉会館にて「合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会」が開かれた。
記念すべき第20回目となる今年のスローガンは、「届けよう 希望の歌 ~20年分の思いとともに~」。
三川中学校の生徒達は、昭和42年三川村に甚大な被害をもたらした羽越水害の悲しみや復興への希望を、今年7月の新潟・福島豪雨と重ね合わせていた。
当日、会場入り口に設置された生徒達直筆によるメッセージボードから、その言葉の一部を紹介する。




今年は、20周年という記念すべき年なので、きいている人達に感動してもらえることができるように、頑張りたいです。
また、去年より三曲増えたので、最後まで集中し、歌いたいと思います。
歌っている時は、音の強弱に気をつけて、声のずれがないようにしたいです。
そして、混声合唱団の方達に合わせ、歌っていきたいと思います。
(2年生男子生徒)


今年は、20周年の大事な年なので大きな声で一生懸命歌ってお客さんにいい歌をきいてもらいたいです。
(1年生男子生徒)


今まで練習してきたことを十分に発揮して、聞いてくださる方々に感動していただけるような歌にしたいです。
そして最高の歌にしたいです。
先輩方の思いを引き継いで一生懸命に歌うので、どうぞお聞きください。
(1年生女子生徒)

2012年1月12日木曜日

「山口 春市 インタビュー」

阿賀野川ライン舟下り――。
悠々と流れる阿賀野川を、四季折々の表情を映す渓谷美を眺めながら旅をする。
その案内役は、阿賀野川を愛する個性豊かな船頭たちだ。
今回、ベテラン船頭山口氏に舟下りのことや羽越水害のことを伺った。




自分は家ごと濁流に流されてしまってもいいと、覚悟はしてましたね。


――船頭になったきっかけを教えてください。

以前の職場で60歳の定年を迎える時に、“船の運転免許が取れたらここ(阿賀の里)で一緒に働きましょう”と友達を約束をしたんです。
それで船舶4級の免許を取得して、再就職ということで船頭になりました。
以前は「山」での仕事をしてたんだけども、今度は「川」へ来たわけだから、何をやらせてもらっても新発見でした。
ロープを取る方法にしても、船を動かす方法にしても、全部が新発見でしたね~。
最初の頃はね、操舵をやってたんだけどさ。
今日までは、ほとんどガイドの方をやってきました。


――船頭になって大変だったことはありますか?

大変なのはね、やっぱり洪水になるとロープを取って船を移動させたりすることかねぇ…。
だけど、いつもは楽しいことばかりですよ。
お客さん相手だからね(笑)。
楽しくしゃべって、それでお客さんが自分の話に乗ってくれた時なんかは嬉しいね。
私は雑談とか好きな方だから。
聴いてくれるお客さんはありがたいなぁと思ってます。


――特に印象に残ってる思い出は?

タレントの森公美子さんが来た時なんかは今でも覚えてます。
まだ私が船頭なってから2年目ぐらいの頃でしたかね。
ちょうど私がガイドを務めた船だったんです。
夏の暑い日でね、虻やメジロが飛んでるのを見て森さんが、“私が捕ってあげます!”なんて言ってね(笑)。
気さくな方でしたね~。
あの頃はタレントさんがいっぺぇ(いっぱい)来たんだわ。



――山口さんは五十沢のご出身とお聞きしましたが。
羽越水害のことは覚えていらっしゃいますか?


あの日は、子供たちを負んぶして住民を避難させてました。
激流に足を取られないようにロープに捕まりながら。
その後もどんどん水が増えてきてね。
そこの現場には消防団は私しかいなかったから…。
“この子供たちをどうやって守ったらいいかな”って考えてました。
タンスの引き出しに乗せて流してやろうかな、とか。
それでどこかへ無事に流れ着いてくれればありがたいなって。
自分は家ごと濁流に流されてしまってもいいと、覚悟はしてましたね。

大きな牛もいたんだけどね。
縄でくくり付けられているから逃げるに逃げられないでしょ。
だんだん水に浸かっていくのを見てて、かわいそうでしたね。
しまいには鼻の頭だけしか見えなくなってしまった。
でも、そこからだんだん水も引いてきて、この牛もなんとか助かったみたいでしたね。

私の自宅は山の方にあったので特に被害もなく、心置きなく避難誘導とかできましたけど…。
消防団の人でも自宅が流されたとか、被害に遭った方はいっぱいいるんです。
実際にああいう状況になると、やっぱり自分の家が心配なんでしょうね。
家に帰ってしまって、消防団として働きに出た人なんて、そんなに何人もいなかったんだよね。
だから大変でした。


――合唱組曲「阿賀野川」はこの羽越水害がテーマとなっているんです。

そうなんですってね。
5年くらい前だったかな~。
1回どこかで聴いたことがあります。
“立派に歌ってるな~、いい歌だな~”と感心して聴いておりました。
20年間歌い継ぐってすごいことですね。


――最後に、山口さんにとって阿賀野川とは?

うーん、そうだねぇ…。
「恵みの川」ですかね。
阿賀町だけじゃなく、阿賀野川に沿って生活している人々は、みんなそう思っているでしょうけど。
この阿賀野川には助けられているな、と日々思います。



山口 春市
1933年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
1993年から阿賀野川ライン舟下り船頭ガイドとして活躍中
船頭の中でも地元方言がピカイチで、観光客を大いに楽しませている

2012年1月9日月曜日

「本間 一弘 インタビュー」

合唱組曲「阿賀野川」が初演された翌年に三川村混声合唱団(現阿賀野川混声合唱団)は結成された。
母なる阿賀野川のふもと、四季折々に変わるその姿に大自然の偉大さを感じながら、大切に歌い継いできたという。
去る12月4日、阿賀町みかわ会館で行われた演奏会の終了後に、合唱団メンバーからお話を伺うことができた。




合唱っていうのは一人ではないからね。
大勢で心をひとつにして歌うのは気持ちいいです。



――合唱組曲「阿賀野川」を最初聴いた時、いかがでしたか?

最初聴いた時の印象ってよりも、私が合唱団に入ってからの印象の方が強いです。
「阿賀野川」を歌いつぐ会で中学生と一緒に歌った時の感動は忘れられません。
中学生の歌声なんかも、その年ごとによって違うからね。
それぞれの年にしか出せない良さがありますよね。


――阿賀野川混声合唱団に加入したきっかけは何だったのですか?

最初は、女房の方が先に一人で行ってたんですよ。
だから仕事へはね、いつもは車で一緒に出勤するんだけど…。
練習のある金曜日は朝車2台で(仕事に)行って、終わると私は家へ帰るし、女房は三川へ行く、というような生活だった。
練習やミーティングが長引いたりすると帰りも遅くなるでしょ。
土手から下に落っこちてないかな、とか心配で(笑)。


――へぇ。いいですね、ご夫婦一緒に参加されて。
ご自宅でも合唱のことを話し合ったり、練習などもされるんですか?


いや、それはない(笑)。
でもね、合唱に行くこと自体、俗世間から離れるような感覚ですね。
普段の生活というか、現実とは違う空間に踏み入れる感じかな。
そこまで自分の気持ちを持っていくっていうのも、疲れているとなかなか大変なんだけどね。
歌ってる時なんかは、仕事のこともいろんな嫌なことも忘れられるからいいですね。
特別な時間ですよね。
練習はやっぱり、楽しいです!
人と人との繋がりもできるし。
合唱っていうのは一人ではないからね。
大勢で心をひとつにして歌うのは気持ちいいです。


《 発表演奏会の様子(12月4日 阿賀町みかわ会館) 》


――今日の発表会を終えられて、いかがでしたか?

聴きに来てくれたお客さんの顔ぶれが新鮮でしたね。
今日は特にそれを感じました。
真剣に耳を傾けてくれているのが、ステージからもよく見えて。
“あぁ、やっぱりこっちも一生懸命歌わないといけないな”と改めて思いました。
第三曲「羽越大災害」や第四曲「悲歌」は羽越水害がテーマとなってますよね。
実際に水害を体験した人は当時のことを思い出して聴いてくださってるんだろうね。
歌ってる方としては、思い出してその想いに耽(ふけ)ると歌が疎かになるから、必死にこう堪えてます。


――今後の目標などはありますか?

そうだねぇ。
もうちょっとレベルアップ(笑)。
…したいんだけど、なかなか難しいなぁ(笑)。
でもね、これは和久井先生が以前言ってたんだけど。
私たちの合唱団は“本番に強い”って(笑)。
本番になると力を発揮するみたいだね。
ただ歌うだけじゃなくって、言葉をちゃんと語ろう、届けようという想いがないといけません。
今日の発表会の時は、みんなそういう意識でやってるなって、私も歌いながら確かに感じましたね。
これがいつもできるようになれば、言うことないね(笑)。


――本日はおつかれさまでした。そして、ご協力ありがとうございました。



本間 一弘
1945年生まれ
新潟県新潟市江南区出身
新潟市内にて自営業を営んでいる
阿賀野川混声合唱団には1998年に加入
パート:テノール

2012年1月6日金曜日

「齋藤 將弘 インタビュー」

合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。




――「阿賀野川」を初めて歌った時のことを教えてください。

“えっ!?何これ!?”…って感じかな。
“教科書使わないの?”っていう。
だってね、2年生の授業の最初に、わらばん紙の楽譜を手渡されたんだよ。
“これを覚えろ”って言われて(笑)。
それが音楽の教科書の代わりでしたね。
最終的に、そのわらばん紙の楽譜は50枚くらいになりました。


――あっ、最初はわらばん紙の楽譜だったんですね~!

そう。岩河三郎先生直筆の楽譜。
中学校に郵送で送られてきたやつを、岩崎先生(音楽教諭)が人数分コピーして配ったんだね。
ページ番号も書いてないから、順番メチャクチャになって大変でしたよ。
またその楽譜がね、何書いてあるか読めねんさ(笑)!
音符なんか「おたまじゃくし」というよりは「点」だった。
その「点」すら書いてないやつもあったよ。
あれでよく歌ったよなぁ~…(笑)。


――思い出に残ってることはありますか?

初演の最後アンコールも歌い終わり、幕が閉まった後は感動的でした。
ピアノ伴奏をされた畑野かん奈さんが、私達生徒へ感謝の言葉を言うんです。
“みなさん、最後までありがとうございました。”って。
他にも山本和夫先生、岩河三郎先生、小林光雄先生(当時国立音楽大学教授で三川中学校生徒の発声を指導)もみんないらっしゃった。
初演のCDにも収録されてない、舞台裏の感動シーンが、今でも思い出として残ってますね。
だって、4月から練習が始まって、8月に発表会でしょ。
わずか4ヶ月でよく覚えたなぁと思って。
“あぁ…、終わっちゃった…”っていう開放感みたいなのと、やり遂げたっていう達成感と。
何とも言えない舞台裏でした。

あと、私が3年生の時のBSNこども音楽コンクール。
アレも忘れられないなぁ…。
歌い終わってから、アナウンサーのお姉さんがインタビューをし始めて…。
私のところに来たんです。
…ビックリしたね(笑)!
それで、“どんな指導を受けて練習をしてきましたか?”みたいなことを質問されて…。
“忘れました!”って答えたっけね(爆笑)!
ちなみにそのステージ上には、徹(ミナガワトオル氏)もいましたよ。


――初演から20年。また「阿賀野川」を歌ってみようとか思いますか?

うーん。当時から歌詞も変わってるし、歌い方も私達の頃とは違った表現で歌われてますから、無理でしょう。
一見すると大きな違いはないように思われがちですが、私なんかは初演の頃に身体に染み込ませたものですから。
だから今、楽譜を見て歌おうとしても、歌の表現についても、音程や発音などについても、無理でしょうね~。
たぶん、当時に身体が覚えたまま歌ってしまう。
ご飯食べてる時間より、歌ってた方が長かったくらいですから。


――なるほど~。それくらい岩崎先生の指導に熱が入ってたんだなぁと想像できます。

通知表で「9」しかくれなかったけどね(笑)。
先生の引っ越し手伝ったのに(笑)!
あぁ、あれは卒業した後か。
かわいがってもらってましたね~。
寿司をご馳走してもらったり、上川へ一緒に松茸採りにまで行きましたよ。


――齋藤さんは合唱団にも在籍してたそうですが。

ほんと一時期ね。
あの時は庄司公民館長にはとてもお世話になりましたね。
あの方がいらっしゃったから、今日まで歌い継がれてると言ってもいいくらいですよ。
三川村混声合唱団(現阿賀野川混声合唱団)を立ち上げ、あの頃かなりの努力をされてたと思いますよ。
私達のような高校生が、電車乗って、自分が降りる駅を通り越して練習に来てくれるのに、“夕飯も食べないでかわいそうだ!”って言ってね。
全部自腹で用意してくれてたからね。
私は、庄司さんのことを当時から慕ってましたよ、親父のようにね~。


――阿賀町はどんなところですか?

他所に出た人間じゃないからよくわからないけど、ずっとここに居るってことは、良い所だからじゃないのかなぁ。
具体的にココがってのは言えないよね。
この土地を一度離れた人は、やっぱり外から改めて地元の良さを発見することができるだろうけど。
井の中の蛙かもしれないけど、この町というか村、部落…、地域って言ったらいいかな。
とにかく、私の住んでるココはとても住み心地が良くて好きです。
世代を越えて、常に集まれる仲間とも繋がっていられるのも、この地域だからこそなのかもね。




齋藤 將弘
1977年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成4年度三川中学校卒業生
パート:バス
斉藤電気工業 代表

2012年1月3日火曜日

「平等寺薬師堂」

重要文化財「平等寺薬師堂」

「平等寺」は、平安時代の末に武勇で知られた陸奥鎮守府(むつちんじゅふ)将軍 平維茂(たいらのこれもち)が創立した寺と伝えられる。
はじめ天台宗であったが、現在は曹洞宗の名刹となっている。
当初は「平党寺」と書いたのだが、のちに「平等寺」と書くようになったという。

岩谷の水上山に城を構え、越後から信濃・出羽にかけて勢力のあった維茂は、ある時舟に乗って阿賀野川を下った。
「竜の口」という所へさしかかった時、一寸八分(約5.5cm)の黄金の薬師如来が維茂の目に触れた。
輝くばかりの美しさに感嘆し、お堂を岩谷に建てて安置したと伝えられている。
その後200余年を経る間にしばしば水や火の災害にかかり、非常に衰退した為16回にわたって修繕されたが、やはり時の流れとともにますます衰え、薬師如来を雨ざらしのまま樹下石土に安置する状態となってしまった。
永正14年(1517年)、当時の平等寺住職永源(えいげん)は、これを嘆いて「平等寺薬師堂」を建てた。
時代は室町時代の終わりで、建物が「室町づくり」と言われるのはその為である。
さらに100年を経過する間に戦国時代という変遷があった。
平等寺も天台宗からいろんな宗旨に変わるようなことが続いたり、住職が不在となったことさえあった。
無住が39年続いたというから、その惨状は思い知られる。
万治3年(1660年)春になって、旧三川村石間の曹洞宗正寿寺の3世、骨岩道徹和尚の尽力によって再興することができた。
これは江戸時代のこと。
以来宗旨は曹洞宗となり今日に至っているので、同和尚を中興の開山としている。




大正12年(1923年)2月28日に、国宝の指定を受けた。現在の重要文化財にあたる。
新潟県で一番古いのは、佐渡の蓮華峰寺である。
それについで古い木造建築物であるから、「越後の法隆寺」と言っていいだろう。
けた行三間、はり間4間、一重屋根寄せ棟づくり、茅ぶきの端正な建物で、斗きょう、大虹梁、繋虹梁、大瓶束、拳鼻などの組物や桟唐戸、隅木などに室町時代中期の禅宋様の特色がよくうかがわれ、虹梁の眉や袖切り、錫杖彫りなどにするどく強い優れた手法が見られる。
永正の建立以来何回にもわたって修理されているが、その度に本来の特色を失ってきた。
ことに寛政3年(1791年)の大修理の時か、文化元年(1804年)の屋根総葺き替えの時かに、向拝(仏堂の正面階段の上に張り出したひさし)を付けたのは、最も美観を損するものだった。
すなわち、薬師堂全体は唐様でなだらかな丸みとくぼみを持った屋根であるのに対し、向拝だけは直線の屋根で不調和なものとなってしまったのである。
そのほか破損の甚だしいところもあり、昔の姿にに復元することは地元はじめ多くの人々の念願であった。
その念願が実を結び、国の手で解体工事が行われることとなり、文部省広瀬沸技官の監督指導の下に、昭和26年(1951年)3月31日着工、昭和27年(1952年)8月31日完成した。
この時、旧体に復することができた。
向拝は取り除かれ、内陣には格子戸が立てられた。
なお、萱葺屋根は昭和45年(1970年)に葺き替えられた。
昭和26年(1951年)の解体工事の時、屋根裏から発見された棟札2枚も重要文化財に追加指定された。
また、中央の柱の土台約3尺のところから、中国の古銭が46種、328枚が発掘された。




「平等寺薬師堂」所在地
新潟県東蒲原郡阿賀町岩谷 Google マップ

2012年1月1日日曜日

「第20回 合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会 メッセージボードより Part4」

平成23年10月22日、阿賀町文化福祉会館にて「合唱組曲『阿賀野川』を歌いつぐ会」が開かれた。
記念すべき第20回目となる今年のスローガンは、「届けよう 希望の歌 ~20年分の思いとともに~」。
三川中学校の生徒達は、昭和42年三川村に甚大な被害をもたらした羽越水害の悲しみや復興への希望を、今年7月の新潟・福島豪雨と重ね合わせていた。
当日、会場入り口に設置された生徒達直筆によるメッセージボードから、その言葉の一部を紹介する。




今年の「阿賀野川」は20周年という記念の会なので、今まで練習してきた以上の歌にできるように、表現などにも気を付けながら、思いっきり歌いたいです。
阿賀野川を聞きに来てくださった皆様に私たちの気持ちが伝わるよう一曲一曲心を込めて歌うので、聞いて下さい。
(3年生女子生徒)


今年は20周年でありながら、水害のあった年でした。
それをふまえて私たちは一生懸命練習してきました。
そして三年生にとっては最後の「阿賀野川を歌いつぐ会」なので本番には全校生徒を一つにし、悔いの残らないように全力で歌い、阿賀野川を歌いつぐ会を必ず成功に収めたいと思います。
本日は文化福祉会館に来ていただき、ありがとうございます。
7月の新潟・福島豪雨や東日本大震災への「希望の歌」となるように頑張っていきます。
(3年生男子生徒)