重要文化財「平等寺薬師堂」
「平等寺」は、平安時代の末に武勇で知られた陸奥鎮守府(むつちんじゅふ)将軍 平維茂(たいらのこれもち)が創立した寺と伝えられる。
はじめ天台宗であったが、現在は曹洞宗の名刹となっている。
当初は「平党寺」と書いたのだが、のちに「平等寺」と書くようになったという。
岩谷の水上山に城を構え、越後から信濃・出羽にかけて勢力のあった維茂は、ある時舟に乗って阿賀野川を下った。
「竜の口」という所へさしかかった時、一寸八分(約5.5cm)の黄金の薬師如来が維茂の目に触れた。
輝くばかりの美しさに感嘆し、お堂を岩谷に建てて安置したと伝えられている。
その後200余年を経る間にしばしば水や火の災害にかかり、非常に衰退した為16回にわたって修繕されたが、やはり時の流れとともにますます衰え、薬師如来を雨ざらしのまま樹下石土に安置する状態となってしまった。
永正14年(1517年)、当時の平等寺住職永源(えいげん)は、これを嘆いて「平等寺薬師堂」を建てた。
時代は室町時代の終わりで、建物が「室町づくり」と言われるのはその為である。
さらに100年を経過する間に戦国時代という変遷があった。
平等寺も天台宗からいろんな宗旨に変わるようなことが続いたり、住職が不在となったことさえあった。
無住が39年続いたというから、その惨状は思い知られる。
万治3年(1660年)春になって、旧三川村石間の曹洞宗正寿寺の3世、骨岩道徹和尚の尽力によって再興することができた。
これは江戸時代のこと。
以来宗旨は曹洞宗となり今日に至っているので、同和尚を中興の開山としている。
大正12年(1923年)2月28日に、国宝の指定を受けた。現在の重要文化財にあたる。
新潟県で一番古いのは、佐渡の蓮華峰寺である。
それについで古い木造建築物であるから、「越後の法隆寺」と言っていいだろう。
けた行三間、はり間4間、一重屋根寄せ棟づくり、茅ぶきの端正な建物で、斗きょう、大虹梁、繋虹梁、大瓶束、拳鼻などの組物や桟唐戸、隅木などに室町時代中期の禅宋様の特色がよくうかがわれ、虹梁の眉や袖切り、錫杖彫りなどにするどく強い優れた手法が見られる。
永正の建立以来何回にもわたって修理されているが、その度に本来の特色を失ってきた。
ことに寛政3年(1791年)の大修理の時か、文化元年(1804年)の屋根総葺き替えの時かに、向拝(仏堂の正面階段の上に張り出したひさし)を付けたのは、最も美観を損するものだった。
すなわち、薬師堂全体は唐様でなだらかな丸みとくぼみを持った屋根であるのに対し、向拝だけは直線の屋根で不調和なものとなってしまったのである。
そのほか破損の甚だしいところもあり、昔の姿にに復元することは地元はじめ多くの人々の念願であった。
その念願が実を結び、国の手で解体工事が行われることとなり、文部省広瀬沸技官の監督指導の下に、昭和26年(1951年)3月31日着工、昭和27年(1952年)8月31日完成した。
この時、旧体に復することができた。
向拝は取り除かれ、内陣には格子戸が立てられた。
なお、萱葺屋根は昭和45年(1970年)に葺き替えられた。
昭和26年(1951年)の解体工事の時、屋根裏から発見された棟札2枚も重要文化財に追加指定された。
また、中央の柱の土台約3尺のところから、中国の古銭が46種、328枚が発掘された。
「平等寺薬師堂」所在地
新潟県東蒲原郡阿賀町岩谷 Google マップ