2012年4月19日木曜日

「長谷川 幸平 インタビュー」

阿賀野川ライン舟下り――。
悠々と流れる阿賀野川を、四季折々の表情を映す渓谷美を眺めながら旅をする。
その案内役は、阿賀野川を愛する個性豊かな船頭たちだ。
その船頭衆をまとめる御歳80歳の長谷川船頭長は、“阿賀野川は自分にとって「生きがいだ」”と熱く語る。




三途の川原も、俺が舟渡しするこって。


――長谷川さんご出身はどちらですか?

俺はね、旧安田町の千唐仁(せんとうじ)というところで生まれました。
千唐仁と言うと、船乗りの村なんだよ。
俺も戦争が終わると同時に、舟乗りを始めたわけです。
あれは15、6歳の頃だろっかね。
もともと舟が大好きだったんだけど、川も好きだったんだね。
年中、学校から帰ってきては舟ばっかり乗ってたもんだ。
「舟遊び」と言っても、釣りとかそういうのじゃなくて。
要するに、早く舟を上手に乗れるようにとにかく乗るんさ。
だから、竿1本さえあればどんなところだって行ったもんだよ。


――そんな長谷川少年が、どのように船乗りになっていったのですか?

18か19歳ぐらいになると、小舟で石や砂利を積んで、金になる仕事を始めました。
護岸工事とか、まぁ土木の仕事だね。
それから今度はエンジン付きの大きい船に乗るようになり、新潟へ通うようになります。
ここの国道49号線がまだ舗装もされていなかった頃は、みんな船でもって運んでたんだよ。
でも道路がだんだん良くなってきて、橋も架かるとトラックが運ぶようになってきた。
船とトラックが競合しあうようになってきたわけだけど、やっぱり船は負けてしまった。
だからもう撤退するしかなかったんだね。
だんだん船が消滅していく中、今度は観光船として活躍する場が出てきました。
ちょうどここ「阿賀の里」ができたのもその頃でした。


――ちょうどいいタイミングだったんですね。

当時、船の運送から撤退した船乗りが16~7人集まったんだ。
あの時は景気も良かったんだわ(笑)。
船が15、6杯はあったんさ。
毎日フル稼働だったよ、お客さん満杯に乗せて。
芸能人もいっぱい来たんだけどね。
今じゃさっぱり来なくなった(笑)。
ボクシングの輪島が来たことあったね~。
俳優の橋爪功も来たね。
有名人はファンがいっぺぇいるから、顔隠してさ(笑)。



――船頭長とはどのような役職なのですか?

今「長」が付くほど従業員もいねぇんだけどね(笑)。
以前と違って「支配人」がいるから、俺の出番もあんまりなくてね(笑)。
俺の前に頑固オヤジの船頭長がいてさ(笑)。
船を大事に使う人でね、ぶつけて傷でも付けると怒られるんだ。
“船ぶつけるぐらいだったら、自分の手足を挟んででも守れ!”
“船は一生の傷。人間の傷は薬付ければ治る!”って言ってね(笑)。
“今日休ませてください”なんて言うやつがいると、“盆までずっと休んでろ!”って言ったりね(笑)。
厳しい人だったよ。


――船に乗る時気を付けてる事などありますか?

そうだねぇ…。
「川に落ちない事」だな(一同爆笑)。
いやでもね、酔っぱらったお客さんが乗船場で落ちたこともあるからね。
船の事故もおっかないよ。
だから防災訓練なんかも、きちんとやってるんだ。
去年は新潟日報に訓練の様子が載ったしね。
もっと昔はヘリコプター飛ばして、「遭難した」という想定でやったりもしたなぁ。


――今後のライン下りに望むことはありますか?

去年の水害で地形がだいぶ変わってしまって、「舟下り」が今できない状態なんだよね。
浅瀬のところは、重機で砂利を掘り起こしているんだけど、まだまだ時間がかかりそう。
あと5年はかかるだろうね。
それまでは「舟下りコース」ではなく「遊覧コース」でしか運航できない。
乗船場も壊されてしまって、使い物にならない。
早く元のように復活してさ、お客さんもたくさん来てもらいたいんだけど。
ガイドも大変なんだよ。
「遊覧コース」じゃ同じところぐるぐる回るだけだからね、話のネタに困ってしまう(笑)。


――さて、それでは最後に、長谷川さんにとって阿賀野川とは何でしょう?

「生きがい」だね!
本当に川が好きだからね。
小学校5年生ぐらいから船に乗って遊んでたんだもん。
三途の川原も、俺が舟渡しするこって(笑)。
生涯船乗りだから、あの世でもね。
三途の川は無免許でもいいみたいだからね(笑)。



長谷川 幸平
1932年生まれ
新潟県阿賀野市(旧安田町)出身
阿賀野川ライン舟下り船頭長
船頭衆の中では最年長、生涯現役を貫く