羽越水害を体験した少女の作文をきっかけに合唱組曲「阿賀野川」は誕生した。
当時まだ中学3年生だった彼女はやがて大人となり、この合唱曲を聴くこととなる。
平成20年、彼女は合唱組曲「阿賀野川」を歌い継いでいる三川中学校の生徒に宛て、手紙を送った。
羽越水害が決して風化されないようにと願い、自身の生々しい体験も綴っている。
拝啓
あれから四十年の月日が流れていますが、八月二十八日の夜から八月二十九日の朝までのことは私の心に恐怖となって住み着いたままです。
二〇〇四年八月、新潟市民芸術文化会館にて初めてこの組曲を聴きました。
当時の三川村教育長様よりお電話をいただき、私の中学校卒業文集「文の丘」の作文「思い出したくない」が、その歌が作られるきっかけにもなっているので、是非お越しくださいと声をかけていただきました。
当日、歌を聴いているうちに、遠い十四歳の一日を新たに体験しているような息苦しい、そして悲しい時間でした。
そしてコンサートのすべてが終わって会場の外に出たとき、新たに涙があふれてきましたが、それは先程の涙と違い、生きてずっと人生があるという感謝の涙でした。
大勢の方々がこの歌に心を動かされ、活動をなさっていると聞きました。
今でも、その時の事を言葉にしようとすると全く声が詰まって無理なのですが、書くことであれば何とかと思い、歌う方の何か参考になればとペンを走らせています。
あの夏の日、ただただ強い雨が何日も続き、学校も早上がりとなった。
バスの中から見た新谷川(あらやがわ)は、いつものやさしさは、どこを探しても見当たらず、激しく大きな川に見えました。
家に帰ると、消防団長だった父を囲み、役員、団員の人達が見回りに行ったり、話し合ったりといつもと違う表情だったことを覚えています。
「いままでになかった事だぞ」
「堤防が危ないぞ」、
誰ひとり自分の家のことを口にすることもなく、ぎりぎりまで出来る限り走り回っていました。
「いいか、ここを動くなよ」
父は私達にそう言い残すと皆と一緒に飛び出して行きました。
その後、村中にいつまでもいつまでも半鐘が鳴り続けました。
まるでブランコのように揺れるやぐらの上で、「逃げろ!逃げてくれ!」との思いでたたき続けたと、後になってその人は話してくれました。
残った私達は、身の回りの物を二階に運んだりウロウロしていましたが、現実に起きている事がまるで実感として受け入れられずにいました。
疲れて蒲団に身体を横たえてうとうとしたと思ったら首の後ろ、足の先までピチャピチャと水が入り込んで飛び起きて茶の間を見ると、かまどの灰が水圧で突き上げられ、天井まで吹き上がりました。
「ああ…死ぬ?」
その時、歯がガタガタと鳴り出し、目は開いたまま、目の前の様子を見ていた気がします。
階段は水に濡れ始め、二階から向かいの家を見ると、押し寄せる水を必死で止めようとする人達が戦っています。
どれくらい時間が経ったでしょう。
「おーい、百合、美、修二!」
ゴーゴーとうなる川の向こうから私達を呼ぶ父の太い声が聞こえて来ました。
「早く早く降りて来い!」
茶の間は腰まで水が流れ、玄関に行くと、ずぶずぶと胸まで水が上がりました。
父の差し出す竹竿に夢中でつかまり「何があっても離すなよ!」という父の背中だけ
を見て、前へ前へと…水圧で浮き上がる身体を腰に力を入れて「負けるもんか」 「負けるもんか」
「逃げろ、おーい」
父は叫びながら石垣の上にある家に私達を連れて行きました。
外に飛び出した父を見て、「まさか!」最後の最後に私達を迎えに来たのに
「父ちゃん、もういいろ、行くな、死んでしまうよ」
私は泣き叫びながら、父の法被(はっぴ)にしがみつきました。
「何言ってんだ、行がんばねんだ!」
ものすごい顔でそう言うと真っ暗な中にずぶずぶと埋まっていくように見えた。
二階から下を見ると、自分達のいる家が渦の中にいるような錯覚を覚え、気持ちが悪くなった。
その家のお父さんが
「あの柿の木のあの枝が見えなくなったらこの家は浮いてしまう。そうしたら屋根に登れ!何かにつかまって」
その後の言葉は消えてしまった。
恐ろしく長い闇が続いた。
急に目の前が明るくなり、人々の声が耳に飛び込んで来た。
「ひどいもんだ、みんな流れていく」
「そんな!」私は、はだしのまま自分の家の前に立った。
というか家のあったはずの場所、そこには根こそぎ土がえぐれ、建てたばかりの家は、父の目の前でくずれ、流れていった。
夜中から川原の方の家から次々と飲み込まれ、私の家は最後の最後に何一つ出すこともできずに…。
ここまではまるで焼き印を押したように、はっきりと記憶にある。
ただ、その後どんな風に月日を過ごしたのか?
毎日、ヘリコプターが頭の上を回っていた事、小学校のグラウンドが岩の山だった事、炊き出しのおにぎりものどを通らなかった事、写真の一枚のように浮かぶだけ…。
学校が始まり最初の授業があの日の事を作文に書くことだった。
先生が具体的に書いてある私の作文を読んでみなさいと…。
私は最初の一言を口にしただけで泣き出してしまい教室を飛び出してしまった。
四十年前のその日から、そのまま閉じ込めてあるだけ?
私にもよく分からないのです。
昨年の九月三十日、三川中学校でこの歌を聴く機会がありました。
子ども達と合唱団の人達の声は、そのまま四十年前のその日に私を連れて行きました。
ボロボロただ涙が流れてきます。
歌声はやさしく私を包み、舞台の上から
「もう大丈夫ですよ」 「応援していますよ」
そんなふうに言ってもらっているような不思議な一体感でした。
水害を経験したことで、人生は変わってしまったかも知れませんが、私が言いたいのは、こんなに苦労したとか、大変だったということではないのです。
“それでも私は生きている”
あの日、濁流に呑み込まれ命を落とした中学三年生の同級生板屋越文子さんを想えば、とてもそんなふうには言えない。
激しい川の流れに遠い遠い所まで連れていかれ発見されたのは、一年の後のことだったのです。
私の集落でも家の後方が崩れ、亡くなられた方がおられました。
三川村全体では十八人の方が亡くなられました。
辛い出来事でしたが
“それでも私は生きている”
妻となり母となり祖母となり、今有り難く毎日を感じて暮らしています。
その方々の無念を思うと苦しくなります。
毎日、それを考えているわけではありませんが、苦しい時、悩んで立ち止まった時、悩むことすら出来ずに逝ってしまった文子さんや村の人を思います。
「私は生きているじゃない」と…。
水害の話が出たときは必ず文子さんたちとの言葉にしたい。
想い出すことが彼女に届くような気がするから…。
私は今こうしてその日のことを文字にしていますが、場所や時間は多少違ってもあの日、皆、あの水害を身体に体験しているのです。
今まで家族で、あの日のことを語り合うことは全くなかったのですが、今回、父に私たちを高台の家に託してからどうしていたのか初めて聞きました。
「夢中だった。とにかく残っている人はいないか?年寄りは大丈夫か?」
学校の方に向かって一軒一軒声を掛けながら、流されながら必死だったと…。
父はやはり多くは語りませんでした。
「あの日から、皆頑張った。すごい団結力だった。皆に感謝している。団長としての重圧と責任感は言葉には…」。
大勢の人たちの助けを借りて、今ここにいる気がします。
ふる里、村の人たちは今もやさしい、三川の大らかな山、川、どうか、いつまでも穏やかでいて欲しい。
このときの水害の歌を歌い継いでゆく皆様、この手紙が歌うときの何かのお手伝いになれば幸いです。
読みづらい所も多々あるかと思いますが…。
皆様のご健康を願い、ますますのご活躍をお祈り申し上げます。
敬具
二〇〇八年二月九日
三川中学校 昭和四十二年度卒業生
大屋 美智子(旧姓 斎藤)
※当記事の内容は、大屋様と三川中学校の許可を得てここに掲載させて頂いております。