昭和42年8月――。三川村を集中豪雨が襲い、死者、行方不明者合わせて18名を出した。
この羽越災害の体験をもとにして書かれた中学3年生の作文は、のちに合唱組曲「阿賀野川」誕生のきっかけとなる。
あれから40年以上もの月日が流れたが、当時のことは今でも“思い出したくない”と彼女は語る。
“それでも何かのお役に立てれば…”と、合唱組曲「阿賀野川」を歌うすべての人達へ伝えたいメッセージとは。
(前編)
まったく人間の力が及ばない自然災害に対しては、人は何も反撃もできないし、受け入れるしかないんですね。
――大屋さんが中学3年生の頃に書かれた作文「思い出したくない」が、合唱組曲「阿賀野川」誕生のきっかけになったそうですが。
そうなんですってね。
2004年にこの曲を初めて聴くまで、そのことは知りませんでした(笑)。
でも、新聞か何かでその詩を読んだことはありましたよ。
一度紹介されてるんですよね。
初演発表会の頃じゃなかったでしょうか。
“なんで、私と似たような体験した人がいるんだろう、同じ言葉がここにあるんだろう”って思ってました。
その時、作文を書いたことなんて忘れてましたからね。
まだ水害から何ヶ月も経ってなかったけど、授業が始まってすぐ書かせられたんです。
他のみんなは違うことを書いてたみたいでしたね。
水害後、学校が休みになってた間のこととか。
私は、水害の日のことを書けと言われたと思ったんでしょうね。
“こんな辛いことを書かせる先生はおかしい!”って思いながらも書いたんです。
そしたら、“あの夜のことを作文に書いたのは斎藤だけだから、みんなの前で読んでくれ”って担任の先生が言うんです。
何とか読もうと思って、立ったんだけど読めませんでした。
“先生なんか信じらんない!!”みたいな暴言吐きながら、泣いて教室を飛び出しました(笑)。
でも、その作文が文集として今も三川中学校にずっと残ってるなんて、驚きましたね。
――2008年には、合唱組曲を歌い継いでいる三川中学校の生徒さんに宛ててお手紙も書かれていますよね。
はい。私が田舎へ帰った時に、従兄弟の子供達がちょうど中学生で。
“歌ってるんだけど、ちっともわからない”って話してたんですよ。
実体験があるわけでもないし、詩の捉え方や感覚が難しくって歌いづらいと。
私が15歳の時書いた作文を、生徒みんなが読んでるわけでもないしね。
だから掻い摘んででもいいから、水害の状況と、“生きてるだけで幸せなんだ”ってこと。
それをわかってくれたらなぁと思ったら、手紙を書かずにはいられなくて…。
後でまとめようとも思ったんですけど、今歌ってる中学生達に、早く読んでもらいたいという気持ちで書きました。
――水害を体験したことのない世代にしてみれば、第三曲「羽越大災害」の詩はショックですよね。
8月の28日から29日の明け方でしたね。
夏休みの終わりが近付いて、もうすぐ学校だっていう頃。
ただあまりにも強い雨が、毎日毎日降り続いてました。
私の家のすぐ裏を流れている新谷川は、現在と違って昔はもっと狭い川でしたが、橋の上を越えて流れていました。
消防団が川を挟んで二手に分かれ、避難誘導をしてました。
火の見やぐらに上って半鐘を鳴らしてたのは、私の叔父です。
一番高いところだから、川に流されてる人が見え隠れしてたそうです。
“凄まじかった”って言ってましたね。
火の見やぐらに上ったっきり、水流がものすごくて揺れるから降りれなくなって。
今度こっち側に揺れたら竹やぶに飛び移ろう、今度こっち側に揺れたら落ちるかもしれない、と必死だったそうです。
ただもう半鐘は鳴らし続けたって言ってました。
私の記憶でも、その半鐘が鳴って鳴って…。
ずっと鳴ってたことが焼き付いてますね。
もう村中が川でした…。
――水害の後はどのように暮らしてたのですか?
当時は毎日ただ暮らすのに夢中でね。
復旧作業をしている時の方が、気は紛れていました。
ひと月くらい経って落ち着いてくると、自分の家に戻ったり、親戚の家に寄せてもらったりする人が徐々にそこを離れていくんです。
なんだか急に寂しくなりましたね。
私は友達とみんなで、小学校のグラウンドにできたプレハブに住みたかった。
学校が終わっても隣に住んでる友達と会えて気も紛れると思ってたんです。
でも、父親が“そこには行かない”と言った時は、残念だったように覚えてます。
今思えば、個人のプライバシーはなかなか守れないし、大変なストレスになったかもしれませんね。
私の家族は、村のはずれにある物置き小屋に住みました。
外にトタンを貼って、中にお風呂を作って…。
夏は星が見えて、冬は雪が入ってきて…。
そんな生活でした。
屋根の隙間から蜂が入ってきて刺されたりしたこともありましたよ。
冬は寒くて、布団の縁なんか凍みてね。
不思議な経験ですね…。
――中学生にはとても辛い生活だったでしょうね。
こういう話は、もう40年も経って話すから“凄かったなぁ”って思うけど、その時は全部受け入れてたんでしょうね。
辛いとか感じませんでしたからね。
まったく人間の力が及ばない自然災害に対しては、人は何も反撃もできないし、受け入れるしかないんですね。
テレビなんか観てても、3月の地震、津波で皆さん大変な思いをされてますけど、船に乗ってた方は“また船に乗る”って言うし、“海を恨めない”って言ってた方もいましたね。
私、その意味がとてもよくわかります。
人ってなんて優しいんだろうなぁって…。
自然に対しては何も恨みや辛みを言わないですよね。
この自然の猛威を、受け入れて前へ進むって言うか…。
凄いことなんでね、何も無くなっちゃうって…。
ああまで何も無くなっちゃうと、あまりにも凄過ぎて普段の愚痴すら出なくなるんです。
ずっと住んでたところが、朝行ったら河原になってた…。
そうなると、もう欲なんて何も出ないですね。
“ああ、こうやって手足あって生きてるだけでありがたい”と…。
<後編を読む>
大屋(旧姓:斎藤) 美智子
1952年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
昭和42年度三川中学校卒業生
現在は新潟市中央区にて寿司屋を夫婦で営んでいる