2011年12月16日金曜日

「清野 和也 インタビュー」

合唱組曲「阿賀野川」は、平成3年の初演発表会から三川中学校の生徒らによって、長きに渡り歌い継がれてきた。
それはまさに「先輩から後輩へ」と、20年分の伝統を積み重ねてきた、いわば歴史そのもの、財産である。
ともに学び、ともに歌い、お互いの成長を競い合って中学校生活3年間を過ごした彼らの共通言語は、今でも「阿賀野川」なのだ。
平成3年度から現在に至るまで、卒業生のインタビューをシリーズで掲載する。




――まず、「阿賀野川」との出会いを教えてください。

はい。中学1年生になるとすぐに合唱曲の存在を知りました。
音楽の授業の時に、あの緑の分厚い楽譜が配られたのを覚えてます。
“これからどんな曲を歌っていくのだろう…。”という不安があったかな、最初は。


――なるほど不安ですか。でも清野さんの出身小学校では、合唱が盛んだったとお聞きしたのですが。

そうですね。
確かに郡の合唱コンクールでも、アカペラで歌う小学校なんてのは珍しかったですね。
僕らの頃は、「君をのせて」という「天空の城 ラピュタ」の曲を歌いました。
宮崎アニメが好きだったので、一生懸命練習しましたね。
だから、小学校でそこまでやってた分、熱心な気持ちもあったのかもしれませんが、やっぱり不安の方が大きかったですね。
“ホントにこの楽譜で5曲もやるの?”っていう。
やっと1曲歌えるようになるまでも、苦労しましたからね~。


――授業ではどんな思い出がありますか?

先生の怒鳴り声!(笑)
1年生の頃は先生が厳しかった、という記憶しかないですね。
2、3年生になると先生も変わって、また教え方も違ったわけですけど。
とにかく1年生の時の印象が強いです。
“怒られないように…”ってみんな頑張ってるんだけど、なかなか上手く歌えなかったりして。
先生が怖かったですね。



――20年間歌い継がれてきたことについては、どのように感じますか?

三川村は新潟の中でも小さい村でしたけど…。
その中で20年間も、同じ歌が後輩たちに受け継がれているっていうのは、やっぱり僕たちにとっても誇りに思うし、嬉しく思っています。
僕は中学生の頃、合唱団に在籍していたこともあるんです。
でも高校へ通うとなかなか続けられなくて、一時期遠ざかるんですが。
2004年、新潟市のりゅーとぴあで開催された「【阿賀野川】コーラスサミット2004」に、仕事で関わる事になって。
約10年ぶりぐらいに「阿賀野川」を聴いて、とても懐かしい気持ちになりました。
りゅーとぴあのような大きな会場で、三川村の合唱団が歌ってることには、当時感激しましたよ。


――思い入れが特に強い曲はありますか?

第三曲の「羽越大災害」です。
昭和42年の水害の様子を、歌で表現するのは非常に難しいことでした。
また、曲のテンポ(速さ)も極端に速くなったり、遅くなったりして、なかなか上手に表現ができなかった。
曲自体も決して明るい歌ではないんだけれど、僕は「水害のことを風化させたくない」という気持ちで歌ってましたね~。


――阿賀町の魅力を教えてください。

春は山菜がおいしいですし、夏は川遊び。魚獲ったりね。
そして秋は美味しいお米やきのこ、冬は三川スキー場ですね!
このように四季の楽しみが一年中味わえる町ってことです。


――清野さんにとって阿賀野川とは何でしょう?

組曲の最後は「光にむかって」という明るい歌で締めくくっています。
水害の後でも村人が一致団結して、苦難を乗り越えてきたわけですよね。
阿賀野川は、その当時の人々の強い気持ちを感じさせてくれる川ですね、僕にとっては。
一言で言えば「希望」でしょうかねぇ。


――合唱×ROCK「阿賀野川」のプロジェクトについてはいかがですか?

ホントに合唱とROCKってまったくかけ離れていますよね。
合唱と言えば、結構固い歌ってイメージですけど、それがどんなふうにROCKと混ざるのか。
果たしてどんな曲になるのか、好奇心でいっぱいです。
ぜひ早く聴いてみたいと思っています。
大変でしょうけど、頑張ってください。



清野 和也
1979年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
平成6年度三川中学校卒業生
パート:バス
阿賀町役場 三川支所 三川地域振興課