阿賀野川ライン舟下り――。
悠々と流れる阿賀野川を、四季折々の表情を映す渓谷美を眺めながら旅をする。
その案内役は、阿賀野川を愛する個性豊かな船頭たちだ。
その船頭衆をまとめる御歳80歳の長谷川船頭長は、“阿賀野川は自分にとって「生きがいだ」”と熱く語る。
三途の川原も、俺が舟渡しするこって。
――長谷川さんご出身はどちらですか?
俺はね、旧安田町の千唐仁(せんとうじ)というところで生まれました。
千唐仁と言うと、船乗りの村なんだよ。
俺も戦争が終わると同時に、舟乗りを始めたわけです。
あれは15、6歳の頃だろっかね。
もともと舟が大好きだったんだけど、川も好きだったんだね。
年中、学校から帰ってきては舟ばっかり乗ってたもんだ。
「舟遊び」と言っても、釣りとかそういうのじゃなくて。
要するに、早く舟を上手に乗れるようにとにかく乗るんさ。
だから、竿1本さえあればどんなところだって行ったもんだよ。
――そんな長谷川少年が、どのように船乗りになっていったのですか?
18か19歳ぐらいになると、小舟で石や砂利を積んで、金になる仕事を始めました。
護岸工事とか、まぁ土木の仕事だね。
それから今度はエンジン付きの大きい船に乗るようになり、新潟へ通うようになります。
ここの国道49号線がまだ舗装もされていなかった頃は、みんな船でもって運んでたんだよ。
でも道路がだんだん良くなってきて、橋も架かるとトラックが運ぶようになってきた。
船とトラックが競合しあうようになってきたわけだけど、やっぱり船は負けてしまった。
だからもう撤退するしかなかったんだね。
だんだん船が消滅していく中、今度は観光船として活躍する場が出てきました。
ちょうどここ「阿賀の里」ができたのもその頃でした。
――ちょうどいいタイミングだったんですね。
当時、船の運送から撤退した船乗りが16~7人集まったんだ。
あの時は景気も良かったんだわ(笑)。
船が15、6杯はあったんさ。
毎日フル稼働だったよ、お客さん満杯に乗せて。
芸能人もいっぱい来たんだけどね。
今じゃさっぱり来なくなった(笑)。
ボクシングの輪島が来たことあったね~。
俳優の橋爪功も来たね。
有名人はファンがいっぺぇいるから、顔隠してさ(笑)。
――船頭長とはどのような役職なのですか?
今「長」が付くほど従業員もいねぇんだけどね(笑)。
以前と違って「支配人」がいるから、俺の出番もあんまりなくてね(笑)。
俺の前に頑固オヤジの船頭長がいてさ(笑)。
船を大事に使う人でね、ぶつけて傷でも付けると怒られるんだ。
“船ぶつけるぐらいだったら、自分の手足を挟んででも守れ!”
“船は一生の傷。人間の傷は薬付ければ治る!”って言ってね(笑)。
“今日休ませてください”なんて言うやつがいると、“盆までずっと休んでろ!”って言ったりね(笑)。
厳しい人だったよ。
――船に乗る時気を付けてる事などありますか?
そうだねぇ…。
「川に落ちない事」だな(一同爆笑)。
いやでもね、酔っぱらったお客さんが乗船場で落ちたこともあるからね。
船の事故もおっかないよ。
だから防災訓練なんかも、きちんとやってるんだ。
去年は新潟日報に訓練の様子が載ったしね。
もっと昔はヘリコプター飛ばして、「遭難した」という想定でやったりもしたなぁ。
――今後のライン下りに望むことはありますか?
去年の水害で地形がだいぶ変わってしまって、「舟下り」が今できない状態なんだよね。
浅瀬のところは、重機で砂利を掘り起こしているんだけど、まだまだ時間がかかりそう。
あと5年はかかるだろうね。
それまでは「舟下りコース」ではなく「遊覧コース」でしか運航できない。
乗船場も壊されてしまって、使い物にならない。
早く元のように復活してさ、お客さんもたくさん来てもらいたいんだけど。
ガイドも大変なんだよ。
「遊覧コース」じゃ同じところぐるぐる回るだけだからね、話のネタに困ってしまう(笑)。
――さて、それでは最後に、長谷川さんにとって阿賀野川とは何でしょう?
「生きがい」だね!
本当に川が好きだからね。
小学校5年生ぐらいから船に乗って遊んでたんだもん。
三途の川原も、俺が舟渡しするこって(笑)。
生涯船乗りだから、あの世でもね。
三途の川は無免許でもいいみたいだからね(笑)。
長谷川 幸平
1932年生まれ
新潟県阿賀野市(旧安田町)出身
阿賀野川ライン舟下り船頭長
船頭衆の中では最年長、生涯現役を貫く